ラリー・フリント(1996) | あの時の映画日記~黄昏映画館

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 ラリー・フリント(1996)

 

『カッコーの巣の上で』(1975)では人間の尊厳を描き、『アマデウス』(1984)では神の選択に対する嫉妬を描いた名匠、ミロシュ・フォアマン監督が、本作では表現の自由をめぐっての法廷闘争を描いた。

 

過激なセックス写真をメインにした雑誌「ハスラー」を創刊し、一躍時代の寵児になったラリー・フリント。

 

彼の雑誌は、一般大衆に爆発的に売れた反面、一部の保守の論客や宗教関係者からは疎まれ、いつも訴訟と背中合わせの人生だった。

 

そんな彼が、熱心なキリスト教信者であるジミー・カーター大統領の妹・ルースと出会い、影響され洗礼を受ける。

 

そして彼が、裁判の後裁判所から出てきたところを何者かの狙撃を受け、下半身不随になる。

彼は、神の裏切りを感じ、宗教との決別を図り、巨大な宗教組織と法廷闘争を決意するのだが・・・

 

というあらすじの中に、フリントの恋人で麻薬に溺れていくアルシアとの恋愛模様や、弁護士アランとの友情に似た関係などが織り込まれながら物語は進行する。

偽善に満ちた道徳に真正面から立ち向かったフリントの生き様を見よ!という作品なのですが、主人公の生き方に共鳴できない部分が多いので、心から応援できない。

 

性格破綻したかのような行動をする中、病魔に侵された恋人と手を触れることさえ避けてしまうようになったスタッフに全員解雇を宣告したりするあたりに、人間的温かみも描かれたりするのですが、そのシーンの焦点もなんだかぼやけていて、快哉をあげるまでいかないのが残念。

 

道徳に対する皮肉が「殺人は違法だが、その殺人現場を写真に撮れば『ニューズウィーク』の表紙を飾れるかも知れないし、ピューリッツア賞だって夢じゃない。対してセックスは合法で、皆するのは大好きなのに、男女のセックスを写真にしたり女性の裸を撮ると刑務所に入れられる可能性がある。」というセリフに込められており、本作の大きなテーマだと思うのだが、正論なのにどうも説得力がないのはなぜだろうか。

 

ゴールデングローブ監督賞をはじめ、多くの賞を受賞していて、米国では評価の高い本作であるが、フォアマン監督としては『アマデウス』のような壮麗な作品とどうしても比べてしまい、見劣りしてしまう感があるの私感としては否めない。

 

ラストでは、主要人物のその後が描かれるが、特に興味のある内容であるわけでもなく、蛇足のように感じた。

 

フォアマン監督に、こういう俗っぽい作品は似合わない。

ちょっと残念な作品でした。

 

あと、恋愛要素をやたら強調した日本版の宣伝チラシにも違和感。

『ラリー・フリント』The People vs. Larry Flynt(1996)米

ミロシュ・フォアマン監督 129分

1997年(平成9年)8月日本公開