◆おまけ「とある科学の超電磁砲」(レールガン)

 

 

アニソン代表曲のひとつ。only my railgun オンリーマイレールガン。

南條 愛乃は、日本の女性声優、歌手、fripSideの元ボーカル、μ'sのメンバー。  静岡県静岡市清水区出身

 

 

◆【高橋洋一】NISAとiDECOはどっちが良いのか?

 

 

◆AI利用のイスラム史

◆アッバース朝。
黎明期 (750-809年)
アッバース家による建国
アッバース朝は、ウマイヤ朝を打倒し、イスラム世界の新たな支配者となった。
ハールーン・アッラシードの治世は、アッバース朝が政治、経済、文化の各分野で最も繁栄した時期であり、「黄金時代」と呼ばれている。
2. 停滞期 (809-945年)
マムルーク制の導入
地方勢力の台頭
政治的混乱
ハールーン・アッラシードの死後、アッバース朝は徐々に衰退し始める。
地方勢力が台頭し、アッバース朝の支配力は弱体化する。
マムルーク制と呼ばれる軍事奴隷制度が導入される。

3. 分裂期 (945-1258年)
ブワイフ朝によるカリフ権力の掌握
各地における独立王朝
ブワイフ朝と呼ばれるペルシャ系の王朝がカリフ権力を掌握する。
各地で独立王朝が台頭し、アッバース朝の支配領域は縮小する。


アッバース朝は、750年にウマイヤ朝を倒してイスラム世界の支配権を握った王朝です。
アッバース朝が勢いを持った背景には、以下の要因が挙げられます。

1. ウマイヤ朝への不満
ウマイヤ朝は、アラブ人の支配階級を優遇し、非アラブ人のイスラム教徒を差別していました。
 そのため、非アラブ人の間にはウマイヤ朝への不満が高まっていました。

2. アッバース家の政治力
アッバース家は、イスラム教の預言者ムハンマドの叔父であるアッバースの子孫であり、高い宗教的権威を持っていました。
 アッバース家は、この権威を利用して、ウマイヤ朝に対する反乱を扇動しました。

3. ペルシャ人の支持
アッバース家は、ペルシャ人の支持を得ていました。
 ペルシャ人は、ウマイヤ朝によるアラブ人の支配に不満を持っていました。
 そのため、アッバース朝がウマイヤ朝を倒すのを支援しました。

4. アッバース朝の政治体制
 アッバース朝は、ウマイヤ朝よりも中央集権的な政治体制を確立しました。
 また、官僚制度を整備し、徴税システムを効率化しました。

5. アッバース朝の文化政策
 アッバース朝は、ギリシャやローマの学問を積極的に摂取し、翻訳事業を推進しました。
 また、バグダッドに図書館や学問所を設立し、学問文化を奨励しました。

これらの要因が重なり、アッバース朝は勢力を拡大し、イスラム世界の黄金時代と呼ばれる繁栄期を築き上げました。


アッバース朝は長い目でみればスンナ派ですか?
はい、長い目でみればアッバース朝はスンナ派王朝と言えるでしょう。
アッバース朝初期にはシーア派への傾倒が見られた時期もありましたが、
8世紀後半のムアンタスィル治世以降はスンナ派を正統と定め、積極的に保護・支援しました。

アッバース朝におけるスンナ派の確立
ムアンタスィルは、シーア派への弾圧を開始し、ムタズィラ派と呼ばれる神学思想を国家の正統思想としました。
7代目マアムーンは、さらにスンナ派への保護・支援を強化し、バグダードに(イスラム法学の学院)を設立しました。
これらの政策によって、アッバース朝はスンナ派の中心地となり、イスラム世界の宗教・政治・文化の中核を担うようになりました。

アッバース朝とスンナ派の関係
アッバース朝は、スンナ派の学者を登用し、スンナ派の法学の発展を促しました。
また、各地にモスクやマドラサ(イスラム学院)を建設し、スンナ派の教えを広めました。
アッバース朝の保護・支援によって、スンナ派はイスラム世界における主流派となりました。

【イドリース朝】
786年、イドリース朝の建国はアッバース朝下の権力争いに負けた方が逃げてできた王国ですか?

