◆おまけ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日銀高田審議委員が市場にノイズ拡散?有効求人倍率1.27!ハイブリッドシフトでおトヨタさま大正解?!、他 2024/3/1 午後8時│ジョネトラダムスFRIDAY

 

(日銀HP)

政策委員会審議委員:高田創(たかたはじめ)
生年月日昭和33年8月2日
出身地神奈川県
任期令和4(2022)年7月24日~令和9(2027)年7月23日
履歴
昭和57年3月    東京大学経済学部卒業
昭和57年4月    (株)日本興業銀行入行
昭和61年6月    オックスフォード大学開発経済学修士課程修了
平成11年10月    興銀証券(株) 市場営業グループ投資戦略部長
平成12年10月    みずほ証券(株)市場営業グループ投資戦略部長
平成18年10月    みずほ証券(株)市場営業グループ統括部長 兼 市場調査部長
平成20年6月    みずほ証券(株)金融市場グループ金融市場調査部長
平成22年4月    みずほ証券(株)グローバル・リサーチ本部本部長代理 兼 金融市場調査部長
平成23年4月    みずほ証券(株)執行役員 グローバル・リサーチ本部副本部長
平成23年7月    みずほ総合研究所(株)常務執行役員
平成29年4月    みずほ総合研究所(株)専務執行役員
平成31年4月    みずほ総合研究所(株)副理事長 エグゼクティブエコノミスト
令和2年1月    岡三証券(株)グローバル・リサーチ・センター理事長 エグゼクティブエコノミスト
令和4年7月24日    日本銀行政策委員会審議委員

 

◆おまけ

イタリア史(慶應文2024、世界史の窓参考)メモ

イタリアの歴史。
「わたしは戦いと一人の男を唄う。運命によってトロイアの岸から落ち延び,イタリアのラウィニアの岸へと初めてやってきた男の歌を。」

古代ローマ最大の詩人、ウェルギリウスが著した,ある英雄の冒険を描く叙事詩は、このように始まる。

その題名『アエネイス』は、その主人公の名に由来する。
『アエネイス』はアウグストゥスの時代に作られ、ラテン語で書かれたラテン文学の最高傑作の一つといわれる。
この英雄「アエネイス」の子孫から、ロムルスとレムスが生まれ,
彼らがローマを建国したという伝説が書かれた、この『アエネイス』では、アウグストゥスのローマ帝国創業をたたえていた。
そうした内容でもあり、アウグストゥスの時代に、アウグストゥスがロムルスの再来であるとの主張とともに大いに喧伝されたこともあり,浸透した。

さて、この叙事詩の「アエネイス」が「イタリア」の外からやってきたと描かれている点に象徴されるように,
地中海の中心部に位置するイタリア半島は、歴史を通じて、様々な人びとの集団が行き来する舞台だった。

2世紀以降,異民族の姿が、ローマ帝国の軍団に見られるようになった。ローマ軍団は服属させた部族に、兵士の供出を義務づけたし,帝国と何らかの契約を結んで、領内に居住し、従軍する部族もあった。

個々人でローマ軍に志願する者もいた。

しかし,4世紀後半以降、ゲルマン人の大移動に象徴される部族集団全体が,しばしば玉突き状に次々と,ライン川やドナウ川を越えてローマ帝国内に移動してくる事態のインパクトは大きかった。

ただ、そうした移動のなかには,ローマ皇帝による働きかけによって始まったものもあった。

たとえば,東ゴート人は,4世紀後半までには黒海北岸からパンノニア、およびトラキアに移動していたが,

5世紀後半に,王であったテオドリックに率いられてイタリアに入り,493年に東ゴート王国を建てた。

これは,東ローマ皇帝ゼノンが、

西ローマ帝国を滅亡させた傭兵隊長のオドアケルを倒すようにテオドリックを促したからである。
実際に、テオドリックは東ローマ帝国の要請を受けて、北イタリアに入り、西ローマ帝国を滅ぼして、イタリアを支配していたオドアケルを493年に暗殺して、東ゴート王国を建国した。都はラヴェンナに置いた。


なお、テオドリックの治世最末期に同王国の都ラヴェンナで建設が始められたサン=ヴィターレ聖堂は,現在でも訪れる者を驚かせる壮麗さであり,その内陣にはユスティニアヌス大帝と皇后テオドラの権威を示す巨大なモザイク画が描かれている。

