僕は辛い時、キツい時、悲しい時は化物のことを考えるようにしている。

子供の頃、母は僕を「ムツヤ婆ちゃん」という人のところへ何度か連れて行ってくれたことがある。

「ムツヤ婆ちゃん」は近所に住むお年寄りで、大妖怪・水木しげる先生著「のんのんばあとオレ」に出てくるのんのんばあそのままに、まじないをしてくれる人で、墨と筆で手に何やら書いてくれたり、小さく丸めたお札を飲ませてくれたりした。

推測するに、その頃、僕は云い知れぬ不安や恐怖で夜寝れなかったり、泣き出したりするおむずかりベビィだったので、其のケアの為だったのだろう。
不思議とそのまじないはよく効いて、心が落ち着いたと記憶している。

当事者たる「ムツヤ婆ちゃん」、母が亡くなった今では、その真意は確かめようがないが、そんな幼児体験からか、僕は不思議なことが大好きになってしまった。


話を戻そう。僕は辛い時、キツい時、悲しい時は化物のことを考えるようにしている。

例えば、日本人なら誰でも経験が有るだろう…タンスの角に足の小指をぶつけた時のあの痛み!!!
只ぶつけただけであの鈍痛である…あの痛さは実に妖怪的である。

だからこう考えた。

"タンスの影にはいつも『妖怪・王選手』という小人が潜んでいて、こっちが気を抜いてると手に持ったバットで足の小指をフルスイングしていく。
「ナボナナボナ…」と唱えると痛みが次第に引いていく。"

う~ん…実にクダラナイ( ´艸`)

しかしそう考えることは楽しいし、幾ばくかの心に余裕が生まれるような気がする。
恐らく「痛いの痛いの飛んで行け~」も基を質せば同じ原理で創られた言葉ではないかと思う。

そして昔、「ムツヤ婆ちゃん」が自分にしてくれたことは、手段趣向は違えど、こういうことではなかったのかな。とそう思う。



…違ってたらゴメン「ムツヤ婆ちゃん」m(_ _ )m


本来の意味:キモい。キショいとも。「気持ち悪い」を略した若者言葉。相手を傷つける可能性が高いので、あまり人に向かって使わないのが肝要。
しかし「気持ちいい」も同様に略せる筈だが「気持ち悪い」という意味でしか使われないのがちょっと不思議である。




妖解釈:木喪異(きもい)。歳を経た大木、御神木がこれを切り倒そうとした人間に祟りを為すと云う話は諸国に数多点在している。木喪異はその中でも殊に特異な例である。

昔、木曾のある村に大きな檜があり、その雄大さから山に入る人々に御神木として大切にされていた。
しかし、村の庄屋が蔵を作るのに使おうと人足を雇い、この檜を切ろうとした。
そしてその作業が始まった日、庄屋は進み具合を見届けた帰り、正面からすれ違って行く葬列に出会す。
(はて…村で死人が出たとは聞いていないが…)
「おい。誰か亡くなったのか。」
「はい…この村の庄屋様が…」
中の一人がそう云うと葬列は、あまりの事に立ち尽くす庄屋を他所に闇の中に消えていった。

間もなく庄屋は卒中で亡くなり、お弔いとなったが、その葬列のなかにいた一人が「誰か亡くなったのか。」と声をかけて来た者があったと話したと云う。


ふい~(´∀`)
つっかれた~寝よ寝よ…


本来の意味:真弓 明信(まゆみ あきのぶ、1953年7月12日 - )、ランディ・バース(Randy William Bass、1954年3月13日 - )、掛布 雅之(かけふ まさゆき、1955年5月9日 - )は共に元プロ野球選手、阪神黄金期を支えた名バッター。

妖解釈:馬幽海(まゆみ)は海上に現れる馬の怪。瀬戸内海を中心に各地でその伝承が認められる。
また地方によって馬阿州(ばあす)駆浮(かけふ)とも呼ばれる。

それぞれの地方で大凡共通していることは、漁師が海上で馬幽海を見ると、その舟は忽ち嵐に見舞われ、沈没してしまうということである。
また眼と蹄が鬼火のように青白く光ると云い、遠目の利く漁師がこれを見咎め、急いで岸に戻り、無事、難を逃れたという。

しかし稀に、人を助けることも有り、嵐に見舞われた舟を先導して近くの岸まで案内したり、海に落ちてしまった人を背に乗せ、船まで運んだという話も残っている。

瀬戸内の一部の地域ではこれを源氏との戦いで船共々に海中に没した平家の騎馬の霊とだ信じられている。





岡田の当て字に挫折(;´Д`)ノ
うう…ねむ…