おまけ「幻想魔伝最遊記」

 

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【上念司】国民民主党 トリガー3党協議離脱を決定【内藤陽介】

世界史 中央大 ヒントメモ(世界史の窓、AIなど利用)

クレタ文明(ミノス文明)
エーゲ文明の前半にあたる前2000年ごろ成立した青銅器文明。民族系統は不明だが海洋王国を形成し、独自の文字を使用した。ミノス文明とも言う。

クレタ文明 前2000年ごろにはクレタ島を中心としたクレタ文明が生まれた。クレタ島のクノッソスに王宮を築いた王は、海上貿易を掌握して海上国家を築き専制政治を行っていた。後の神話に出てくるミノス王に比定されてミノス王ということから、この文明をミノス文明とも言う。人種は不明だが、ギリシア人の先祖ではなかったと考えられており、後のギリシア文化とは異質な海洋民族としての特徴的な意匠、たとえばたこやいかを描いた壺などを残している。クノッソス遺跡は1900年にイギリス人エヴァンズによって発掘され、絵文字や線文字Aが出土したが、未解読である。前1400年頃、ギリシア本土から進出したギリシア人(その一部のアカイア人)によってクレタ文明は滅ぼされたと考えられている。

ミケーネ王国
 ギリシア本土のアルゴス平野北部にあった王国。前1600年~前1200年のあいだ、この地にギリシア人(当時はアカイア人といった)が王国をつくり、有力となった。1876年のシュリーマンの発掘によって、その王宮跡と思われる城塞が発見され、ミケーネ文明の存在が明らかになった。それは線文字Bといわれる独自の文字を持ち、高度な青銅器文明であった。


貢納王政の社会
 ミケーネ王の時代は、後のギリシアのポリス社会とはまったく違って、王が専制的な支配権力を持ち、周辺のギリシア人諸王国を支配し、税を納めさせる貢納王政をしき、その勢力はクレタ島などにも及んでいた。またエーゲ海対岸の小アジア北部にあったトロイア王国との戦争(トロイア戦争)がホメロスの『イリアス』に物語られている。ところが、前1200年頃、ミケーネ王国は忽然と姿を消し、その文字も忘れられてしまう。この原因はまだ不明な点が多いが、最近では「海の民」の侵入によって滅ぼされたのではないか、という説が有力になっている。

 

『イリアス』/『オデュッセイア』
いずれもホメロスの作とされる、ギリシアの英雄叙事詩。

『イリアス』はミケーネ文明期のトロイア戦争を題材とし、『オデュッセイア』はその後の英雄オデュッセイアの放浪を描いている。

 

ミレトス
小アジアのイオニア地方の中心都市。前7~前6世紀に経済が繁栄、タレスなどの哲学者を排出した。

前500年、ペルシアに対する反乱の中心となり、ペルシア戦争となった。

リュクルゴス/リュクルゴスの改革/リュクルゴスの制
古代ギリシアのスパルタの軍国主義と言われる国家体制を作った人物とされる。

 人物の実在は明確でなく、軍国主義体制は前6世紀半ばまでに成立したと思われる。

プラタイアの戦い
ペルシア戦争での陸戦で、前479年、スパルタとアテネ連合軍がペルシア軍に勝利した。

 

エウリピデス
古代ギリシアの三大悲劇作者のひとり。前5世紀後半、『メディア』などの作品を残している。

 アテネで活躍したギリシア悲劇の作者であり、アイスキュロス・ソフォクレスと並んで三大悲劇作者の一人とされる。

 

モンケ=ハン/憲宗
モンゴル帝国第4代ハン。元の皇帝としては憲宗。弟のフビライを南方、弟フラグを西アジアに派遣した。
 モンゴル帝国第4代ハン。元の皇帝としての廟号は憲宗(在位1251~59年)

 

1258年のモンゴルのフラグ軍が侵攻してバグダードは破壊され、アッバース朝も滅亡した。

 