(メモ)中世のキリスト教教会の建築様式であるゴシック式や、アルファベットの書体の一つであるゴシックは、「ゴート人ふうの」という意味である。この言葉には“無教養な”とか“野蛮な”という意味が込められている。東西に分かれていたゴート人であったが、いずれもローマに侵攻するなど、ローマ人にとってゲルマン人の代表格の部族とされており、後のルネサンス期の人々がゲルマン人の建築を“ゴート風”とさげすんだ言葉が起こりであった。

こうして短期間ではあるが,イタリア半島全体は東ローマ帝国の一部として政治的に統一された。
そして、イタリア半島全体の政治的統一が再び見られるのは,19世紀のことである。


このように東ゴート王国はローマ化したゲルマン国家と言うことが出来る。(ヴァンダル王国も同じような傾向があった)。
 しかし、東ゴート王国はアリウス派キリスト教を信仰していたため、ローマ教会とは結ぶことはなく、そのイタリア支配を完全にすることはできなかった。
そのため526年のテオドリック大王の死によって次第に衰退していった。

555年に東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝が,この東ゴート王国を滅亡させた。

ユスティニアヌス大帝は、この地を奪回し、ラヴェンナ総督府を置いて統治した。
ラヴェンナは、東ローマ帝国のイタリアにおける拠点として重要な位置を占め、

 サン=ヴィターレ聖堂は、大帝の肖像などの有名なモザイク壁画が多数残されており、

 ビザンツ様式の文化の代表的な美術遺品となっている。


次に、568年に10万人以上の規模で北イタリアに移動してきたのが,(ランゴバルド人)である。

 彼らはビザンツ帝国(東ローマ帝国)治下の(ラヴェンナ総督領)を奪って王国を建てた。

パヴィアを都に成立したランゴバルド王国は、かつての東ゴート王国と異なり、ローマ化する度合いが少なく、ローマの伝統の多くはここで断たれた。
こうしてランゴバルド王国の成立をもってイタリアにおける古代が終わり中世がはじまったと言うことが出来る。

ランゴバルド王国の支配以来、その主要な支配地となった北イタリアのポー川流域の平原はロンバルディアと言われるようになり、またランゴバルド人の侵攻から逃れた人々がラグーンの島の上に逃れヴェネツィアを建設したのもこの時とされている。

ランゴバルド人は他のゲルマン人と同じように、ローマ教会からは異端とされていたアリウス派の信仰を持っていた。
しかし当初は東ローマ帝国と敵対していたため、ローマ=カトリック教会とは友好的であった。

ちなみに、ランゴバルドの王国が6世紀末の590年にローマを脅かしたときにランゴバルド国王と直接交渉して和約を結んだのが、教皇グレゴリウス1世である。

教皇グレゴリウス1世はイングランドを中心にゲルマン人への布教に力も尽くした。

また、グレゴリウス1世は、東ローマ皇帝と対抗するためにゲルマン民族への布教を強化しはじめた。
その努力もあり、ランゴバルド人の改宗も進んだ。

グレゴリウス1世の業績は、それだけでなく,西欧における修道院運動の規範となった「戒律」を定めた人物である(聖ベネディクトゥス)の伝記を著した。

(ランゴバルド人)の王として特筆されるのはロターリであり,

彼らの伝統的法慣習を成文化した『ロターリ王法典』を643年に編纂させた。

この王国が752年にローマを脅かしたとき,

 教皇ステファヌス3世はビザンツ皇帝に救援を求めたが,望んだかたちでは得られなかった。


次に、この教皇ステファヌス3世は,フランク王位を事実上握っていた(小ピピン)に対して、
自らガリアの地に赴き救援を求めた。


要請に応じた(小ピピン)はイタリアに2度遠征。
754年、ピピンはモン=スニ峠を越えてイタリアに入り、
ランゴバルド王国の首都パヴィアを包囲し、ランゴバルド王アイストゥルフにラヴェンナなどの教皇への返還を同意させた。
そして、奪還した(ラヴェンナ地方)を教皇に献上したのが,教皇領の起源とされる出来事である。

それを受けて、ローマ教皇は7月28日にピピンのフランク国王戴冠式を行って塗油をほどこした。

(旧約聖書のダビデ王の塗油にならった儀式)。

この寄進を受けることによって、ローマ教皇領が成立し、ローマ教皇はその後中部イタリアに領土を広げて、一定の領域を支配する教会国家の政治権力となっていく。

中世ヨーロッパにおいて大きな政治権力となったローマ=カトリック教会の教会国家の成立をもたらすという結果となった

結局、
そのおよそ20年後の774年に(ランゴバルド王国)の首都パヴィアは、

フランク王国軍によって陥落し,イタリア北部はフランク王国の支配領域に組み込まれることになった。

このときのフランク王カール1世は,続く教皇たちを保護し、
800年、教皇レオ3世によって「ローマ人たちの皇帝」との称号と帝冠を与えられた。いわゆる、カールの戴冠である。
カール1世は、ローマ帝国の後継者であると同時に西ヨーロッパのキリスト教世界の守護者となり、それらとゲルマンの封建社会を結びつけた「ヨーロッパ世界」を出現させた。

