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校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

長い校歌シリーズの最終となる今回は、富山県の高岡工芸高校です。

長い校歌は開校直後に作られた初代校歌なのですが、肝心の当該校歌は未調査のため今はまだ全容は不明といったところです。

http://kogei-h.el.tym.ed.jp/

 

高岡市は富山県のやや北西部、富山湾に面する富山県第二の商工業都市です。

とはいえ市街地は庄川と小矢部川に挟まれた内陸部にあり、元・伏木町の伏木港が外港の機能を持っているといえましょうか。

高岡銅器で建立された高岡大仏など伝統的に工芸が盛んな町で、このことは学校にも大きな影響を与えています。

加賀藩の越中国の固めとして高岡城が築かれ、前田利長が晩年に隠居した城でもありますが、天守や櫓があったかどうかなどはよく判っていないそうです。現在は石垣が多少残るのみですが、高岡古城公園として整備され桜の名所百選にも選ばれた市民憩いの場となっています。

また、奈良時代には万葉集を編纂した主要人物の一人として有名な大伴家持が越中国司として赴任した地です。万葉集は20巻まであり、そのうち大伴家持の歌だけで3巻を占めるそうです。そして越中国で詠まれた歌は”越中万葉”と呼ばれ全体の半分ほどにもなります。

これが高岡市と射水市伏木・新湊を結ぶ万葉線や高岡万葉祭りなどに代表される”万葉の里”の由来となっています。

 

学校は明治27年に高岡城址の北東に富山県工芸学校として開校しました。

開校時の校長は納富介次郎氏で、工芸・デザイン教育の祖ともいわれ現在の石川県立工業高校・高松工芸高校・有田工業高校とは姉妹校として交流があるそうです。

その後、昭和16年に高岡工芸学校と改称しました。

旧制の校歌は2つあり、初代は作者・制定年とも不明ですが明治期に作られたようです。

旧制・富山県工芸 初代校歌 (全1番?)

 我等が通ふ 学校の

 修むる学科は 何々ぞ

 木工科には 木彫部

 指物部の 二ツあり

 ………

 

おおよそ上記のような歌い出しで始まり、1番のみの七五調で実に40行近くはあったと伝えられています。前回の松本学校(現・瀬戸内高校)より長いわけです。

実際に調査してみるまでは何とも言えないのですが、音数にすると450音を超える計算となるので”1番のみでは日本最長”となりそうです。

 

2代目の校歌は作詞:友田宜剛 作曲:小山作之助で、制定年は不明です。

旧制・富山県工芸 二代目校歌 (全3番)

 神通川の 流れ清く

 澄める真心 起して勉めて

 技術の誉れ 高く揚げん

 立山の高きを 己が理想にて

 志 いざ立てよ 立てよ いざ立てよ

 

この校歌で不可解なのは1番「神通川の流れ清く…」部分です。神通川は富山市を南北に貫流する川で、高岡市域には全く流れていません。高岡市を代表する河川は庄川です。3番には「志貴野の岡の美はしや…」とあるので高岡を歌っているはずなのですが、ここだけ作詞者のミスということなのでしょうか?移転もしていないようなので謎といえば謎です。

 

学制改革で総合制による集約により高岡中部高校の職業課程となったあと、昭和25年に分離独立して再び高岡工芸高校となりました。平成21年には二上工業高校を統合して、新・高岡工芸高校となって現在に至ります。

校歌は作詞:松坂直美 作曲:平井康三郎で、昭和26年制定です。
高岡工芸高校 (全3番)
 雲にそびゆる 立山の
 連峰はるか 仰ぎつつ
 志貴野が原の 学び舎に
 知識を修め 身を鍛え
 励む我等に 希望あり
 工芸 工芸 高岡工芸

 

野球ではないですが、”甲子園”で日本一になったものが2つあります。

ひとつはデザイン科が出品して全国大会最優秀賞となった”まんが甲子園”、もうひとつは同じくデザイン科の生徒が最優秀賞となった”ポスター甲子園”です。

伝統的にデザインを重視している同校ならではの快挙ですね。

 

