校歌の広場 -36ページ目

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は、長野県の飯山高校です。

https://www.nagano-c.ed.jp/iiyama/

 

飯山市は長野県の最北部に位置し、日本有数の豪雪地帯にあります。

スキーリゾートやトレッキングで有名な斑尾高原への玄関口で、飯山城址は桜の名所でもあります。斑尾高原は夏は避暑地、冬はウィンタースポーツで人気があり、温泉も湧いています。

 

学校は、飯山市下の飯山北飯山南飯山照丘の3高校を完全統合して新規開校しました。

開校年が古いところから紹介しましょう。

飯山北高校は明治36年創立の長野県中学校飯山分校、後の旧制飯山中学校を前身としています。

校歌は作詞:足立鍬太郎 作曲:上田文三郎で制定年は不明ですが、明治から大正期の間と思われます。

飯山北高校 (全1番? 全4番?)
  甲斐の高嶺に降る雪は 融けて溢れて父となり
  飛騨の深山に置く露は 落ちて集いて母となり
  流れ相い合う犀千曲 末は越路に行く水の
  勢い猛く嵩増して  四つの郡の中を衝く

  早瀬綾どる川舟の  はつるはここと飯山に
  設けし教えの中にわを 踏み分くる身は彼方なる
  高社山も此方なる  綱切淵も及びなき
  高く深かる親の恩  師の御恵を戴きて
  共にぞ修むる人の道  互に励む学びの業
  朝な夕なに習い得て 国に尽くさん時を待つ

  塵の世界は風荒く  浮世の海は波高し
  されど鍛えし身の舟に 徳の帆を上げ知恵の舵
  取りて進まばその風も その荒波も物ならじ
  矢よりも早き三年を  いかで空しく過されん

  緑色濃き高社  山はいよいよ神さびて
  立てる姿を写すなる 千曲の川に行く水は
  永久に流れて空ひたす 越の海とぞなりぬなる

 

飯山北高校の校歌は以上ですが、1番だけという記述と4番に分かれているという記述がありどちらが正解なのか判然しません。1番のみなら日本最長はここということになりますが…

四つの郡の中を衝く…」は、北信地方を形成する更級郡・埴科郡・高井郡・水内郡の4つを指すと思われ、千曲川は飯山市から新潟県へ抜けていき信濃川となります。

 

飯山南高校は大正10年に下水内高等女学校として開校、大正14年に飯山高等女学校と改称し学制改革で飯山南高校になりました。

旧制飯山高等女学校の校歌は作詞:高野辰之 作曲:福井直秋で昭和4年制定です。

旧制 飯山高女 (全3番)

 進みてやまぬ 教をば

 絶えず 千曲の流れに見
 とはに搖がぬ 啓示をば

 常に 高社の山に見て
 少女我等は学ぶなり

 名も飯山の此処にして

 

飯山南高校の校歌は作詞:土屋現勲 作曲:月岡弘一で、制定年は不明です。

飯山南高校 (全3番)

 霞立つ 緑の真洞
 朝霧の もみづくれなゐ
 貫きて 一筋の川 流れたり
 千曲川 とよみ流れて 遠白し
 雲井 立ち湧く

 

飯山照丘高校は、飯山南高校の定時制として昭和36年に照丘分校が開校、昭和49年に独立開校しました。

校歌は作詞:峯村文人 作曲:月岡弘一で、昭和50年制定です。

飯山照丘高校 (全3番)

 風雪に耐ふる樹木の

 厳しき息吹きを浴びて

 はぐくみし 創造の夢

 胸に秘め われら集へり

 みすずかる 信濃の奥処

 光満つ おお照丘 照丘

 

上記の3校のうち、まず飯山南と飯山照丘が平成19年に一次統合して飯山高校が開校、平成26年に飯山北と二次統合して完成しました。

校歌は作詞:田井安曇 作曲:佐藤眞で、平成20年制定です。
飯山高校 (全5番)
 峡の門の南の方の

 走り出のよろしき山は
 懐かしき高社山

 やすらぎは母の膝なし
 若き子を ひたに迎へぬ

 おお栄えあれ 飯山高校

 

走り出」とは門口、家のすぐそばという意味があるそうですが、一説には山などの地勢が横に低く連なるさまの表現ともあります。「峡の門」は飯山盆地を指すのでしょうか。飯山市の南に高社山があり、校門から見える姿がよろしいと歌っています。

また、5番「百年に桂は育ち、水芭蕉、雪と伴い、新しき首途を迎ふ…」は、統合した3校の結束と統合飯山高校の未来を歌っています。飯山北の校章は月桂樹=””、飯山南は雪の結晶=””、飯山照丘は”水芭蕉”だったことからです。

 

部活動では、豪雪地帯の学校らしくスキー部があり、アルペン・クロスカントリー・ジャンプなどの競技で優秀な成績を収めています。冬季オリンピックの代表選手も多く輩出している名門ですね。

高校野球では令和元年夏に長野市より北部から初出場を果たしましたが、残念ながら初戦敗退でした。

今回は、静岡県の藤枝明誠中学・高校です。

https://www.fgmeisei.ed.jp/

 