フビライ/クビライ/世祖
モンゴル帝国第5代ハン(1206年即位)。都を大都(北京)に遷し、1271年に国号を元とした。南宋を滅ぼして中国全土を支配、さらに高麗を属国とし、チャンパー、ビルマ、ジャワ、日本などに遠征軍を送った。東西交渉が活発となり、マルコ=ポーロが宮廷に使えた。1294年に没し、諡を世祖とされた。

アルビジョワ十字軍
13世紀、南仏のキリスト教異端アルビジョワ派を弾圧するためローマ教会・フランス王によって派遣された。

フィリップ2世が開始し、ルイ9世の時に鎮圧を終えた。

 1209年、フランス王国のフィリップ2世の時に始まった、南フランスのキリスト教異端派のひとつアルビジョワ派(カタリ派ともいう)を殲滅するための十字軍。ローマ教皇インノケンティウス3世の要請で始まり、北フランスの諸侯の多くが参加し、指揮官がシモン=ド=モンフォール(イギリスで国王に反旗を翻し議会の開設に貢献した同名の人物の父親)のもとで激しい攻撃が行われた。
 アルビジョワ派は20年にわたって抵抗を続けたが、ルイ9世の時の1229年にアルビジョワ十字軍の勝利に終わった。これによってフランス国内の異端は殲滅され、南フランスまでフランス王権が拡大され、フランスの統一が進んだ。その反面、トゥルバドゥール(吟遊詩人)などの南フランスの独自の文化も失われた。

 

十字軍(第6回)
1248年、フランス王ルイ9世が興した第6回十字軍はアイユーブ朝と戦い、ルイ9世自身が捕虜となる。

 聖王といわるほど敬虔なキリスト教信者であったフランス国王ルイ9世が主唱して、1248年に第6回十字軍が起こされた。ルイ9世軍はイスラーム側の拠点アイユーブ朝エジプトを攻撃したがマムルーク軍を主体とするイスラーム軍に押され、チフスの蔓延もあって敗北し、ルイ9世自身もマンスーラで捕虜となった。

ちょうどその時、エジプトでバイバルスのクーデタが起こりマムルーク朝に交替、ルイ9世も身代金を払って釈放された。これを第7回と数える場合もある。

 

ガザン=ハン(在位1295~1304年)
モンゴル系イル=ハン国の第7代ハン。イスラーム教に改宗する。ラシード=アッディーンを宰相に登用。

 

ボニファティウス8世
ローマ教皇。聖職者に課税しようとしたフランス王フィリップ4世と争い、1303年、アナーニ事件で屈辱を受け、憤死した。ローマ教皇権衰退の始まりを示す事件と言われる。

 

教皇のバビロン捕囚/アヴィニヨン捕囚
1309年、ローマ教皇がフランス王の手でアヴィニヨンに移され、1377年までの68年間、教皇がローマを離れたことを、古代のバビロン捕囚になぞらえてこう呼んだ。アヴィニヨン捕囚ともいう。ただし、監禁されたわけではなく、アヴィニヨンに豪勢な教皇庁を造営し、教皇としての権威を保っていた。1377年に教皇はローマに帰還したが、翌年からはローマとアヴィニヨンに教皇が併存する「大分裂」の時代となる

 

教会大分裂/大シスマ
1378年から1417年の間、ローマ教皇位が分裂し、ローマとアヴィニヨンに並立したこと。大シスマという。教皇のアヴィニヨン捕囚に続いて分裂したことはその権威を著しく低下させ、百年戦争とともにヨーロッパ封建体制の動揺をもたらした。最後には教皇が三人同時に存在するという異常事態となったが、1414年のコンスタンツ公会議の開催によって統一を回復した。

 



エセン=ハン
モンゴル系オイラトの族長。15世紀に統一を復活させ明を圧迫し、1449年には土木の変で正統帝を捕虜にした。

 

アルタン=ハン
16世紀にたびたび明に侵攻したモンゴルの王。北虜南倭の北虜はこの侵攻による脅威を言う。アルタン=ハンはチベット仏教に改宗し、ソナム=ギャムツォに初代ダライ=ラマの称号を与えた。