二上工業高校は昭和37年に高岡工芸高校二上分校として開校し、翌年に分離独立して二上工業高校となりましたが平成21年に再吸収の形で統合され閉校しました。

校歌は作詞:土岐善麿 作曲:信時潔で昭和40年制定です。
二上工 (全2番)
 山を仰げば 二上の雲たかだかと
 川をのぞめば 小矢部の波ひろし
 まなびはげみ のぼる大地に
 花はひらく 桃桜 春うららかに
 竹はしげりて 風清く 常にたくまし

 見よ二上の名にこぞる われらの青春
 ここに希望と努力あり

今回は、広島県の瀬戸内高校です。

長い校歌は、開校当初の松本学校を紹介します。
 
広島市東区尾長西にある学校で、広島駅から東1kmほどに位置します。
20世紀以前は男子校でしたが、平成13年に男女共学となりました。
 
明治34年に創始として私立松本学校が開校、大正3年に商業教育のための松本商業実務学校が開校したのち松本商業学校に改祖しました。
大正後半に中学校令に基づく旧制松本中学校も開校していますが、すぐに廃校となっています。
私立松本学校時代の校歌は、作者は不明で明治41年制定です。
旧制・松本学校 (全1番)
 空に輝く天津日と 並び立たして知食す
 我 天皇の御位は 萬世かけて動きなき
 大和島根の安芸の国 
 賀茂の郡の西條の 北の方なる吉土実に
 聳ゆる棟の数々は 西條駅にほど近く
 行きかふ汽車の煙さへ
 景色のうちに棚引きて げに面白き眺めなり
 荒金とくる夏の日も 大地こごる冬の夜も
 栄え栄えてとこしへに 緑かはらぬ松本も
 名にさへ負へる学の舎 音に聞ゑて いや広く
 集まり来る生徒は 教育勅語をいただきて
 敬神尊皇愛国の 道一筋に守りつつ
 修めし業は国の為 家の為にと尽してし
 其功の弥高き 広き誉れはこの学校の
 誉とともにかぎりなし 誉とともにかぎりなし
 
音数で330音超とかなり長いですね。
また、この頃は賀茂郡西條町(現・東広島市)に所在していましたが、昭和2年に現在地に移転して次の校歌では広島市内の二葉山が歌われています。
 
松本商業学校時代の校歌は作詞・作曲:和田操一郎で昭和3年制定ですが、何番まであったかは不明です。
旧制・松本商 (全?番)
 清流めぐる 二葉山
 松 颯爽の 風の音
 聞くや 健児が高らかに
 若き希望を 歌ひつつ
 吾が学舎に 睦び合ふ
 五年のなつかし 吾等が母校
 五年のなつかし 吾等が母校
 
学制改革で松本商業高校となりましたが、新校歌が制定されるまではどうだったのでしょうか。
松本商業高校時代の校歌は作詞:葛原しげる 作曲:平井康三郎で、昭和31年制定です。
松本商業高校 (全3番)
 明けゆく空に ひびきぞわたる
 平和の鐘は 何さとす
 薫り清らの 文化の華を
 あまねく咲かさん 若人われら
 松本学園 使命ぞ重き
 
昭和47年に瀬戸内高校と改称したときに、校歌も変更されました。
作詞、作曲者とも校史には記載されていないのですが、曲は松本商を踏襲したと思われます。改称同年の昭和47年制定です。
瀬戸内高校・初代 (全3番)
 デルタ・ヒロシマ 明けゆく空に
 平和の鐘は 鳴りわたる
 誓いもあらた 世界の友と
 この手結ばん 若人われら
 瀬戸内学園 使命ぞ重し
 
その後、昭和59年に葛原しげる氏作詞のものに戻されました。
理由は校史にも見当たらなかったので不明です。この頃に学校長の交代があったようで、それに関係するかと思われるのですが推測にすぎません。
これが現在の校歌です。
瀬戸内高校・二代目 (全3番)
 明けゆく空に ひびきぞわたる
 平和の鐘は 何さとす
 薫り清らの 文化の華を
 あまねく咲かさん 若人われら
 瀬戸内学園 使命ぞ重き
 
