◆おまけ「みなみけ」

【堀江貴文】山崎製パン工場での事故について言いたいことがあります。

 

 

◆世界史 ローマ史メモ

早稲田商2024より

古代地中海世界の文明の成熟点といえる古代ローマは,古代ギリシアやエトルリアの影響を色濃く残しながらも、 土木・建築技術における改良を行い、比類なき建造物の数々を残した。
 アーチやヴォールトといった曲線構造や、ローマンコンクリートは建造物の大規模化を促し, 充実した機能をもつ都市が建設された。 フォロ=ロマーノとその周辺は、古代ローマ市民の都市生活の中心地であり, 共和政期から帝政期にかけて、元老院 や神殿をはじめとする多くの建造物や公共施設がつくられた。
アウグストゥスのものとして伝えられる 「私はローマを煉瓦の町として引き継ぎ, 大理石の都として残すのだ」 という言葉に象徴されるように、 イタリア半島内のカッラーラから供給されるようになった大理石などで、壮麗な装飾が施された建築物もみられた。
ネロ帝による革新的な宮殿 ドムス=アウレアや、ウェスパシアヌス帝が建設を始めたコロッセウムはいずれも曲線構造やローマンコンクリートを 駆使したものであり,  フォロ=ロマーノの北西に位置するパンテオンのドーム状の天蓋は、ローマンコンクリートの真骨頂とされる。
土木・建築技術は水道施設や公共浴場などの建設にも活かされ,都市機能の向上に寄与した。
 

また, ローマは支配地の拡大に伴い各地に植民都市を建設した。
北アフリカや西アジアに及ぶ広範な範囲に残る遺跡からは, 
培われた技術が各地の建設資材や気候風土に柔軟に適用されたことがうかがわれる。 
こうした建造物は、娯楽や都市機能を提供しただけでなく、

軍事戦略的にも不可欠であり,帝国を維持拡大するうえで、重要な役割を果たした。

 

Q(AIに解説させてみた。AI解答が?の場合は自分で調べてみた。間違いはご容赦)

問A ,古代地中海世界の文明 
◎エヴァンズにより発見された線文字Aは未解読であるか?
線文字Aは、イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズによって1900年頃にクレタ島で発見された文字体系です。

ちなみに、線文字Bは1930年代にマイケル・ヴェントリスによって解読されましたが、線文字Aは現在も未解読です。


アメリカのヴェントリスはクレタ文明で用いられた線文字Bを解読した?
イギリスのヴェントリスミケーネ文明で用いられた線文字Bを解読した。」


× フェニキア人はエーゲ文明が栄える前に地中海貿易を独占していた。
  「エーゲ文明が栄える前に」が誤りです。
フェニキア人は、現在のレバノンに位置する古代都市シドンとティロスを中心に、地中海貿易で繁栄した民族です。

彼らの活動は紀元前12世紀頃から始まり、エーゲ文明が栄えた時期と重なります。
エーゲ文明は、クレタ島やミケーネなどを中心に栄えた古代文明です。

紀元前3000年頃から紀元前1100年頃までの期間を指します。
エーゲ文明は海上交易も盛んに行っていましたが、フェニキア人ほど広範囲には及びませんでした。
フェニキア人とエーゲ文明は、互いに影響を与えながら発展しました。

フェニキア人はアルファベットや航海技術をエーゲ文明に伝え、エーゲ文明は美術や建築技術をフェニキア人に伝えました。


×カルタゴはアフリカ北岸に位置したシドンの植民者により建設された。
➡カルタゴはアフリカ北岸に位置したティロスの植民者により建設された。
建設したのはシドンの植民者ではなく、ティロスの植民者です。
 シドンとティロスはどちらも現在のレバノンに位置する古代都市で、フェニキア文明の中心地として栄えました。