はい、イドリース朝の建国は、アッバース朝下の権力争いに敗れたイドリース1世が逃亡して建てた王国と言えるでしょう。
アッバース朝は、スンナ派を正統思想と定め、シーア派を異端として弾圧しました。
イドリース1世は、預言者ムハンマドの血を引くハサンの子孫であり、アッバース朝にとって潜在的な脅威となる存在でした。
786年、イドリース1世はアッバース朝のカリフ、5代ハールーン・アッラシード(全盛期)による迫害を逃れてモロッコに逃亡しました。

イドリース朝の建国
イドリース1世は、モロッコのベルベル人部族の支持を得て、788年にイドリース朝を建国しました。
イドリース1世は、優れた政治家、軍事指導者として、イドリース朝の基盤を築き上げました。
イドリース朝は、シーア派王朝として建国されたわけではありません。
イドリース1世は、ベルベル人の支持を得て建国を成し遂げ、イドリース朝はモロッコの最初のイスラム王朝となりました。
(Q イドリース朝はモロッコの最初のイスラム王朝といわれますが、ウマイヤ朝のときモロッコを支配してないのですか?
イスラム教徒がモロッコに初めて到達したのは7世紀後半ですが、ウマイヤ朝はモロッコを完全に支配することはできませんでした。
ウマイヤ朝はモロッコの一部地域を征服しましたが、ベルベル人の激しい抵抗に遭い、支配を確立することができなかったのです。)

イドリース朝は、建国当初からアッバース朝と敵対関係にありました。
アッバース朝は、イドリース朝を攻略しようとしましたが、成功しませんでした。
イドリース朝は、モロッコのベルベル人の支持を得て、アッバース朝の侵攻を防ぎました。
(イドリース朝はシーア派王朝でしたが、ベルベル人にイスラム教を強要したという記録はありません。
イドリース朝は、ベルベル人の文化とイスラム教を融合させ、モロッコに独自のイスラム文化を築き上げました。)

ベルベル人の後ウマイヤ朝への反感
後ウマイヤ朝は、アンダルシアから北アフリカに逃れて勢力を再興したイスラム王朝です。
後ウマイヤ朝は、ベルベル人の土地を征服し、ベルベル人に重税を課しました。
ベルベル人は、後ウマイヤ朝の支配に抵抗し、独立を求めていました。

イドリース朝への期待と不安
イドリース朝は、シーア派を信仰するイスラム王朝です。
ベルベル人の多くは、スンナ派を信仰していました。
イドリース朝がベルベル人の伝統文化を尊重するか、シーア派への改宗を強制するかは、ベルベル人にとって不安な要素でした。

 政治的・経済的な利害関係
イドリース朝は、ベルベル人の支持を得ることで、政治基盤を強化することができます。
ベルベル人は、イドリース朝を支持することで、後ウマイヤ朝からの独立を達成することができます。
イドリース朝とベルベル人は、互いに利益を交換する関係にありました。
イドリース朝の政治・文化
イドリース朝は、ベルベル人の文化を尊重し、ベルベル人の支持を得ていました。
イドリース朝は、貿易や農業を振興し、モロッコの繁栄を築き上げました。
イドリース朝は、ベルベル人にとって魅力的な存在でした。

ルスタム朝
ルスタム朝は、8世紀から9世紀にかけて、現在のアルジェリア北東部に存在したイラン系の王朝です。
首都はターハルト(現在のティムガッド)でした。


特徴
イスラム教シーア派のイバード派を信仰していました。
ベルベル人の部族と同盟関係を築き、勢力を拡大しました。
アッバース朝カリフの支配に抵抗し、独立を維持しました。
地中海貿易で繁栄し、独自の文化を発展させました。
歴史

767年、アッバース朝カリフに対する反乱を指導したアブドゥッラフマーン・ブン・ルスタムによって建国されました。
9世紀には最盛期を迎え、チュニジアやシチリア島にも勢力を伸ばしました。
909年、アッバース朝カリフの軍隊によって滅亡しました。

文化
イスラム教シーア派のイバード派の学問の中心地でした。
独自の建築様式や貨幣制度を発展させました。
ベルベル文化と融合した独特な文化を形成しました。


ルスタム朝の重要性
イスラム教シーア派のイバード派の重要な拠点でした。
ベルベル人の政治勢力として重要な役割を果たしました。
地中海貿易の発展に貢献しました。


◆800年アグラブ朝
アグラブ朝はアッバース朝がルスタム朝やイドリース朝などに対抗するために置いた国みたいなものですか?

