ところで、合奏をすると、合うとか、合わないとか、良いとか、ダメだとかがついて回ります。
特にドラムとベースの「相性」みたいなモノがあって、「グルーヴ」とかいう、訳のわからない言葉で良い悪いを判断されがちです。
話しは変わりますけれど、「グルーヴ」モンスターだらけのアメリカでも、そういう「ノリ」みたいなモノを研究している人たちがいて、かの「グルーヴ」モンスター・バンド、クルセイダースのジョー・サンプルなんかも、「ファンク」とはなんぞや?と色々研究したとか。
かように難しい「グルーヴ」ですが、我々日本人は、この「グルーヴ」というとても曖昧なモノに振り回されているのが現状です。
僕はそれはとても大切なこと(訳のわからないモノに振り回されること。)だと思うと同時に、大変無駄なことでもあると思うのです。
僕は「グルーヴ」とか「ノリ」とか「タイム感」なんてものはを極々パーソナルなモノだと考えています。
それは育ってきた環境や、先天的なものに司られる分野で、憧れて真似するのは構わないけれども、否定するものではないと思うのです。
障子、襖、畳で育ってきた人間が、石やコンクリートで育ってきた人間と同じ感覚を有することは難しい、或いはムリでしょう。
そして高温多湿なこの国で育ってきた人間が有する感覚は、全く逆の環境で育った人間と同じ感覚を持つことは難しいです。
言語も違うし。
そしてそれを否定して、そういうモノの真似をすることは、言い切ってしまうと、大切だけれども無駄だと思うのです。
それは音程感にも言えます。
もちろん、僕も西洋音楽で育ってきた人間であり、ずっと憧れて真似して来ましたし、それはとても重要な道程でした。
共通言語としての音楽(記譜可能な音楽)と、非共通言語としての音楽(記譜不可能な音楽)との違いを認識して、表現に取り入れる、或いは元々有ったものを表現することも、我々音楽家の努めだと思います。

(西洋音楽の権化のような譜面)