 両都市は海運貿易で繁栄し、地中海各地に植民都市を建設しました。
カルタゴは紀元前814年にティロスの植民者によって建設されました。

その後、カルタゴは地中海西部の強国となります。

しかし、ローマ帝国と三次にわたるポエニ戦争を戦いましたが、最終的に敗北し、紀元前146年に滅亡しました。

Q 古代ギリシア

前7世紀のアテネにおいてドラコンにより慣習法が成文化された。 
前7世紀のアテネにおいて、ドラコンという人物が、それまで口頭で伝えられてきた慣習法を初めて成文化しました。

これは、アテネの法制史上非常に重要な出来事であり、後の民主主義の発展にもつながったと言われています。
ドラコンの成文化した法典は、「ドラコンの法典」と呼ばれ、非常に厳格な刑罰を定めていたことから、「血で書かれた法典」とも呼ばれていました。しかし、それまでの貴族による恣意的な裁判から平民を守るという意味で、大きな役割を果たしました。
その後、ソロンによって一部改正されましたが、ドラコンの法典は、アテネの法体系の基礎となり、後の民主主義の発展に大きな影響を与えました。

 


×前6世紀のアテネにおけるソロンの改革では,債務奴隷の禁止や鎖国政策が行われた。 
2つの点で誤り。

 実際には、ソロンの改革は債務奴隷の問題に対処しましたが、彼は奴隷制度を完全に禁止することはしませんでした。

 彼の改革の目的は、債務奴隷の状態を緩和することでしたが、奴隷制度自体を廃止することではありませんでした。

「鎖国政策が行われた」
ソロンの改革には鎖国政策は含まれていませんでした。

むしろ、彼の改革の中心的な目標は市民間の富の平等化と政治的な改革でした。鎖国政策は後の時代になってから実施されたもので、古代ギリシャの都市国家では一般的ではありませんでした。

【陶片追放】
×アテネでは5000票以上投票があったとき最多得票者が生涯追放される陶片追放が行われた。 
古代アテネでは、6000票以上投票があったとき、最多得票者が10年間国外に追放される陶片追放が行われた。
陶片追放の有効投票数は 6000票以上 とされています。

 これは、アテネ市民集会の定足数が6000人だったことに由来します。

陶片追放による追放期間は 10年間 であり、生涯追放ではありません。

 10年経過すれば、追放者はアテネに戻ることができました。

×スパルタでは、奴隷身分の農民となった被征服民はペリオイコイと呼ばれた。 
彼らは武器を持ち、スパルタ周辺の町を服属させます。 その町に住む人を ペリオイコイ (半自由民)と呼びます。 

ペリオイコイは農業や 商工業 に従事しました。 

そしてスパルタに征服された人びとを ヘイロータイ(ヘロット) と呼びます。


Qエトルリア人。 
エトルリア人は複数の都市国家を建設し,分立していた。 
古代ローマ時代、エトルリア人は現在のイタリア中部、トスカーナ地方を中心に複数の都市国家を建設していました。

これらの都市国家は、ヴェイイ、クルシウム、タルクィーニイなどが有名です。
これらの都市国家はそれぞれ独立しており、政治的、経済的に統一されていませんでした。

しかし、共通の文化や宗教を持ち、ゆるやかな連合を形成していたこともあります。
エトルリア人は、優れた技術力と芸術性を持ち、古代ローマに大きな影響を与えました。

ローマの建築、宗教、政治制度などは、エトルリアの影響を受けています。
しかし、紀元前4世紀頃から、ローマの勢力が拡大し、エトルリア人は徐々にローマに征服されていきました。紀元前1世紀には、エトルリア人は完全にローマに組み込まれました。


×エトルリア人はシチリアを拠点として活動した。 
エトルリア人は、古代イタリア中部、現在のトスカーナ地方を中心に活動していました。
シチリア島にも交易拠点を持っていたことはありますが、拠点として活動していたわけではありません。
シチリア島は、エトルリア人にとって重要な交易拠点でしたが、政治的、経済的な中心地ではありませんでした。
エトルリア人の文化や政治の中心地は、常にイタリア中部でした。