はい、アグラブ朝はアッバース朝にとってルスタム朝やイドリース朝などに対抗するための存在という側面がありました。
しかし、同時にアッバース朝からの独立性を高め、独自の王朝を築き上げていく存在でもありました。

アッバース朝にとってのアグラブ朝

アッバース朝は、北アフリカの支配を強化するために、イフリーキヤ(現在のチュニジア)にアグラブ家を派遣しました。
アグラブ家は、ルスタム朝やイドリース朝など、アッバース朝の権威に反抗する勢力と戦い、北アフリカにおけるアッバース朝の支配を確立しました。
アグラブ朝は、アッバース朝に忠誠を誓い、朝貢を納めていました。
アグラブ朝の独立性
アグラブ朝は、軍事力と経済力を強化し、独自の政治体制を築き上げました。
イフリーキヤの豊かな資源を活かして、繁栄を築き上げました。
9世紀後半には、アッバース朝からの独立を宣言し、独自の王朝となりました。。


821年 ターヒル朝は、9世紀にアッバース朝の東部ホラーサーン地方を支配したイスラム王朝です。
ターヒル朝の成立
ターヒル1世による建国
アッバース朝カリフへの貢献
ホラーサーン地方の統治
ターヒル1世は、アッバース朝カリフへの貢献によりホラーサーン地方の総督に任命されました。
その後、ターヒル1世の子孫がホラーサーン地方を世襲統治し、ターヒル朝が成立しました。

ターヒル朝の政治

アッバース朝への忠誠
ホラーサーン地方の安定
ペルシャ文化の復興
ターヒル朝は、アッバース朝カリフへの忠誠を維持しながら、ホラーサーン地方を安定的に統治しました。また、ペルシャ文化の復興にも力を入れました。

ターヒル朝の軍事

強力な軍隊
アッバース朝への貢献
サッファール朝との対立
ターヒル朝は、強力な軍隊を擁しており、アッバース朝への軍事支援にも貢献しました。しかし、サッファール朝との対立により弱体化し、873年に滅亡しました。

ターヒル朝の文化

ペルシャ文化の影響
文学・芸術の発展
バグダッドとの交流
ターヒル朝は、ペルシャ文化の影響を受け、文学・芸術が発展しました。また、アッバース朝の首都バグダッドとの交流も盛んでした。

ターヒル朝の重要性
アッバース朝東部の安定
ペルシャ文化の復興
イスラム世界における役割
ターヒル朝は、アッバース朝東部の安定に貢献し、ペルシャ文化の復興を果たしました。また、イスラム世界における重要な政治勢力の一つでした。


ターヒル朝とアグラブ朝は、いくつかの共通点と相違点を持つイスラム王朝です

共通点
アッバース朝からの独立:両王朝とも、アッバース朝カリフから一定の自治権を与えられた半独立王朝でした。
軍事力:両王朝とも、強力な軍事力を有していました。
文化への貢献:両王朝とも、文化の発展に貢献しました。
相違点
支配地域:ターヒル朝はホラーサーン地方(現在のイラン東部・アフガニスタン北部)、
アグラブ朝はイフリーキヤ(現在のチュニジア)を支配していました。
宗派:ターヒル朝はスンナ派、アグラブ朝はスンナ派とシーア派が混在していました。
存続期間:ターヒル朝は約80年間、アグラブ朝は約100年間存続しました。
**イラン方面版「アグラブ朝」**という表現は、ターヒル朝の特徴をある程度捉えています。


アッバース朝「知恵の館」
「知恵の館」は9世紀にアッバース朝の第7代カリフ・マアムーンによって設立された図書館であり、研究機関も兼ね備えていました。古代ギリシャ、ローマ、ペルシャなどの学術文献を収集・翻訳し、イスラム世界における学問の発展に大きく貢献しました。