校歌は校名部分を「松本学園」から「瀬戸内学園」に変えた以外に、2番最後の「矜持ぞ高き」も「誇りぞ高き」になっているようです。
 
高校野球では春2回、夏3回甲子園出場があり、平成3年春と平成12年夏は勝利の校歌が流れています。
ちなみに、初出場の昭和52年春当時は「デルタヒロシマ…」のほうでした。
サッカー部も広島県の強豪で、昨年には高校サッカー選手権にも出場しています。
前回の続きです。

原点回帰」。
現在でこそインターネットの発達も成熟してきて、誰もがブログやSNSで手軽に自己発信や他人との交流が活発になっていますね。
校歌もパソコンやスマホで検索すれば多くの学校の校歌がヒットして並び、音源が公開されてダウンロードすれば実際に聴ける…という便利な時代です。

そうした便利なツールが出てくる前の黎明期、校歌に限らず調べものや知識の獲得手段は図書館が定番でした。
私も最初の頃は各地の図書館に"通って"校歌を調べたものです。ただ、当時は歌詞さえ判ればいい程度で作者や楽譜などは二の次だったので、今から思えば資料としては不完全な状態ですね…

インターネットは便利ですが、公開されているのはほとんどは現在の校歌ばかりで、古い時代の校歌を調べるには限界もあり、ここはもう一度自分の足で図書館を回っていこうと思い立ったわけです。

そうして2010年代前半頃から、学生時代に行った図書館を再訪したり、まだ足を踏み入れていない地方にも家内と一緒に観光旅行がてら訪問したりしてきました。
東は東京から長野、西は山口まで、南は高知、海を越えて沖縄と、延べ17都府県ほど調査しています。初四国が今年10月の高知でした。
今後は北陸と山陰を予定していますが日程は未定、他には大阪と兵庫が"再訪問"できていません。

図書館めぐり。知りたい事柄や資料が所蔵されている確率が高い点で有効ですが、遠方になればなるほど旅費や宿泊費がかさみ、また社会人としては長期休暇も必要になるために年に数回程度しか調査できないのが難点です。
資料が書架になかったり著作権上コピー禁止もあったりすると、書庫出しの待ち時間や書写を強いられるので時間がなくなって諦めた、ということもありましたね。
それでも思わぬ"幻の校歌"を発見できたりするのも一興です。

思ったのは、どこまでを収集対象とするかです。
校歌、旧校歌はもちろん対象ですが、学校によっては"学生歌"、"生徒歌"、"逍遙歌"なるものが別途制定されていることがあります。
校歌の代わりに生徒歌を歌う、校歌制定前に代用として学生歌が作られた、逆に新しく校歌を制定したときに旧校歌を学生歌や逍遙歌とした、といった例があるわけです。
線引きが非常に曖昧なのですが、片っ端からというわけにもいきませんので取捨選択の形で収集しております。

閑話休題…ということでちょっと紹介から逸れてしまいますが、最近思っていたこと。

 

私が”校歌”の道に入って早や30年ほど経ちました。

きっかけは甲子園で流れる校歌からですが、録画・録音ができない期間があり、その間に他校の校歌にも目を向けるようになってきました。

 

高校時代は近隣の三河地方から始め、やがて愛知県から東海地方、大学進学で移住した関西地方と収集の範囲を拡げていきました。

大学卒業して地元に就職した2000年頃にインターネットが普及してきたため、ノートパソコンとネット環境を手にして全国的な範囲をカバーできるようになりました。ただ、2010年くらいまでは当時あった高校の現在の校歌だけ、つまり旧校歌や旧制学校、あと音源までは手を付けていませんでしたね。

当時の校歌ファイル(ドキュメント)を見るとテキストや画像なんかが雑多に放り込まれていて体裁もなにもあったわけでなし、これは一度整理しないと…と思いました。

 