◎エトルリア系の王がローマを治めたことがある。 
ローマ建国の初期、エトルリア系の王がローマを治めた時期がありました。

タルクィニウス・プリスクス、セルウィウス・トゥッリウス、タルクィニウス・スーパーバスの3人の王が、紀元前7世紀から紀元前6世紀にかけてローマを統治しました。これらの王たちは、エトルリアからローマに多くの文化や技術をもたらしました。

例えば、ローマの都市計画、建築、宗教、教育などは、エトルリアの影響を受けています。
しかし、タルクィニウス・スーパーバスは、暴君として知られており、紀元前509年にローマ市民によって追放されました。

これが、ローマ王政の終焉とローマ共和政の誕生につながりました。

◎エトルリア人はギリシア人との交易などで栄えた。 
エトルリア人は、古代イタリアに居住していた民族で、紀元前8世紀頃から紀元前1世紀頃まで繁栄しました。

彼らは優れた技術力と芸術性を持ち、ギリシア人との交易によって大きな富を得ました。
エトルリア人の交易は、主にギリシアとの間で行われていました。

エトルリア人は、ギリシアから陶器、金属製品、ワインなどを輸入し、自国の青銅器、陶器、織物などを輸出ししていました。
エトルリア人の交易によって、エトルリア人は多くの富を得ました。

その富によって、エトルリア人は都市国家を建設し、高い文化を発展させました.

【古代ローマの共和政】

×前5世紀初めに慣習法を成文化した十二表法が制定され,貴族の権利義務が大理石に刻まれ公開された。 
前451年から前449年にかけて、慣習法を成文化した十二表法が制定された。
十二表法は、大理石に刻まれ公開され、ローマ市民全体の権利義務が定められた。

前450年ごろ制定された、古代ローマ最古の法典。 法知識を独占する貴族と平民との闘争の結果、旧来の慣習法を成文化したもの。 のちのローマ法の基礎をなす。 12枚の板に記されて公示されたことからこの名がつけられた。

 

×前5世紀前半、平民出身のコンスルが設けられ, 元老院の決定に対する拒否権が与えられた。 
「前5世紀前半、平民出身の護民官が設けられ、元老院の決定に対する拒否権が与えられた。」


×前4世紀のリキニウス・セクスティウス法により, コンスルは全員平民から選ばれるようになった。 
➡前367年のリキニウス・セクスティウス法により、コンスル2名のうち1名は平民から選ばれるようになった。

◎前3世紀,独裁官ホルテンシウスのもとで, 平民会の決議が元老院の承認なく国法となることが定められた。 
➡前287年、ホルテンシウス法が制定され、平民会の決議が元老院の承認なく国法となることが定められました。

これは、平民と貴族の法的な平等の画期的な出来事でした。

ホルテンシウス法は、以下の2つの重要な内容を持っています。

平民会の決議が元老院の承認なく国法となる。
平民会で決定された法律は、全てのローマ市民に適用される。
この法律によって、平民は貴族と対等な政治力を持つようになり、ローマ共和政の民主化が大きく進展しました。

アウグストゥス(オクタウィアヌス)。 

×オクタウィアヌスは、アントニウス, クラッススとともに第2回三頭政治を行った。
オクタウィアヌスは、アントニウス、レピドゥスとともに第2回三頭政治を行った。

 

×アクティウムの海戦に臨むにあたり,元老院はオクタウィアヌスにアウグストゥスの称号を与えた。 
➡オクタウィアヌスは紀元前31年アクティウムの海戦に勝利した後、紀元前27年に元老院からアウグストゥスの称号を贈られた。の称号は「尊厳者」という意味であり、特別な政治権限を伴うものであった。
 

