あの日から、
早くも21年です。
『阪神淡路大震災』
あの日の朝、
午前5時47分、
尋常じゃない揺れに目を覚まされました。
そして、
本能のままに、
別室で寝ていた、
1歳の娘と妻の上に覆いかぶさっていました。
食器棚が開いて、
ガラスの割れる音。
辺りはまだ真っ暗です。
同時に停電も起きました。
しばらくすると、
そこら中から聞こえるサイレンの音。
幾度となく続く余震。
1時間ほどたってからであろうか。
停電が復旧し、
慌ててテレビを付けた。
「大阪でこれだけ揺れたのだから、
中部、関東地方ではもっとひどいことになっているに違いない」
そのころは、
南海トラフ地震よりも、
駿河湾沖で起こる自身のほうが危険度が高いといわれていたからだ。
ところが、
テレビは通常放送で、
ブラウン管の中では、
『ズ~ムイン』なんてお気楽なことを言っていた。
「???」
しばらくの混乱の後、
国営放送に切り替えると、
『今朝の地震でたなから落ちてきたものが頭に当たって、
負傷者1名』というニュースが流れていた。
「負傷者1名!?・・・そんなレベルじゃ」
しばらく画面を眺めていると、
画面が空撮に切り替わり、
阪神高速が横転しているのが見えた。
「!!!」
すぐには信じがたい光景が、
その後次々と画面に映されるようになり、
発表される犠牲者の数も、
時間がたつごとに増えていった。
西日本は安全という、
根拠のない安全神話が一瞬にして崩れた。
一向に復旧しないライフライン。
燃え広がる火災。
遅々として進まない官邸や役所の対応。
時の村山政権は、
あまりにも杜撰な対応に、
ごうごうたる非難を受けた。
そんな中、
最も頼りになったのがボランティアだった。
この年は、
ボランティア元年といわれた。
そして自衛隊。
本当に頼もしかった。
自衛隊不要論なんて、
どの口から出るのだろう。
21年もたつと、
震災の追悼行事も半分以下になったという。
それではだめだ。
これはずっと語り継いでいかないと・・・