常識というのは
思いやりの延長上にあるものだ。
そうあって欲しいし
そうあるべきだと想う。
これだけたくさんの人たちが
同じ世界で生きていれば
色んな考え方や感じ方がある。
何の気なしにしたことが
とても人を喜ばせたり
深く人を傷つけたり
驚くほど怒らせてしまったり
そんなことはよくある話。
たくさんのそんな経験を
想像力に変えて
思いやりに変換出来るようになる。
そんな人を
大人と呼びたい。
公務員に何かと縁があるわたし。
対公務員の話になると
自然と耳に入ってくる。
大阪市が市の職員に刺青の調査を行ったことが話題になっている。
わたしの手首にはある。
18才の誕生日を迎えてすぐに入れた。
強い憧れと私なりの想い
何よりも自分に対する誓いの意味があった。
これに関して
後悔したことはまだない。
解っていてしたことだから。
事実、選べない仕事の種類はある。
だけど、わたしはやりたいことをやってきたし、仕事が無くて困ったこともない。
これが原因で友達を失ったりしたこともない。
確かに若かったけれど
例えば選べる道が少なくなったり
入れなくなる場所があったり
制限されることを解っていたし
それも込みでわたしはそうした。
それを自ら望んだ。
つまり
わたしは自分の決めた道を
自分で選択し生きて行くという決意をした。
どんな形でも
自分で選択したことから派生したものには
自分で責任を持つべきだと想う。
わたしはそうしたい。
そうしてきたつもりだ。
これからもそうする。
望んでなかったとしても
降って湧いたような話だったとしても
関係ないなんてことは
あり得ない。
ファッションだから
それを否定するのは
人権侵害にあたるのではないか。
それも一理あるかもしれない。
今回の調査のきっかけになった
子供に見せて脅かすなんていうのは
もはや論外だが
ファッションならその場のルールに従えばいいと想う。
それ以上の発信ならば
どうしてもそれを突き通したいなら
それを認めてくれる場所に行けばいい。
自分のしたいことはしたい
文句も言われたくない
我慢もしたくないなんて
そんな道理を通したいなら
そんな集団を自分で作ればいい。
どうしてもやりたいことの壁になったとしても
打ち破る方法はいくつもある。
自分のワガママを通すための方法ではなく
壁を破壊する方法。
そんな努力すら出来ないのなら
それはもはやファッション以外のなにものでもない。
(思想がありアートに昇華している場合のそれとは、単語の意味は違う。)
少なくともわたしの中では
ファッションではない。
そんなもののために
自分の身体に刻むようなものではないと想っている。
個人の自由というのは
間違いなくある。
色んな思想もある。
それは誰にも侵すことは出来ない。
個としての自由。
それが対大衆になった時には
他の人の自由と重なる部分がたくさんである。
ひとりで生きている人間は
ほぼ存在しないからである。
そんな時
もはや自由だという主張だけでは
乗り切れなくなってくる。
そんな時
重要になってくるのが
常識という呼び名の思い遣りだと想う。
その上で
それを覆す主張をするのなら
勉強と覚悟と手順が必要だ。
覚悟のない浅知恵は自分の未熟さとして跳ね返ってくるだけ。
選択は無限だ。
君は自由だ。
だからこそ
想像力という素晴らしい力を人は兼ね備えている。
人の気持ちになって考えることが出来るように。
大人になって想う。
小さな頃
お年寄りに言われたことは
だいたい正解だ。