◎アウグストゥスは共和政を尊重することを示すためプリンケプスと自称した。 この政治体制は元首政とよばれる。 
アウグストゥスは、ローマ帝国の初代皇帝です。彼は共和政を尊重することを示すため、プリンケプス(第一人者)と自称しました。プリンケプスは公式な役職名ではなく、元首という意味の言葉です。

アウグストゥスが確立した政治体制は、元首政と呼ばれています。元首政は、共和政の形式を残しながら、実質的な権力を皇帝が集中させた政治体制です。

元首政の特徴は以下の通りです。

皇帝は元老院から様々な権限を付与される。
皇帝は軍隊の最高司令官である。
皇帝は法令発布権を持つ。
皇帝は裁判権を持つ。


×アウグストゥスは護民官や終身独裁官を兼任し主要な政治権力を手中に収めたため、 帝政を始めたとされる。 
アウグストゥスは護民官、プリンケプス、最高司令官、監察官、大祭司などの役職を兼任し、主要な政治権力を手中に収めた。これは、共和政の形式を残しながら、実質的な権力を集中させることによって(事実上の)帝政を始めたとされる。
アウグストゥスは終身独裁官ではなくプリンケプスという役職に就きました。
プリンケプスは公式な役職名ではなく、元首という意味の言葉です。

イタリア半島内の都市でないものを選べ。 
1. メッシナ 2.タレントゥム(タラント) 3. ポンペイ 4.カプア 
メッシナはシチリア島北東部に位置する都市です。
ポンペイとカプアはイタリア半島南部に位置する都市です。
タレントゥム(タラント)はイタリア半島南部のブーツのかかとの部分に位置する都市です。

コロッセウムが完成した80年と同時代に生きていた人物と著作の組み合わせ

プルタルコス『対比列伝』

ホラティウスは紀元前65年に亡くなり、コロッセウムの完成 (80年) よりも145年以上前に生きていました。
『叙情詩集』、『諷刺詩集』、『書簡詩集』
キケロは紀元前43年に亡くなり、コロッセウムの完成 (80年) よりも37年以上前に生きていました。
『国家論』、『弁論家について』、『義務について』
説明: 紀元前106年 - 紀元前43年。古代ローマの政治家、哲学者、雄弁家。『国家論』は共和政ローマの政治思想を論じた著作。
カエサルの政敵。

オウィディウスは17年に亡くなり、コロッセウムの完成 (80年) よりも63年後に亡くなりました。
『変身物語』、『愛の技法』、『悲しみの恋歌』
説明: 紀元前43年 - 17年。古代ローマの詩人。『変身物語』はギリシャ神話やローマ神話の神々や英雄たちの物語を韻文で綴った叙事詩。

『ローマ建国史』の著者はティトゥス・リウィウス(リヴィウス)です。
彼は紀元前59年頃に生まれ、紀元後17年頃に亡くなったローマ帝国時代の歴史家です。
『ローマ建国史』は、ローマ建国からアウグストゥスの時代までのローマの歴史を叙述した大著であり、全142巻から構成されています。しかし、現存するのは全142巻のうち、第1巻から第10巻と第21巻から第45巻までの部分のみです。『ローマ建国史』は、(リヴィウス)が膨大な資料を駆使して執筆した歴史書であり、古代ローマの歴史を知る上で最も重要な文献の一つとされています。

プルタルコスは46年頃生まれ、120年頃亡くなったため、コロッセウムの完成 (80年) と同時代に生きていました。
プルタルコスはギリシャの伝記作家であり、『対比列伝』は古代ギリシャ・ローマの著名な人物たちの伝記を対比形式で書いた作品です。

 

◆ローマ市内に現存するパンテオンは、125~135年頃に完成(再建)したとされています。この時の皇帝はハドリアヌスです。
パンテオンは、もともと紀元前27年にマルクス・アグリッパによって建設されましたが、80年に火災で焼失しました。
ハドリアヌス帝は、火災で焼失したパンテオンを再建し、125~135年頃に完成させました。
パンテオンの正面には、ハドリアヌス帝を称える碑文が刻まれています。