「知恵の館」の特徴
膨大な蔵書:ギリシャ語、シリア語、ペルシャ語など、様々な言語の文献を数多く収集しました。
翻訳事業:ギリシャ哲学、医学、天文学など、様々な分野の文献をアラビア語に翻訳しました。
研究機関:翻訳された文献を研究する学者たちが集まり、活発な学術活動が行われました。
「知恵の館」の影響
イスラム学問の発展:イスラム世界における哲学、科学、医学などの学問の発展に大きく貢献しました。
ヨーロッパへの影響:翻訳された文献は後にヨーロッパに伝わり、ヨーロッパのルネサンスにも影響を与えました。
「知恵の館」の重要性
「知恵の館」は、イスラム世界における学問の中心地として、東西の文化交流にも重要な役割を果たしました。

中世における最も重要な図書館の一つであり、現代の学問の発展にも大きな影響を与えています。

「知恵の館」に関する情報
設立年: 830年頃
場所: アッバース朝の首都バグダッド
歴代館長: ユフナ・ブン・マサーウィーヤなど
主な蔵書: ギリシャ哲学、医学、天文学、数学、歴史など
翻訳事業: ギリシャ語、シリア語、ペルシャ語文献のアラビア語への翻訳
影響: イスラム世界における学問の発展、ヨーロッパへの影響

アッバース朝「知恵の館」での翻訳作業には、ネストリウス派キリスト教徒が大きく貢献しました。

ネストリウス派キリスト教徒の貢献
ギリシャ語文献へのアクセス: ネストリウス派キリスト教徒は、シリア語で書かれたギリシャ語文献へのアクセスが可能でした。
翻訳技術: ネストリウス派キリスト教徒は、翻訳技術に長けていました。
学問への熱意: ネストリウス派キリスト教徒は、学問への熱意を持っていました。
具体的な人物
フナイン・ブン・イスハーク: ネストリウス派の医師であり翻訳家。多くのギリシャ語医学文献をアラビア語に翻訳しました。
ユフナ・ブン・マサーウィーヤ: ネストリウス派の学者であり、「知恵の館」の初代館長。多くのギリシャ語哲学文献をアラビア語に翻訳しました。


アッバース朝の宗教政策: アッバース朝は、キリスト教徒を含む異教徒に対して比較的寛容な政策を取っていました。
ギリシャ語文献への需要: アッバース朝は、古代ギリシャ・ローマの学問を積極的に吸収しようとしていました。
ネストリウス派キリスト教徒の能力: ネストリウス派キリスト教徒は、翻訳作業に必要な能力を持っていました。
結論
アッバース朝「知恵の館」での翻訳作業において、ネストリウス派キリスト教徒は重要な役割を果たしました。
彼らの貢献なくして、イスラム学問の発展はあり得なかったと言えるでしょう。


➡アッバース朝「知恵の館」にネストリウス派が集まってきたのは、ローマカトリックでの異端判断もプラスになったと考えられます。
ネストリウス派は、5世紀にキリスト教の教義をめぐって発生した異端です。

イエス・キリストの人格を二つの位格に分けるという考え方を主張しました。
ネストリウス派は、ローマカトリック教会によって異端とされ、迫害を受けました。

そのため、多くのネストリウス派キリスト教徒が東方に逃れました。


一方、アッバース朝は、キリスト教徒を含む異教徒に対して比較的寛容な政策を取っていました。

そのため、ネストリウス派キリスト教徒にとって、アッバース朝は安全な避難場所となりました。

「知恵の館」
アッバース朝「知恵の館」は、古代ギリシャ・ローマの学問を積極的に吸収しようとしていました。

そのため、翻訳作業に必要な能力を持つネストリウス派キリスト教徒を積極的に採用しました。
 


867年サッファール朝。(➡初代スンナ派から2代目シーア派に。)
9世紀から10世紀にかけてイラン東部とアフガニスタン東部に存在した王朝です。
867年、銅細工師の出身であったヤークーブ・ブン・ライスが、アッバース朝に対して反乱を起こし、サッファール朝を建国しました。
サッファール朝とターヒル朝の衝突 両王朝ともイラン東部の支配権を争っていた。
873年、サッファール朝のヤークーブ・ブン・ライスは、ターヒル朝の首都ニシャープールを攻略し、ターヒル朝を滅ぼしました。
ターヒル朝はアッバース朝の地方政権であったが、サッファール朝はアッバース朝に敵対していた。
サッファール朝は、ターヒル朝よりも軍事的に優れていた。
 理由は、以下のとおりです。
1. 優秀な騎兵隊
サッファール朝は、優れた騎兵隊を擁していました。当時のイラン東部では、騎兵隊が戦場における主力であり、サッファール朝の騎兵隊は、ターヒル朝の騎兵隊よりも優れた訓練と装備を備えていました。

