〜ねえ、知っている?
最近噂になっている、悲しい切り裂きジルのこと〜
ある日、隣でブランコを漕いでいたあの子が言った。唐突な質問の意味が分からなくて、僕は思わず聞き返したんだ。
〜ジル?ジャックじゃなくて?〜
〜そうよ。だってあの子は女の子だもの〜
あの子は当然のように言って、ぐるんとブランコを一周させる。僕には到底届かない身軽さに、少しだけ目眩がした。だけど僕は、何も気付かないフリをして答える。
〜だったら知らないな。僕の知ってる切り裂きジャックとは別人だね〜
〜ええもちろん。それは過去の伝説でしょう?切り裂きジルは今ここに、この世界に存在する。悲しい悲しい女の子〜
〜悲しいのかい?〜
〜悲しいの。彼女はいつだって、紅い涙を流すのよ〜
〜どうして泣くんだい?〜
〜痛いから。痛くて痛くて、そして悲しいの〜
〜どうして痛い?切り裂きジルの刃は、どこに向かっているんだい?〜
突然、あの子が僕のブランコを掴んだ。急に止められた反動で、がくんと身体が揺れる。
〜あなたは質問ばっかりね。少しは自分で気付くことも覚えないと〜
〜ごめん。でも本当に分からないんだ〜
そういえば、あの子はいつの間に降りたんだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、僕はあの子を見上げた。
〜分かりたいとは思ってるの?〜
あ、怒ってる。あの子は眉ひとつ動かさなかったけれど、僕は慌てて付け加えた。
〜思ってるさ。だって君の言葉だ。君の言葉が分からないのは、どんな拷問よりも辛いんだ〜
〜ふうん。それがお世辞じゃないといいけど〜
ねえ。気付いてないと思ってる?嬉しそうにそう言ってブランコを離した君の、右手に残る無数の傷跡。僕だって、案外聡い方なんだ。
それとも、わざと僕に見せたのかい?
あの子はぱたぱたと駆けていく。だけれど急に振り返って、追いかけて来ない僕を不満そうに見つめた。
面倒臭いなあ。そういう所だけは分かりやすいんだから。
〜話を始めたのは君だ。最後まで教えてくれよ〜
〜それもそうね。でも、どこまで話したかしら?〜
〜切り裂きジルの、刃の行先についてだ〜
〜ああ…〜
あの子は遠くを見る。自分から言い出したくせに、まるで、答えたくないみたいに。
それから長いこと、あの子は黙っていた。
〜なんだよ〜
〜えっ?〜
たまりかねた僕が言葉を吐くと、あの子はまるで眠りから起こされたみたいに間抜けな声を出した。会話を勝手にやめてしまうのは、あの子の悪い癖だ。僕は半ばうんざりしながら、質問を繰り返す。
〜さっきの話さ。切り裂きジルの刃の向かう先は、一体どこなんだ?〜
〜ああ、それはね。こーこ〜
さっきまでの時間が嘘だったみたいに軽い口調で答えたあの子は、自分の首を指さした。
〜切り裂きジルはね、自分の喉を切り裂くの。綺麗じゃない声はいらないから。可愛くない顔もいらないから。だけど1番はね。ジャックに見てほしいから〜
そう言ってあの子は違った小石を拾い上げ、自分の頬に滑らせた。
〜やめろ!〜
慌てて止めた僕の手に抵抗することなく、あの子は小さく笑う。
〜ね?びっくりするでしょう?その時間だけは、あなたの視線はあたしのものなの。本気で怒ってくれるのが、また愛おしかったりしてね〜
あの子の頬に流れる線。傷は深くないだろうけれど、滴る液体は真っ赤だった。
〜ジルはジャックに気付いてほしいの。ジャックの視線が離れるのが怖いの。本当は愛されていないことを知りたくなくて、わざとびっくりさせるのよ。何度も、何度も〜
〜とんだ狼少年だな〜
〜あらいやだ。さっきも言ったでしょう?ジルは女の子よ〜
〜言葉の綾じゃないか。ジャックは毎回びっくりしてやるのかい?〜
〜ええもちろん。ジャックはジルを愛しているから。そうでなくちゃ〜
あの子はまた言葉を切った。全く。愛されたくて仕方がないんだな。
〜そうでなくちゃ?〜
〜そうでなくちゃ、ジルがあまりに可哀想でしょう?〜
〜じゃあ、本当のところはジルにも分からないんだな〜
〜当たり前じゃない。愛の居所なんて、本人にだって分かりっこないわ〜
あの子はまたぱたぱたと走り出す。今度は、またブランコの方へ。
がしゃん。今度は立ち乗りか。
きぃ、きぃ。あの子はまた、大きく身体を揺らし始める。
〜で、どうしてそんな話を僕にした?〜
〜別に。知ってるかなと思っただけよ〜
〜意味のない雑談ってわけか〜
〜ええ〜
〜おかしな話だな。たった今出会ったばかりの人間に〜
〜ごめんなさいね、引き留めて〜
〜それはいいさ。おかしな話だが、楽しくなかったわけじゃない〜
〜そんならよかった〜
あの子はまた、ブランコを一周させた。深夜の公演に、鎖の派手な音が響く。それが何故だか断末魔のように思えて、僕は言葉を吐いた。
〜ねえ〜
〜なあに〜
〜切り裂きジル、死んでしまったりはしていないよな?〜
がしゃあん。天地がひっくり返るような音を立てて、ブランコは再び一周した。
〜もちろん。あたしがこうやってあなたと話しているのが、何よりの証拠だわ〜
気がつくと、あの子は僕の目の前にいた。
〜僕はジャックじゃないよ〜
〜どうかしらね〜
〜なんだよそれ。まるで〜
〜さよなら〜
あまりにも唐突に、あの子は言った。「え?」と聞き返す間もなく、あの子はもういなかった。
深夜の公園のすみっこで、僕は1人きりだった。
街灯に照らされた右手を見ると、紅い跡が小さくついていた。あの子の血の跡だ。それに、あの子が頬を傷つけた鋭い小石もまだ握られている。
〜まるで、君が切り裂きジルみたいじゃないか〜
言わせてくれなかった台詞。言わせてくれなかったという事そのものが答えであるような気がして、僕は小石をポケットにしまった。
あの子が漕いでいたブランコ。まだ大きく揺れているそれを、左の手で捕まえる。そのまま、身体を半回転させて腰を下ろした。
今夜はやけに長い。だからこのまま、こうしていようか。このまま長い時間をかけて夜が明けて、それでも僕はまだここにいて、それからだんだん暗くなって、明日の夜になったらまたあの子が現れて、意味の分からない世間話をしてはくれないだろうか。
いや、このまま夜が明けなければ尚のこといい。あの子の余韻に沈んだまま、この命を終えてしまえたらいいのに。
それでも当たり前に夜は明ける。僕は、すっかり僕の体温になったブランコを見下ろして家路につく。
結局、切り裂きジルは誰だったんだ?