黒い雪 | あの時の映画日記~黄昏映画館

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あの日、あの時、あの場所で観た映画の感想を
思い入れたっぷりに綴っていきます

 

 黒い雪(1965)

 

やりきれなく鬱屈した感情が沈殿していくやるせない作品です。

 

横田基地で売春宿を経営している母。

母の妹である叔母は米兵の愛人という環境の中暮らしている次郎。

 

表情の乏しい次郎。

それでも何かにイラついているのはわかる。

 

ある日、売春婦たちから、叔母が米兵から2万ドルの不正な金を受け取るということを伝え聞いた次郎は、左派過激派であろう友人にそのことを話す。

 

「そんな不浄な金は我々の目的に使用されるべきだ」と唱える彼らは、その金を強奪する計画を立てるのだが・・・

 

基地を発着する戦闘機の轟音や、抑揚を抑え小声でしゃべる独特のセリフ回しで、登場人物たちの会話はよくわからない。

だからセリフを追ってストーリーをつかもうとすると難解な作品になってくる。

 

本作は、大金強奪などという大それたことを計画しながらも、基地の街に淀んだ川のように漂う、「憂鬱」「退屈」「物憂げ」という極めて心象的なものをイメージの羅列として表現した作品なのだ。

黒人の軍曹が、日本人売春婦に覆いかぶさって動かないオープニングから、緊張が張り詰めているはずの基地の空気が、実は弛緩しているのだということを、我々観客は感じ取る。

 

次郎がひそかに恋している静子が、基地のタクシー乗り場で父を待つ場面。

次郎が見つめるその光景は、まるで実体のない夢の中の世界のようで、やはり轟音だけが響いている。

 

そんな白昼夢のような日常の中にいる次郎は、自分の中にある形の見えない怒りと戦う。

 

崇高な理念を持っているであろう進歩的友人(同志?)も、実は下衆で低俗であることを悟ったり、性を売ることが当たり前の環境で育ってきたにもかかわらず、ある瞬間それをとても醜悪なことだと感じたりと、表情が乏しいからこそ、怒りが爆発しないのがもどかしく感じる。

 

そして、ここに基地問題をも問いかける。

 

基地の米兵相手に商売している日本人にとって、彼らは「アメリカ様」だ。

米艦寄港の反対署名を呼び掛ける学生たちを、郁子もなく追い払う。

 

暴行されそうになり、全裸で基地の中を逃げる少女を、フェンスと爆音が跳ね返す。

制作当時(1965年)と現在と、日米間の地位という点がどれだけ変わったであろうかと考えさせるとても印象的なシーンだ。

 

懺悔にも似た感情を持ったように見える次郎に、理不尽な米兵からの鉄拳が飛ぶ。

ここで画面はネガポジ反転し、外に降っている雪が黒くなる。

最後まで、心の終着点を見いだせない次郎の感情を見事に映像化していると感じた。

 

「黒い雪事件」で、本作は、わいせつ図画公然陳列罪に問われたそうであるが、不起訴になっている。

 

『黒い雪』(1965/昭和40年)

武智鉄二監督 89分

1965年(昭和40年)6月公開