2. 豊富な戦闘経験
サッファール朝の軍隊は、多くの戦闘経験を持っていました。ヤークーブ・ブン・ライスは、サッファール朝を建国する前に、アッバース朝やその他の勢力との戦闘で多くの勝利を収めていました。

3. 高い士気
サッファール朝の軍隊は、高い士気を持っていました。ヤークーブ・ブン・ライスは、カリスマ的な指導者であり、兵士たちの忠誠心を高めていました。

4. 新しい戦術
サッファール朝は、新しい戦術を導入していました。ヤークーブ・ブン・ライスは、騎兵隊と歩兵隊を組み合わせた戦術を開発し、ターヒル朝の軍隊を打ち破りました。

5. 地理的優位性
サッファール朝は、地理的に有利な位置にいました。サッファール朝の首都ザランジは、イラン東部とアフガニスタンの東部の交通の要衝に位置しており、サッファール朝は、この地理的優位性を活かして、軍隊を迅速に移動させることができました。
これらの理由から、サッファール朝はターヒル朝よりも軍事的に優れており、ターヒル朝を滅ぼすことができたのです。


衝突の結果
サッファール朝はターヒル朝を滅ぼし、イラン東部の支配権を獲得しました。
ヤークーブは優れた軍事指導者であり、ホラーサーン地方やシンド地方を征服し、サッファール朝の版図を大きく広げました。

文化と繁栄
サッファール朝は、ペルシア文化の復興を推進しました。

ヤークーブは、詩人や学者を保護し、ペルシア語文学の発展に貢献しました。

また、サッファール朝は、農業や商業の発展にも力を入れ、繁栄を享受しました。

サッファール朝の主な特徴
建国者:ヤークーブ・ブン・ライス
首都:ザランジ
領域:イラン東部、アフガニスタン東部
宗教:イスラム教
文化:ペルシア文化
滅亡:903年
サッファール朝の重要人物

ヤークーブ・ブン・ライス:サッファール朝の建国者
アムル・ブン・ライス:ヤークーブの弟で、サッファール朝の第2代君主
アッバース朝:サッファール朝と対立したイスラム王朝
サーマーン朝:サッファール朝を滅ぼしたイスラム王朝

◆868年 エジプトのトゥールーン朝。
(トゥールーン朝は、アッバース朝との関係が複雑で、時期によって親アッバース派と反アッバース派の間を行き来していました。)
868年、アッバース朝の将軍であったアフマド・ブン・トゥールーンがエジプト総督に任命されました。
トゥールーン朝は、アッバース朝が任命した地方政権から発展した王朝です。

アフマドはエジプトで実権を握り、
870年、アフマドはアッバース朝カリフへの貢納を拒否し、トゥールーン朝を建国しました。
トゥールーン朝は、エジプトだけでなく、シリアやパレスチナの一部にも勢力を拡大しました。
トゥールーン朝は、エジプトとシリアに繁栄をもたらしました。
 アフマドは、農業や商業の発展に力を入れ、エジプトの経済を活性化しました。
 また、アフマドは、多くの建築物を建設し、エジプトの文化を振興しました。

滅亡
905年、トゥールーン朝はアッバース朝に滅ぼされました。
しかし、トゥールーン朝は、エジプトの歴史に大きな足跡を残しました。

トゥールーン朝の主な特徴

建国者:アフマド・ブン・トゥールーン
首都:フスタート
領域:エジプト、シリア
宗教:イスラム教
文化:イスラム文化とエジプト文化の融合
滅亡:905年
トゥールーン朝の重要人物

アフマド・ブン・トゥールーン:トゥールーン朝の建国者
イブン・トゥールーン:アフマドの息子で、トゥールーン朝の第2代君主


869年 ザンジュの乱
9世紀後半、アッバース朝で起こった黒人奴隷の反乱


 869年~883年、14年も続いたアッバース朝に対する黒人奴隷の反乱。ザンジュとはアフリカのナイル上流地域、タンザニア、モザンビークなどからイスラーム圏に連れてこられた黒人奴隷のこと。彼らはモンバサやザンジバルなどからムスリム奴隷商人の手によってイスラーム圏に売られ、現在のイラク南部バスラ地域の農園で農業奴隷として働かされていた。アッバース朝の衰退に乗じ、他の下層民ともに869年に反乱を起こした。
反乱軍は878年には「ザンジュ王国」を建設、独立政権となったが、883年にアッバース朝軍によって滅ぼされた。


