荒れ狂った情報が大量に押し寄せ、劇的なことが起こりまくる世界の中で、光を保つために、光を強くし維持するために、僕が実践してきたことを書いていく連載。

 

 

  ◎ 合わない人に、合わせない


若い頃は『合わない』というのが、本当の意味ではわかっていなかった。

『仲が悪い』
『仲が良い』

という関係性は知っていたが、この中に『合う』と『合わない』が存在しているということは知らなかった。

これに気づくまで、
『合わないのに合わせようとしていた』のだ。



具体的な例を挙げると。

ウマが合うと感じて仲良く交流している友達がいる。
会えば、なんだか楽しげな話をしたりして、にぎやかに遊べる。
しかし、本当の意味では『合っていない』。
互いに『仲良くするものだ』という幻想の中にいる。
だから誰もが『どこか我慢や無理をして付き合っている』。

疎遠になる頃、こんな風に気づく。
もしくは、疎遠になって、時間が経ってから気づく。
本当の意味での『合う/合わない』を知ってから、気づく。



このようなパターンが、とてもたくさんあった。
振り返れば、若い頃の大半が、このパターンだったように思えてしまう。

若い頃というのは『自分のことが、ほとんど見えていない状態』だからなのかもしれない。

10代、20代の頃から付き合いがある友人は、いない。
連絡をすれば会って飲みにでも行ける友人は数人いるが、わざわざそこまでしたいと思えない。そこまで『合っている』とは言えない。

『一時期仲が良かったから、合っていると思い込んでいる』関係性だな、と思う。
 

 

 

 

  合う/合わない を定義する


俺が言っている『本当の意味での、合う/合わない』ってなんなのだろうか?

こんなお題で始めたのだが、正直、うまく言えない。


自分は宇宙人だったのか!!
と思えてから、急に生きることが楽しくなっていった。

強いて挙げれば、ここに要点が潜んでいそうだ。



『生き方が、合うか/合わないか』
なのかな。

いや。
これだと、だいぶ曖昧だな。

『絶対に譲れない価値観が、とても近しいか/否か』

うん。
こちらの方が核心に近そう。

定義を、これにします。



『絶対に譲れない価値観が、とても近しいか/否か』

これが『合うか/合わないか』である。

なので『あまり重視していない事柄』であれば、かなり遠い距離のことであっても許容できる。

 

重視しているものが厳選されて選び抜かれているほど、柔軟に、軽やかになれるってことだ。

 

重視している要素(『曲げられない執着』と言い換えても良い)が多ければ多いほど、寛容性から外れていく、と自分の過去を振り返っても、思う。


『逆鱗に触れる』ような、大事な大事な価値観にズレが生じていなければ、我慢なんてせずに執着することなく流せてゴキゲンに過ごせる、と現時点では思う。

 

 

 

  表面的に惑わされ、未熟ゆえに凹む


自分は宇宙人だったのか!!
と思えるようになってから、
このようなことが段々と見えるようになっていった。

『合わなかった』のは、価値観や視点、信念など、土台になる大事な部分が大きく異なっていたのだな、と。

『合っている』と感じていたのは、
とても表面的な部分だったのだ。

なのに『合う』と思い込んでいた。

例えば、わかりやすいのは趣味であろう。

同じ漫画が好き、映画が好き、
アートが好き、音楽が好き、というような。

もしくは『同じグループに所属していた』という共通点。
家族、親戚、学校、サークル、職場、というような。

本質とは関係ない『表面的なラベル』を共有していただけだったのだ。

共通の◯◯は好きであるが、互いに人間性を深く知ってから仲良くなったわけではないので、根本的な性質が大きく異なっており、土台のズレが大きい。

若い頃は特に経験値が不足しており見極めが甘いゆえに『本当の意味では合っていない』ということが多発した。



と、こんなような論理で振り返ってはいるのだけれど、

『根本的に地球人としての振る舞いができていなかった』
『地球人的な視点で見ると異常であり協調性に欠ける点が多々あった』
という点が同時に存在していたことは確かです。

なので自分自身の未熟さゆえの破綻も多くあった。
自分の体験の『すべて』を『合う/合わない』に当てはめる気は、無い。

 

 

 

  手放すことを恐れない


『せっかくできた縁だから』

と誰しもに対して律儀にする。
誰も彼も、みんなと良好な関係を継続できるように努力する。

なんて振る舞いは『実は合っていない部分が多い』ケースが多いだろうから、止めるが吉だと思っている。

『せっかくできた縁』かもしれないが、
『それ』を試されている縁、ということかもしれない。

『合っていないのに、合わせようとしてるんじゃないの〜?』
と試されている。
同じパターンの輪廻から抜け出すためのチェックポイントである可能性。
 

 


根本的に、生理的に、直感的に、
『合わないな』
という感覚が刹那でも湧いたのなら、それは大事にした方が良い。
『やっぱり合ってたのか、あの感覚は……』と、あとで凹むから。

合わないのに無理して『相手に合わせようとする』ことは、自分に対する虐待である。自分を小さな檻に閉じ込める行為に思える。地球で生きている限りは場の調和のために合わせざるを得ない場面が多々あるけれど、相手に嫌われないよう必死になって合わせていこうとするような振る舞いは、手放すのが最善の道。

自分を痛めつけている行為ゆえ、疲弊が半端ではない。
精神だけでなく、肉体にも変調を来す。
とんでもなく危険な行為。
生きていることが楽しくなくなり、苦痛にまみれてしまう。
『友達 100人できるかな症候群』とでも言うのだろうか。
『多い方が良い』という価値観。



同じ◯◯が好きであっても、
根本的な価値観が、極端に違っている可能性がある。

という視点を忘れずに具えておいた方が良い。

2025年になってから半年以上が経ち、星の大移動の影響もあって、感覚はより冴えてきているはずなので、些細な違和感は早急に対処したほうが良い。スピーディに離れやすくもなっているはず。

 

身も心も、軽やかな状態へなっていきやすい時代になってきている。

 

 


合わない人に、無理して合わせないで、
合う人と過ごす。

こうしていると、自然にどんどこ『合うエネルギの渦』が大きくなっていき、『合う人』が増えていくように感じている。

合わないなら、無理に合わせようとするな。
離れろ。
『本当に合う人・もの・こと』と過ごせ。

続く