 16世紀、しばしば明を脅かしたモンゴルの王。生没1507年ごろ~82年。特にモンゴルにチベット仏教を導入したことは重要。モンゴル高原(内モンゴル)には15世紀の後半、ダヤンが現れ、モンゴル民族をほぼ統一し、再び明の領土を脅かし始めた。チンギス=ハンの直系と称するダヤンの孫で、「右翼」のトメト部を率いていたのがアルタンで、1520年代から侵攻を開始し、特に1542年には山西に侵攻、1ヶ月にわたり略奪にあけくれ、20余万人を殺したという。また、アルタンは、西方では、モンゴルの一部であるオイラト部を討ち、チベット・青海を服属させた。

ユグノー戦争
16世紀後半のフランスでのカトリック(旧教徒)とカルヴァン派(新教徒)の宗教戦争。貴族間の対立、外国の干渉、都市と農民の動きなどがからんで長期化し、新教徒であったブルボン家アンリがカトリックに改宗してアンリ4世として即位し、さらにナントの王令で新教の信仰を認めて収束させた。

 1562年~98年にフランスで展開された、新教派と旧教派の内戦である宗教戦争の一つ。フランスでは単に「宗教戦争」(Guerres de religion)という。宗教改革者の一人、カルヴァンはフランスを逃れてジュネーヴで改革にあたったが、その思想は早くからフランスに影響を与え、カルヴァン派の新教徒がフランスでも増加していった。

 

外交革命
それまで長く対立してきたフランス・ブルボン朝とオーストリア・ハプスブルク家が1756年に提携に転換したこと。共通の敵プロイセンが台頭したことが原因であった。

 

七年戦争
1756~63年のプロイセンとオーストリアの対立を軸とした戦争。イギリスが前者を、フランス・ロシアが後者を支援、ヨーロッパ全域での戦争となったばかりでなく、イギリス・フランスは北米とインド植民地でも戦争し、戦闘は世界規模で広がった。

 

 

 

球戯場の誓い/テニスコートの誓い
1789年6月、三部会の第三身分代表が憲法制定まで国民議会を解散しないことを誓ったこと。7月14日のバスティーユ牢獄襲撃から始まるフランス革命の前段となった。

ミラボー

ヴァレンヌ逃亡事件はミラボーの死去も影響したと言えます。
ミラボーはフランス革命初期の政治家であり、国民議会で王党派と共和派の双方から支持を得ていた重要な人物でした。

彼は国王ルイ16世と国民議会の橋渡し役として活躍し、王権の維持と革命の穏健化に尽力していました。
ミラボーは1791年4月2日に急死します。

彼の死は国民議会に大きな衝撃を与え、王室への信頼を失墜させる決定的な要因の一つとなりました。

ヴァレンヌ逃亡事件への影響
ミラボーが生きていれば、国王一家を説得して逃亡計画を阻止できた可能性があります。

しかし、彼の死によって王室は孤立し、逃亡を決断せざるを得なかったと考えられます。

ピルニッツ宣言
1791年、オーストリア皇帝・プロイセン王がフランス革命に干渉、王政の復活要求を宣言した。

翌年、フランスは両国と戦争状態に入る。

 1791年8月、オーストリア皇帝レオポルト2世(マリ=アントワネットの兄)とプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム2世がピルニッツ(ザクセンにある城)で会合し、フランスにおける秩序と王政の復興はヨーロッパのすべての君主の共同利益であると宣言し、ヨーロッパの全ての君主に注意を喚起、「準備ができしだい緊急の行動を行う」ことを要請した。この宣言は警告に過ぎなかったが、エミグレ(亡命貴族)の興奮をかきたて、フランスでは反革命の恐怖をよみがえらせ、革命の賛成派・反対派の緊張を高めた。その結果、翌1792年4月にフランス革命軍とオーストリア・プロイセン連合軍の戦闘が開始される。

