文法 | 伝えたい人、音にならない考え事

伝えたい人、音にならない考え事

演劇、表現活動での色々。独りよがりだけど伝えたい、そんな支離滅裂。

宣伝をしようと思ったのだけど、何せ1年以上ぶりの客演なもので、ただの役者として座組に関わることも久しぶりで、なんだか思考がずっと流れている。



久しぶりの客演舞台、コルバタ合同公演十万喜組『PEEKABOO CATHARSIS』

作・演出の十万喜さんは「覚悟」という言葉をよく使う。同じ日本人でも人それぞれの文法がある。まだ関わりは深くないけれど、十万喜さんの文法には、強い言葉が多いように思う。そしてその影響なのか、共演者の方々にも似た文法を使う方が多い印象である。この感じ、とても久しぶり。
違う文法を持つ人間同士が共鳴しあうには、どうしたらいいんだろうとか、そんなお話。

いきなり余談だけど、私は強い言葉を使うのは得意ではない。殊希望的な強い言葉には、なんだか責任が持てないような気がしてしまうから。舞台の宣伝でよく使われる「絶対面白い」「見ないと損」「後悔はさせない」はその典型である。「仲間」「友達」といった言葉も苦手。希望的な強い言葉の持つ力は、それを守れなかった時の怖さと紙一重だから。常日頃から予防線を引きがちな私にとってみれば、ハードルの高い文法である。

しかし世の中には、特にエンタメの世界には、強い言葉を平然と使う人が沢山いる。その言葉達が、その人が生きるために使ってきた武器であり、その人を形作る文法なんだろうな、と思う。強い言葉を使える人は、強い言葉で考えられる人なんだ。そういった人々には素直に憧れる。

強い想いには強い想いで返さなければ失礼だろうと思う。同じ作品に関わる人間であれば尚更、温度差はなるべく小さい方がいい。時には自分の気持ち以上に強い言葉を出すことも必要なんだろう。リーダーが士気を上げるために大声を出す、本来の自分はさておきリーダーらしく振る舞う、みたいな。

苦手だ、と思う。「やる気を出す」みたいなことと似ているのだけれど、自分の感情以上に思い通りにならない物もそうそうないんじゃなかろうか。やる気がないわけじゃないし頑張ろうとは思うのだけれど、そのレベルが同じ座組みにいる人達と揃っていられているのか、自信が持てない。
かくいう私も、逆の立場でその温度差を味わったことは何度かあるので、どうしたらいいのか日々考える。意思の疎通とは難しい。


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「覚悟」という言葉について。この場合はどういう意味なんだろう、と考える。ただがむしゃらに頑張ること?全てを投げ打って捧げること?全てってなんぞ。

申し訳ないのだけれど、私は芝居において「命を賭ける」とはなかなか言えない。身体も心も強い方ではないのでそれで迷惑をかけながら舞台に立ったこともあるし、自分の身体が原因で本番を一つ落としてしまった経験があるから。責任が取れない可能性を分かってしまったから。もちろん、もう2度と同じことは繰り返したくないと思っているけれど、一度抱いた恐怖心はそう簡単に抜けるものではなく。

考えれば考えるほど、揚げ足取りみたいになってきて嫌だ。でも、分かってないのに分かったような顔をするのも嫌だ。結局文法なんて人それぞれなんだから、理解できない前提で生きた方がいいのかな、とか。理解しようとすることを諦めるのも違うな、とか。もやる。


元より演劇の世界にいる動機が不純なもので、きっと芝居そのものを愛している人には足元にも及ばない場所を這いずっている感覚。その劣等感はずっとあって、それでも自分の核であるような気もして、定期的に考える。及ばないから、関わり方にはより慎重にならなければいけないな、と。

まあ、まだ稽古が始まって1ヶ月も経たないうちから明確な結論など出るわけもなく。
自分なりに、という言葉はひどく都合のいいものに思えるけれども、それでも私なりに、この場所と誠実に関わっていくためには、を考える。技術も思いも劣るなら、持てるもので戦うしかないわけで。なんだか、ひどく冷たい結論にたどり着いたな。
重ねて言うけれど、頑張ろうとは思っている。文法理解も、今後進めていければまた違うものが見えて来るかも知れないし。先のことなど分からないのだから、今できることを粛々とこなすのみなのだ、となぜか前向きなことを語ってみたり。

これ、宣伝じゃないな。ただの思考だ。諸々上手くできない私である。

ただ一つ自信を持てることがあるとすれば。
私、出会う人間の運と身を置く場所を選ぶ勘だけは、大きく外したことがないんだ。それにだけは絶対に近い自信がある。だから、今回も大丈夫だと思うんだ。自分でも不思議だけど、案外気軽なものである。

深夜に描いてたら寝落ちして、翌日の朝。今日は稽古だったか。私は不参加だけど。参加できない稽古場が進んでいくことに、そこはかとない不安を覚えるのであった。