藤枝市は静岡県の中南部、静岡市の西隣に位置する町です。

安倍川と大井川に挟まれた丘陵地帯と、そこから流れ出る瀬戸川によって形成された沖積平野に藤枝市街が広がっています。

歴史的には東海道五十三次の藤枝宿の宿場町として栄え、近隣には田中藩が本拠とした田中城があります。田中城は日本でも唯一?の”円形輪郭式”の城郭だったことで知られ、現在でも同心円状に家並みが建っています。

 

学校は、藤枝学園の新高校として昭和58年に開校しました。

姉妹校に藤枝順心高校があり、明誠は共学校、順心は女子校です。

校歌は作詞:小山一重 作曲:多賀須節で制定年は不明です。

藤枝明誠 (全1番)

 見はるかす 赤石の山なみ  流れ清し 大井
 学び舎 ここに立つ  名あり 藤枝明誠
 われらつねに 天極を指さし  歴史を創るもの
 真理の妙音 胸に和し  行く手 あらたなり
 凛たり わがこころ  確たり わがあゆみ
 地軸をとよもしてきおい  風に御してはためく
 さわやかに ゆたかに  つとめはげむ ひたすら
 初心 忘るることなし  おお明誠 わが母校

 とわに とわに  輝け 栄えあれ

 母校 明誠  母校 明誠 藤枝明誠

 

現在、1番のみとはいえ歌詞の長さでこれに匹敵する校歌は無いのではないでしょうか。

似たような校歌としては、京都府の南八幡高校(現在は八幡高校に統合)や福岡県の福岡大若葉高校が挙げられます。

 

高校野球では、平成29年夏に待望の甲子園出場を果たしました。

漫画「タッチ」の舞台となった高校に似たユニフォームや、”日本一長い校歌”が話題となりましたが、残念ながら初戦敗退でした。しかし2分を超えるほど長い校歌をフルコーラスで流したのは英断だと思いますね。

今回は、福岡県の柳川高校です。

 
福岡県西南部の有明海に面する柳川市にある学校です。
昭和16年に柳河商業学校として創立し、学制改革で柳河商業高校になりました。その後、町村合併で柳川町が誕生した際に柳川商業高校と改称しました。
校歌は作詞:伊馬春部 作曲:高木東六で、昭和37年制定です。
柳川商業高校(全3番)
 見よ 東を
 清水の深き 翠の辺りまで
 千里ひろがる沃野こそ わが祖々の培いし
 橘薫る美し郷土
 ああ 燦として輝きし 柳川城を想い見む
 かささぎの こえもさやけく
 水さわに めぐれるところ
 まぼろしの城 目に 胸に 心に常に浮かべつつ
 若人集う学園 その名  橘蔭 橘蔭 わが母校
 ああ 柳商よ 光あれ
 
作詞者の伊馬春部氏は、東筑高校などの"長い校歌"を作詞した折口信夫氏に師事した人です。他には鞍手高校などの校歌を作っています。
2番「わがふるさとは堀割すみて、ゆき交う舟も白秋の、詩そのままに和む水郷…」と北原白秋氏の名作"水郷柳河"を取り入れています。北原白秋は柳河の出身で、伝習館高校や柳川市内の小中学校の校歌も作詞しています。
わが祖々の培いし、橘薫る美し郷土、ああ燦として輝きし、柳川城を想い見む…」は、柳河藩の藩主・立花氏を歌ったものと思われます。
立花氏の家紋は"祇園守紋"ですが、初代藩主・立花宗茂が用いたのは"杏葉紋"であり、これが柳川高校の校章にもなっています。余談ですが、佐賀学園の校章も杏葉紋をモチーフにしているのは佐賀藩主・鍋島氏の家紋も杏葉紋だったことに由来するのでしょうか。
 
現在の校歌は、昭和55年に法人名・校名を柳商学園・柳川高校と改称したことを機に一部改訂したもののようです。「橘蔭」を「柳商」に、最後の部分も変更しています。
柳川高校(全3番)
 見よ 東を
 清水の深き 翠の辺りまで
 千里ひろがる沃野こそ わが祖々の培いし
 橘薫る美し郷土
 ああ 燦として輝きし 柳川城を想い見む
 かささぎの こえもさやけく
 水さわに めぐれるところ
 まぼろしの城 目に 胸に 心に常に浮かべつつ
 若人集う学園 その名 柳商 柳商 わが母校
 ああ 柳川高等学校
 
なお昭和37年以前の校歌については、現在"生徒会歌"になっているものが校歌だった可能性も考えられますが、未確認で不明です。
追記:戦前の創立時から校歌制定の機運はあり、北原白秋に作詞を依頼することを決議したものの直後に白秋が逝去して頓挫。以降は校歌が無いまま代用として「水路はめぐる」(これが生徒会歌?)が作られ歌われたそうです。
 