875年サーマーン朝。スンナ派王朝
 サーマーン朝は、875年にイスマイル・ブン・アフマドがアッバース朝から独立して建国した、中央アジアとイラン東部を支配した王朝です。首都はブハラに置かれました。

サーマーン朝は、現在のウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタンあたりに位置する、ソグディアナを中心とした地域を支配していました。

具体的には、以下の都市が含まれます。
首都ブハラ (ウズベキスタン)
サマルカンド (ウズベキスタン)
ヘラート (アフガニスタン)
メルヴ (トルクメニスタン)
これらの都市は、いずれも古代からシルクロードの重要な拠点として栄えていました。サーマーン朝はこれらの都市を支配することで、東西交易を掌握し、莫大な富を得ました。

サーマーン朝の支配地域は、ソグディアナ以外にも、ホラーサーン、アムダリヤ川以北の草原、シンドなど、広範囲にわたっていました。

(サーマーン朝の王族は、イスラム教スンナ派のハナフィー学派に属していました。彼らはハナフィー学派の学者を保護し、ブハラやサマルカンドなどの都市にハナフィー学派の学校を設立しました。サーマーン朝は、イスラム教のスンナ派正統カリフであるアッバース朝カリフを承認していました。また、スンナ派の信仰を守るために、シーア派やその他の異端派を弾圧しました。)

サーマーン朝VSサッファール朝。
873年、サッファール朝のアムル・ブン・ラィスは、サーマーン朝の領土であるホラーサーンに侵攻しました。
アムルはサーマーン朝の軍隊を破り、ブハラを占領しました。

しかし、875年、サーマーン朝のイスマイル・ブン・アフマドは、アムルを破り、ブハラを奪回しました。
その後、イスマイルはサッファール朝をさらに攻め込み、サッファール朝の勢力を弱体化させました。


この戦いをきっかけに、サーマーン朝は中央アジアで最も強力な王朝となりました。

サーマーン朝は、東西交易の拠点として繁栄しました。シルクロードを通過する交易を掌握し、莫大な富を得ました。
また、ペルシャ文化の復興にも力を入れ、多くの学者や芸術家を保護しました。

サーマーン朝の主な功績は以下の通りです。
東西交易の振興
ペルシャ文化の復興
イスラム教の普及
学問・芸術の保護

903年、サッファール朝滅亡
903年、サッファール朝はサーマーン朝に滅ぼされました。



千夜一夜物語
10世紀から15世紀にかけて、長い時間をかけて成立したと考えられています。
現存する最古の写本の断片は9世紀にさかのぼり、12世紀頃には「千夜一夜」という名で呼ばれていたようです。
その後、バグダードを中心に多くの物語が取り入れられ、13世紀以降にはカイロでもさらに物語が加えられました。
このように、千夜一夜物語は様々な時代や地域で語り継がれてきた物語の集大成であり、その成立過程は複雑で謎に包まれています。

◆909年ファーティマ朝
ファーティマ朝は、909年から1171年まで北アフリカ、シリア、パレスチナ、エジプトなどを支配したイスラム王朝です。シーア派イスマーイール派のカリフが統治していました。

建国

ファーティマ朝は、イスラム教シーア派の一派であるイスマーイール派の指導者であるウバイド・アッラーフ・マフディーによって建国されました。ウバイド・アッラーフは、自身こそが預言者ムハンマドの娘ファーティマとアリーの子孫である正当なカリフであると主張しました。

ファーティマ朝は、トゥールーン朝が弱体化した900年代初頭に勢力を拡大しました。
905年、ファーティマ朝はエジプトを征服し、トゥールーン朝を滅亡させました。
ファーティマ朝にとって、トゥールーン朝滅亡は、エジプト征服と北アフリカへの勢力拡大の重要な足掛かりとなりました。