◆ブリッソ

ジロンド派のメンバー

 1791年10月、立法議会の議員にジロンド県ボルドーから選出されたヴェルニョ、ジャンソネ、ガデ、デュコの四人がジャコバン=クラブに入会、ブリッソに近づいた。1792年1月なかば、パレ・ヴァンドームのヴェルニョの下宿でブリッソのサロンが開かれ、開戦論を展開。参加したのはブリッソを中心に、ヴェルニョなどのジロンド出身者グループ、コンドルセ一派(その妻が中心)、ロラン(ロランの妻)一派などであった。この党派はその指導者の名からブリッソ派とも言われたが、ジロンド県出身者が多かったことからジロンド派のほうが通称となった。
 いずれも「哲学者たち」の精神を受け継ぎ、政治的民主主義と経済上の自由競争を主張するブルジョワたち、マルセイユ、ナント、ボルドーなどの船舶所有者、貿易商、銀行家など戦争によって利益を得る人々の支持を受けていた。
(引用)(パリ選出の文筆家ブリッソ、ジロンド県選出の弁護士ヴェルニョ)この二人を指導者にもつジロンド派は、革命の第二世代を代表するもので、民主主義的傾向と同時に資本家的傾向をあわせもち、ルソーよりもむしろヴォルテールや百科全書派の志向をひきついだ。<河野健二『フランス革命小史』1959 岩波新書 p.112>


ジロンド派内閣
 ジロンド派は、立法議会でフイヤン派を追い落とすことを目論んだ。そのためにブリッソは盛んに開戦論を主張し、コブレンツに集結している亡命貴族がオーストリア軍をパリに進撃させて革命をつぶそうとしている、と盛んに訴えて開戦を議会と国王に迫った。国王は1792年3月、ジロンド派のロランを内相、クラヴィエを蔵相、デュムーリェを外相に据えてジロンド派内閣が成立した。

ヴァレンヌ逃亡事件
1791年、フランス国王夫妻が国外逃亡を図って捕らえられた事件。ルイ16世は権威を喪失し王権を失うことになる。

 

1791年憲法
1791年9月に憲法制定国民会議で制定された、フランス最初の憲法で、立憲君主政体を採り、ブルジョワの立場に立った憲法であった。

 フランス革命の第一段階の終わりである1791年9月3日に、憲法制定国民議会において採択されたフランス最初の憲法である。1789年6月に発足した国民議会は、球戯場の誓いで憲法制定までは解散しないことを宣言し、7月9日に憲法制定国民議会に改称して人権宣言の採択を行い、封建的特権の廃止・聖職者基本法・教会財産の国有化・ギルドの解散・ル=シャプリエ法など、アンシャン=レジーム(旧制度)を変革しながら、ブルジョワの利益を守るという姿勢を明確にしていった。並行して進められた憲法の審議では、革命推進の主力となっていたジャコバン=クラブの中の立憲君主政を掲げたグループであるフイヤン派(バルナーヴ、デュポール、ラ=ファイエットら)が主導権を握り、この憲法の制定にこぎ着けた。
91年憲法の意義と性格

 この1791年憲法は、フランス最初の成文憲法として制定された。その根幹は、1789年以来のフランス革命第一段階の成果を集大成し、旧体制を否定して自由主義と国民主権の原理を掲げ、国家形態は立憲君主政であり国王の存在は認め行政権や議会に対する拒否権を与えている。同時に三権分立によって権力の集中を防止する措置を執っている点ではアメリカ合衆国憲法と同じである。しかし、議会は制限選挙の一院制であり、市民も財産の有無(納税額の差)によって「能動的市民」と「受動的市民」にわけて、前者のみに参政権を認めるなど「持てる者」の支配を確保している。フランス革命の「自由・平等・博愛」の理念を推し進める市政は見られず、後退した内容であった。つまり基本的性格は、民衆の急進化を抑え、ブルジョワジーの階級的支配の秩序を守るための憲法であったといえる。
91年憲法の主な内容

