大阪府立 生野高等学校 (長い校歌シリーズ その9) | 校歌の広場

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高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は、大阪府の生野高校です。

その名称から大阪市生野区にある学校と思われがちかもしれませんが、所在地は5kmほども南の松原市新堂です。
真相は昭和44年に生野区から松原市に移転しても校名を変えなかったためですが、新設でなく移転の形を取ったのは教育上の配慮ということらしいです。

大正9年に府立第十二中学校として創立、翌年に当時の所在地の東成郡生野村により生野中学校と改称しました。生野村は今の生野区の一部です。
そのまま学制改革で生野高校となり、来年には100周年を迎える伝統校です。
現在の大阪府では、府立・市立の公立高校は府内全域から受験可能になっていますが、この辺りでは上位の進学校です。主に国公立大学を目指す学生が多いようですね。

校歌は作詞:池田多助 作曲:新居一郎の曲による、とあり作詞者が初代校長ということは創立当初に制定されたと思われます。
また「登高賦」という副題が付けられています。
生野 (全12番)
 浅紫に 明けてゆく
 生駒 金剛 遙に見て
 黎明の光 身に浴びつ
 希望に生ける 健児あり

12番まであり、当初の第十二中学校にちなんでいるそうです。
追記:普段は1・11・12番を歌うそうです。テンポは銚子商よりはわずかに遅い程度で、おそらく12番まで歌っても5分程度ではないでしょうか。

2番「高津の宮の昔より、大楠公の忠節や」は、南北朝時代に に活躍した武将・楠正成のことです。後世には大楠公とも称された楠正成は、時の天皇・後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府の倒幕に貢献しています。
その後は南北に朝廷が分かれ北朝方の足利尊氏と死闘を繰り広げましたが、湊川の戦いで劣勢を強いられ新田義貞とともに自害しました。
"七生報国"、"非理法権天"は楠正成の代表的な言葉で、どちらも人民は天皇に忠義を尽くすべきという意味です。明治~戦中にかけて家紋"菊水"とともに神格化されたのは、この面が強調されたからでしょう。
金城高く聳え立つ、豊太閤の其の勲業」は、大阪城の別名が"錦城"や"金城"と呼ばれることを指し、豊太閤=豊臣秀吉が残した功績の代表格として歌っています。
3番「英雄の覇図、永久に、胸の小琴に通ふかな」と、楠正成・正行父子や豊臣秀吉といった地元の英雄を模範として行動せよ、ということでしょう。
戦前らしい校歌のひとつですね。

他には新潟県の新発田高校も10番までありますが、これは別シリーズ記事で紹介したいと思います。