トゥールーン朝滅亡の原因
内紛
財政難
アッバース朝との対立
ファーティマ朝の侵攻


最盛期

ファーティマ朝は、969年にエジプトを征服し、首都をカイロに移しました。その後、シリアやパレスチナにも勢力を拡大し、最盛期には地中海世界で最も強大な王朝の一つとなりました。

文化

ファーティマ朝は、商業や文化の発展に大きく貢献しました。カイロは、イスラム世界の学問の中心地として栄えました。また、ファーティマ朝は、貿易を盛んに行い、地中海世界全体の経済発展に貢献しました。

衰退

11世紀になると、ファーティマ朝は内紛や十字軍の侵攻によって弱体化しました。1171年、サラディンによって滅亡させられました。

影響

ファーティマ朝は、イスラム教シーア派の発展に大きく貢献しました。また、商業や文化の発展にも貢献しました。ファーティマ朝の影響は、今日でもイスラム世界に残っています。



932年 ブワイフ朝について
ブワイフ朝は、932年から1062年までイラン、イラク、シリアなどを支配したイスラム王朝です。
シーア派十二イマーム派の信仰を持つブワイフ家によって建国されました。

建国

ブワイフ家は、もともとダイラム地方(カスピ海南岸の山岳地帯)出身の軍人一家でした。
三兄弟であるアリー、ハサン、アフマドは、それぞれイラン、イラク、シリアで勢力を拡大し、932年にブワイフ朝を建国しました。

最盛期

ブワイフ朝は、アッバース朝カリフから「大アミール」の称号を与えられ、バグダードを支配しました。
また、軍事力と財力を強化し、イラン、イラク、シリアなどを支配する大王朝となりました。

ブワイフ朝がバグダードにやって来た945年当時、アッバース朝カリフはバグダードに留まっていました。しかし、ブワイフ朝は軍事力と財力を背景に、アッバース朝カリフから政治権力を奪い、バグダードを支配しました。

その後、アッバース朝カリフは名目的な宗教指導者として存続しましたが、政治的な実権はブワイフ朝が握りました。ブワイフ朝は、アッバース朝カリフを傀儡として利用し、イスラム世界の支配を確立しました。

ブワイフ朝は1062年に滅亡しますが、その後もアッバース朝カリフはバグダードに留まり、名目的な宗教指導者として存続しました。しかし、モンゴル帝国の侵攻によって1258年に滅亡しました。

アッバース朝カリフの所在地

945年以前:バグダード
945年~1062年:バグダード(ブワイフ朝の支配下)
1062年~1258年:バグダード
補足

ブワイフ朝は、シーア派十二イマーム派を信仰する王朝でした。
ブワイフ朝は、アッバース朝カリフから「大アミール」の称号を与えられました。
ブワイフ朝は、イラン、イラク、シリアなどを支配しました。
ブワイフ朝は、文化の発展にも貢献しました。



ブワイフ朝とアッバース朝の関係は、アッバース朝カリフがバグダードの宮殿に押し込められたような状況と言えるでしょう。

ブワイフ朝がバグダードにやって来る

945年、ブワイフ朝はバグダードに入城しました。ブワイフ朝は、強力な軍事力と財力を背景に、アッバース朝カリフから政治権力を奪い、バグダードを支配しました。

アッバース朝カリフの権力

ブワイフ朝は、アッバース朝カリフを名目的な宗教指導者として存続させましたが、政治的な実権は全てブワイフ朝が握りました。アッバース朝カリフは、バグダードの宮殿に幽閉され、政治的な活動は制限されました。

象徴的な存在

アッバース朝カリフは、イスラム世界の宗教的な指導者として、依然として尊敬を集めていました。しかし、政治的な権力は全くなく、ブワイフ朝にとって象徴的な存在に過ぎませんでした。

ブワイフ朝の滅亡

1062年、ブワイフ朝は滅亡しました。その後、アッバース朝カリフは名目的な宗教指導者として存続しましたが、モンゴル帝国の侵攻によって1258年に滅亡しました。

文化

ブワイフ朝は、文化の発展にも貢献しました。ブワイフ朝の宮廷は、詩人や学者を集め、文化サロンとして栄えました。また、ブワイフ朝は、多くの建築物やモスクを建設しました。

衰退

11世紀になると、ブワイフ朝は内紛やセルジューク・トルコの侵攻によって弱体化しました。1062年、セルジューク・トルコによって滅亡させられました。