福岡県でも有数のスポーツ名門校で、野球部をはじめテニス部やゴルフ部などが県の強豪です。
高校野球では、春夏計16回の甲子園出場があります。初出場は昭和35年春で、この時のみ上記のものではない校歌だったようですが初戦敗退でした。
頭角を現しはじめたのは平成に入ってからで、全13勝のうち11勝を挙げています。
甲子園で勝利して流れた校歌としては、ここが最長ではないでしょうか。
今回は、大阪府の初芝富田林中学・高校です。

富田林市にある学校で、南河内の進学校でもあります。昨年度は東大、阪大など国公立や医歯薬計に100人以上の合格者を出しています。

昭和59年に初芝高校富田林学舎として開校、翌年に初芝富田林高校として独立するとともに中学校を併設して現校名になりました。
校歌は作詞:宗左近 作曲:三善晃で昭和61年制定です。「夢のむこうに」という副題が付けられています。
初芝富田林 (全3番)
 見あげよう ほら 見あげよう ほら
 空のむこうに空が ほら 空がある
 ここは 新しい 泉のふるさと
 こぼれる涙の なかからも
 すずしい歌は たちのぼる
 ぼくたち わたしたち
 みんな みんな 日本人の異星人
 いつだって いつだって
 きらめく世界をつくる いつだって
 見あげよう ほら 見あげよう ほら
 どうして 虹にならないだろう
 この 若い光のいのち

 ああ 夢のむこうに夢がある

作詞者の宗左近氏は、校歌界では知らない人はいないと思われるくらい有名な人でしょう。
詩人というだけでなく評論家・翻訳家としても活躍した人で、親交のあった作曲家の三善晃氏とのコンビで作られた校歌が多く、歌詞も長めの傾向です。
福島県の清陵情報高、千葉県の幕張西高、東京の東京電大附高などがこのコンビでの校歌です。
その独特な感性から書かれた詩は定型詩に収まりきらず、比喩・擬人法・反語表現が多用されて一見では理解しにくい部分があると思います。"変な校歌"として格好のネタになりやすく、氏と一緒に紹介されることもしばしば見掛けますね。

今回は、福岡県の東筑高校です。
甲子園をよく見ている人にとっては、進学校と校歌が長いことで有名ではないでしょうか。

北九州市の西端近い八幡西区東筑にある学校で、鹿児島本線と筑豊本線が交わる折尾駅の南にあります。
明治31年に旧制東筑尋常中学校として開校し、翌年には尋常が取れて東筑中学校となりました。
東筑の校歌は歴代で3つあるようです。うち2曲は旧制中学のもので、初代校歌は作詞:岡野代忠 作曲:高浜孝一で大正12年制定です。
旧制・東筑中 初代校歌 (全3番)
 筑紫の東 折尾の丘に
 巍然と立てる 我等の母校
 天の啓示せる 誠の道は
 我等が進まん 理想の標

二代目校歌は作詞:久保勘三郎 作曲:陸軍戸山学校軍楽隊で、昭和18年制定です。
旧制・東筑中 二代目校歌 (全5番)
 天に二日の渡るなく 地に一君の定めあり
 世紀の波を乗り越えて 無窮に続く皇統に
 生けるしるしぞ防人の 意気は東亜の天を衝く
 我は九州男子なり

二代目は戦中の制定とあって「…打ちてし止まん」「若桜、散りて甲斐ある勲しに…」などの戦時下らしい語です。
沿革によれば初代校歌は大正15年頃まで歌われたとありますが、昭和初期から二代目が制定される18年まで校歌はあったのでしょうか?そのあたりが不明です。

学制改革で折尾高等女学校八幡市立商業学校と統合して総合制の東筑高校となりましたが、昭和31年に商業科と家庭科が折尾高校として分離独立しています。
北九州市では小倉高校と並ぶ福岡県屈指の進学校で、地元の九州大学をはじめ国公立大学進学が多いようですね。
東筑高校の校歌は作詞:折口信夫 作曲:信時潔で昭和27年制定です。
東筑高校 (全3番)
 筑紫の国の国の崎 とほく霞みて海に入る
 遠賀の水門も望むべし 目翳をかざせ汐境
 響灘 玄界の波 澄みわたる朝の幻
 馴れ馴れて海の若人 吾こそは洋の独り子
 吾らかく若々し
 身は健かに気宇ひろく 筑紫の海の如あらむ

 よきかな東筑 うるわしく
 東筑 東筑 寛かなれ あゝ東筑

作詞者の折口信夫氏は、戦前から戦後にかけて活躍した歌人・民俗学者・国文学者です。佐沼高校の項でも少し触れました。
校歌は少なくとも大正後期から作っていたようですが、"長くなる"のは戦後からだったのではないかと思います。
戦後の高校はこの東筑の他に10校ほど手掛けていますが、概ねどの学校も比較的長い傾向です。また「よきかな東筑…」部分のような反歌を取り入れることもありました。

高校野球では、春3回と夏6回の甲子園出場があり3勝を挙げています。
昭和53年夏は「よきかな東筑…」以降は歌われなかったそうですが、平成8年夏にやっとフルバージョンが流れました。
ラグビー部も強豪で、花園大会に3回出場しています。