さて、整理するからには個々の校歌も改めて本格的に見直しと修正が必要です。

各校の作詞者や作曲者、制定した時期(私は年月日は年に留めています)の特定、そして制定された校歌が複数あるところが少なくないことに気付きました。

旧制中学校高等女学校実業学校はもちろん、戦後の新設高校でも校名改称統合合併や分離独立共学化移転などの理由によって校歌が変えられている例が多数あるわけです。そうしたいわゆる”旧校歌”はHPに掲載されていないのが殆どで、同窓会のHPなどで申し訳程度に知れるくらいでした。


こうした”知られざる校歌”を把握するにはどうすればいいのか。

私なりに出した結論は「原点回帰」でした。

今回は、北海道の南茅部高校です。
長い校歌は、尾札部漁業高校時代のものを紹介したいと思います。

北海道南部、函館市に属する亀田半島の噴火湾沿岸にある川汲町にある学校です。元はこのあたりは南茅部町で、昭和34年に茅部郡臼尻村と尾札部村が合併して成立しました。
そして特筆すべきは国内産の15%ほども占める昆布の一大産地です。真昆布が特産品で、特上の白口浜真昆布は江戸時代に朝廷や幕府に献納していたため"献上昆布"と呼ばれる最高級品です。
そのため、町民の半分以上が漁業や昆布に関する"漁師町"でもあります。

昭和24年にまず臼尻村に森高校臼尻分校が開校、2年後に尾札部村に森高校尾札部分校が開校しました。
それぞれが独立して臼尻高校尾札部高校に、更に昭和29年に漁業科単独の高校として臼尻漁業高校尾札部漁業高校と改称、昭和32年に統合して南茅部漁業高校となりました。
漁業・水産関係の学科単独の学校は古くから"水産"が付きもので、"漁業"の付く校名はおそらくここのみだったのではないでしょうか?

臼尻校の校歌は作者、制定年とも不明です。
臼尻 (全3番)
 道南の 磯の香高く
 美わしく 駒ヶ岳立つ
 其の所 群れ集う
 青春の 血潮みなぎる

2番「文の道 究めんものと、すなどりのいとまを縫いて…」が、漁業と勉学の両立を歌っていますね。
 
尾札部校は、尾札部漁業高校になってからの制定でしょうか。
尾札部漁業高校の校歌は作詞:大木惇夫 作曲:飯田信夫で、昭和31年頃の制定と思われます。
尾札部漁業 (全3番)
 啓は厳し 駒ヶ丘 火を吐くものの叫びあり
 海に富あり 行かんかな 漁りこそは父祖の道
 北斗の星を しるべにて 怒濤も何ぞ堂々と
 吹雪の中に うそぶかん
 ああわれら海の若者 民族の血は高鳴れり
 苦しみに耐え たくましく
 村を背負い 国を背負いて 波をける船ぞ学び舎
 黒潮よ 親潮よ 北に行き南に行くも
 栄光丸は希望の船
 栄光は この船に いざ海へ 海へ 海へ

新制高校となってから制定された校歌としては、知る限りここが"日本最長"になると思われます。
ワンコーラスの音数が200音を超えるのは旧制学校を除けば藤枝明誠と尾札部漁業のみで、尾札部漁業は更に3番まであるのでメロディーがどの程度の速さなのか、何分かかるのか気になるところです。
冒頭の「駒ヶ丘」とは北に見える北海道駒ヶ岳を指すと思われるのですが、駒ヶ"岳"の誤記でしょうか。
制定が昭和31年頃というのは歌詞に出てくる実習船・栄光丸の竣工がこの年であることからの推測です。

南茅部漁業高校は昭和37年に全日制普通科・家政科を併設して南茅部高校と改称しました。その後も漁業に関する学科はありましたが、平成9年停止の栽培漁業科を最後に普通科のみとなり現在に至ります。
ユニークな点として"逆サマータイム"を取り入れていることが挙げられます。特産品の昆布漁の手伝いをする生徒が多いため、遅刻解消のために最盛期の7月のみ始業時間を30分遅れの9時からにするというものです。
校歌は作詞:村田勲 作曲:近江功で制定年は不明です。
南茅部 (全2番)
 青年の 清らに澄める瞳もて
 集い語らん 胸のうち
 学びの森に 緑葉の
 風にさやぎて 歌うあり
 鳥の 梢に憩うなり
 流るる空の 雲淡し