7編210条からなる。前文として「人権宣言」を持つ。第1条で「王国は単一にして不可分である」とされた。
政体は立憲君主政で、国王は「フランスの王」から「フランス人の王」へと変わった。つまり、絶対主義的な王権は否定され、憲法と法の支配のもとにおかれた。しかしなお、国王は行政権(執行権)をもち、内閣の閣僚を議会外から任免することができ(議院内閣制ではない)、議会の立法権に対し拒否権を持っていた。
立法権を持つ議会は任期2年の一院制をとる代議制であるが、内閣は国王が議会外から任命され、国王は立法に対する拒否権を持つ。
議員を選ぶ選挙は制限選挙で、選挙権は直接国税を一定額納めた「能動的市民(シトワイヤン=アクティヴ)」(25歳以上の男子のほぼ70%)が有しているが直接議員を選ぶのではなく、その中から裕福な者およそ5万人を選挙人として選び、選挙人が議員、県議会議員、郡議会議員および裁判官を選挙する二段階があった。また財産を有しないものは「受動的市民(シトワイヤン=パッシヴ)」とされ、選挙権は認められなかった※。
司法権は裁判所が有し、裁判官の売官制は廃止され公選となり、陪審制が導入された。
地方行政制度は、全国を83の県に分け、さらに地区(ディストリクト)、カントン(小郡)、市町村(コミューン)に区分した。
 なお、91年憲法は、後の憲法と異なり国民投票には付されず、国王の裁可によって効力を持った。
※ここでは有権者は約430万、選挙人の数は5万人程度と推定されている。<河野健二『資料フランス革命』1989 岩波書店 p.152>

 

8月10日事件
1792年8月10日、パリ市民、義勇兵が国王を捕らえ、立法議会を解散させた武力蜂起。

オーストリアなどの革命干渉軍との戦いの危機が迫る中、ブルボン王家が敵と内通している疑いが強まり、市民がテュイルリー宮を襲撃、国王を監禁した。立法議会は王権停止を決議して解散、立憲君主政体制はくずれ、代わって9月に成立した国民公会が共和制を宣言した。フランス革命で1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃に次ぐ、画期的な民衆蜂起であった。

ヴァンデーの反乱
1793年3月、フランス西部のヴァンデー地方で起こった農民反乱。

革命政府の徴兵制実施に反発した農民が蜂起し、領主層の王党派・聖職者が指導して反乱軍を組織、一時は大きな勢力となった。革命政府は徹底した弾圧に乗り出し、同年末にはほぼ鎮圧したが、翌年まで抵抗は続いた。

 

1793年憲法/ジャコバン憲法
1793年6月、ジャコバン派独裁政権の下で作られた民主的な憲法であったが、結局は実施はされずに終わった。

 フランス革命が進行し、1792年の8月10日事件の後、9月に国民公会が成立、王政廃止が宣言され、フランスは共和政国家(第一共和政)となった。それに伴い、立憲君主政を柱とする1791年憲法に代わる新憲法を制定することとなり、憲法草案が募集された。穏健共和派のジロンド派はコンドルセを中心に憲法草案を作成し、急進共和派の山岳派も独自案を作成した。
ジャコバン派の憲法案

 両派は政治的にも激しく対立し、1793年5~6月に再びサンキュロットが蜂起して議会からジロンド派を追放し、ロベスピエールら山岳派がジャコバン派の主導権を握ってジャコバン派独裁政権が成立した。その結果、1793年6月24日にジャコバン派原案が共和国憲法として成立した。
 人権宣言を前文とする全35条からなるこの憲法は、1793年憲法、共和国第1年の憲法、ジャコバン憲法などと言われている。8月4日に国民投票にかけられ、180万票対1万票(棄権430万)で承認された。しかし、干渉戦争の激化などを理由に10月10日に実施は延期され、結局は実施されなかった。
最初の徹底した民主的な憲法

 主権在民を明確にし、初めて労働の権利(21条)、社会保障(22条)、反乱の権利(35条)などが盛り込まれた。 また男子普通選挙も盛り込まれた。
 このように、1793年憲法は、史上最初の徹底した民主的憲法であった。しかし、ジャコバン政権の恐怖政治と言われた反対派に対する激しい弾圧は次第に支持を失い、1794年7月にテルミドールのクーデタによってロベスピエールらが倒されたため、結局、実施はされなかった。<『資料フランス革命』 P.431、ゴデショ『年代記』 P.115>
影響