 なお、カール1世こと、カール大帝は、ラテン文芸の復興に努め、

 アーヘンにアルクィンなどの学者を招いて「カロリング=ルネサンス」といわれた。

こうして教皇を保護する役割は,東の皇帝から西の皇帝へと移った。

しかし、この体制における安定の時代は短いものだった。

イタリア南部にも(ランゴバルド人)の勢力は広がっていた。
北部の王国からも独立した勢力として,スポレートとヴェネヴェントに広大な征服地を得て,

 イタリア半島のかたちを長靴として把握したときに,かかとに当たるプーリアの一部にも勢力範囲を伸ばし,

 ビザンツ帝国の支配領域を削った。

イタリア南部のこうした状態は,イタリア北部がフランク王の支配下に置かれるようになった後も、およそ3世紀にわたって続いた。

また,長らくビザンツ帝国の支配下にあったシチリアは,

 アラブ人とベルベル人からなるイスラーム軍の襲撃がシチリア島にも及ぶようになり、

827年にはアッバース朝の宗主権下にあったチュニジアのアグラブ朝の艦隊のシチリア島侵攻が開始され、

878年にはシラクサが占領されてほぼ征服が完了。

902年には残った島東部のタオルミナが陥落した。


その後イスラーム勢力による支配は12世紀まで続き、彼らはシチリアを拠点としてしばしばイタリア本土にも侵攻した。
なお、イスラームによって支配されていた時代に、新たな農業がもたらされ、経済も発展し、

とくにパレルモにおいて、ローマ文化とイスラーム文化の融合した独自の文化が形成されたという側面もある。


イスラーム教徒がシチリア島にもたらしたのは潅漑農業であった。

パレルモ周辺の畑には水路がひかれ、水辺にはペルシア葦(サトウキビ)やパピルスが栽培された。

 潅漑技術はペルシア起源の高度なサイフォン技術に支えられていた。

イスラーム教徒はこの潅漑農業とともに、それまでヨーロッパではほとんど知られていなかった、レモン、ダイダイ、綿、桑、ナツメヤシ、ウルシ、ピスタチオ、パピルス、メロン、稲、サトウキビなどがもたらされた。

絹づくりのための蚕も導入された。

このような緑豊かなシチリア島の景観は13世紀にイスラーム教徒がいなくなっても維持された。


シチリアの特産となったのは絹だった。シチリア絹、シラクサ絹などのブランド品とラーシンと呼ばれる安価な絹が、パレルモの港から盛んに東方にもたらされた。

その他、ターバン、衣服、女性のフード、絨毯などが輸出された。

イスラーム教徒がシチリア島を支配していた11世紀には、パレルモは地中海貿易のもっとも重要な中継地として栄えていた。

南イタリアの状況が政治的に大きく変わるのは、

11世紀に到来し,当初は傭兵として活動していたノルマン人勢力が力を蓄えていったことによる。
ノルマンディ出身のロベルト=ギスカルドが南イタリアを制圧し、その弟ルッジェーロは1061年からシチリア島のイスラーム勢力に対する攻撃を開始、1072年までに占領を完了し、シチリア伯の称号を得た。


そして、1130年にノルマン人のルッジェーロの子、(ルッジェーロ2世)が両シチリア王国を成立させた。

(ノルマン=シチリア王国ともいう。これを両シチリア王国の起源とすることも多い。)

ルッジェーロ2世は、パレルモで即位した。


 さらにノルマン=シチリア王国は強力な艦隊を有しており、

しばしばビザンツ帝国に攻撃を仕掛け、さらに北アフリカのチュニジアに進出して支配した。

ノルマン朝シチリア王国は、ノルマン系の騎士が支配層を形成したが、ギリシア系の官僚を登用し、またイスラーム教徒とも共存してその文化を採り入れ、高度な官僚制を持つ国家として発展した。

それ以後もノルマン人勢力下に南イタリアのほとんどすべての地域が含まれた結果,この地域は、ローマ=カトリックとその公用語である(ラテン語)によって特徴づけられるヨーロッパの文化圏に属することになった。その都のパレルモには、ノルマン・ギリシア・ビザンツ・イスラームの文化を融合させた独自の都市文化が開花した。

12世紀のシチリア島は、シチリア王国の都パレルモの宮廷ではイスラーム教徒が重要な役割を果たし、他の都市にも多くのイスラーム教徒が居住してキリスト教徒、ギリシア正教徒と共存していた。イスラーム世界のムスリムの学者のもとでかつてアッバース朝でバクダードに造られた「知恵の館」でギリシア語からアラビア語に翻訳された古典古代のギリシアの文献が伝えられており、パレルモなどでアラビア語からラテン語への翻訳が行われた。
 その文献を求めてヨーロッパ各地から修道士がシチリア島を訪れ、パレルモは一大研究都市となった。同様な文化の動きは当時のスペインのトレドなどでも見られ、いずれも中世ヨーロッパでの新しい文化の発信地となった。この動きは、文化史上の「12世紀ルネサンス」と言われている。

北部に視線を戻せば,955年の(レヒフェルトの戦い)、(アウグスブルク近郊)の勝利によって,

東方からのマジャール人による西ヨーロッパ侵入の試みを終わらせたオットー1世は,

さらに周辺のスラヴ人に対して軍事植民を行い、征服活動と共にキリスト教の布教に努めた。

また、961年、ローマでの混乱に介入し事態を収拾しようとするべく,ローマに遠征。
北イタリアで教皇領を脅かしていたベレンガリオ2世を倒し、イタリア王位継承権を持つロターリオ2世の未亡人アデライーデと951年に結婚し、パヴィアにおいてランゴバルド・イタリア王を名乗ることとなった。翌962年、教皇ヨハネス12世から「西ローマ皇帝」の称号と冠をうけた。いわゆる神聖ローマ帝国の成立である。

しかし、ドイツに権力基盤がある皇帝が、イタリアを実効支配するのは難しく,混乱の時代は続いた。

世俗権力が実効的な支配能力を失い,教会や聖職者,弱者の保護なども果たされなくなった地域では,司教が,自身の教会の利益を代表するだけでなく,都市の代表として振る舞うことがあった。
中世封建社会においては、封建領主に対する貢納の負担を免除され、また領主裁判権の及ばない都市を自治都市というが、特に北イタリアの諸都市は、貨幣経済の発展を背景に、有力市民層を中心にして、封建領主に対する長い戦いであるコミューン運動を続け、10から11世紀ごろに自治権を勝ち取っていった。
都市共同体は,しばしば諸侯や司教などの支配を脱して自治権を確立し,周辺農村をも支配する事実上の領域国家を形成した。
こうした自治都市は,イタリア語を用いて「コムーネ」と呼ばれる。
ミラノをはじめとする「コムーネ」である。

そして都市の住民団体が徐々に姿を見せ始め,11世紀末から12世紀にかけて,

イタリア中部から北部の都市の史料に,都市民の代表としてのコンソリ(執政職)が現れるようになる。

コンソリは,12世紀以降の北イタリア社会を特徴づける都市共同体の制度上の頂点に位置していた。

 なお、神聖ローマ帝国皇帝のお膝元であるドイツでは、有力な都市は皇帝から特許状を与えられ、皇帝直属の都市となることで事実上の自治を認められる帝国都市という形態をとることが多かった。


ただし,こうした北イタリアの都市におけるコムーネなど、事実上の政治的独立を,皇帝は好まなかった。

12世紀には神聖ローマ皇帝(ドイツ)のイタリア政策による干渉が激しくなり、

特にフリードリヒ1世(赤髯王、バルバロッサ)は1158から1178年にかけて4回イタリア遠征を行い、1162年にはミラノを破壊した。
なお。12世紀から13世紀にかけて,ミラノを中心とする北イタリアの主だった都市は,教皇の支援を得て都市同盟、ロンバルディア同盟を結び,共同で軍隊を整えたのは,皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)らのイタリア政策に対抗するためであった。
ロンバルディア同盟は2度結成されており、最初はバルバロッサこと、フリードリヒ1世に対抗して、1167年、クレモナ市が提唱し、ペルガモ、ブレシア、マントヴァ、フェラーラなどが加わり、20年間継続した。
同盟軍は1176年のレニャーノの戦いで、バルバロッサこと、フリードリヒ1世のドイツ軍を破り、
1183年のコンスタンツの和議で皇帝に都市の自治を認めさせた。