 1793年憲法に代わって三権分立を柱とした共和制憲法の1795年憲法が成立したが、主権在民や諸権利の保障、男子普通選挙などは規定されなかった。1793年憲法の理念を支持するバブーフらは総裁政府を倒す陰謀事件を1795年に起こしたが、弾圧された。しかしその後も理念としては生き続け、後の1848年の二月革命によって生まれた第二共和政憲法などの大きな指針となった

 アメリカ合衆国憲法には、その後も多くの修正条項が加えられた。主なものには次のような修正がある。
憲法修正第11条:1795年、連邦裁判所の管轄権から他州の市民が別の州を訴える訴訟を除外した。
憲法修正第12条:1804年、大統領選挙で最高得票者を正大統領、次点を副大統領とする規定を改め、選挙人は正副大統領の両者を指定して投票することとした。(1800年選挙でフェデラリスト党のアダムズが正大統領、反対党であるリパブリカン党のジェファソンが副大統領となったことをふまえて改正した。)
憲法修正第13条:1865年、リンカン大統領の奴隷解放宣言を具体化するために黒人奴隷制の廃止を定めた。
憲法修正第14条:南北戦争後の1868年に、合衆国すべての市民に市民権を認めることで、黒人の市民権も認めた。しかし、公民権(参政権や教育を受ける権利など)で黒人と白人を区別することは実質的に復活した。
憲法修正第15条:1870年、黒人に投票権を認めた。ただし、財産や識字能力による差別禁止の明文がなかったので、南部各州は州法で投票権の前提に人頭税納入や識字テストを導入し、実質的にその投票権を制限した。
憲法修正第16条:1913年、所得税を間接税として解釈し、連邦政府が徴収できるようにした。
憲法修正第17条:1913年、上院議員を州の住民が直接選挙で選出することとした。それまでは州議会で選出されていた。
憲法修正第18条:いわゆる禁酒法で、1919年に各州の批准が終わり確定した。これは、1933年の憲法修正21条によって廃止された。
憲法修正第19条:1920年に女性参政権を保証した。すでに州では女性選挙権を認めるところが増えていたので、ここで全国的に認められた。
憲法修正第20条:1933年、大統領の任期開始を従来の3月から1月に早めたはど。
憲法修正第21条:1933年、憲法修正第18条の禁酒法を廃止した。 憲法修正第22条:1951年に確定した、大統領任期を2期までとした改定。大統領任期は憲法上規定がなく、初代ワシントン以来前例として2期までが守られてきたが、第二次世界大戦中にF=ローズヴェルトが特例的に4期まで務めた。不明確であった大統領任期をはっきりさせるため、この憲法修正で2期に制限された。
憲法修正第23条:1961年、ワシントン特別区(コロンビア特別区、DC)の住民に大統領選挙のための選挙人(3名)を選任する権利を認めた。
憲法修正第24条:1964年、連邦選挙における選挙権行使に際し、人頭税その他の税を課すこと禁止した。憲法修正第15条の不備を改めた。50年代後半からの公民権運動の盛り上がりによって、同年の公民権法とともに黒人投票権に対する制限は認められなくなった。
憲法修正第25条:1967年に大統領が任期途中に欠けた場合、副大統領が昇格するという慣行を憲法の規定として確定した。
憲法修正第26条:1971年に連邦、州を問わずすべての選挙で選挙年齢を18歳以上とした。
憲法修正条項の簡単な説明は、<大下尚一他『アメリカハンディ辞典』p.56~60>を参照。

 

バブーフ/バブーフの陰謀
フランス革命期に平等社会の実現を主張していたが、1795年、総裁政府によって政府転覆の陰謀を理由に処刑された。

 

ブリュメール18日のクーデタ
1799年、ナポレオンが総裁政府から実権を奪ったクーデタ。一般にこれによってフランス革命は終わりを告げたとされる。

ピット
産業革命、フランス革命の時期のイギリスの首相。数回にわたり対仏大同盟を結成、ナポレオンとも戦った。トーリ党政治家として、アイルランドとの併合を実現、連合王国を成立させた。小ピットと言われた。

タレーラン
フランスの政治家。フランス革命期からナポレオン時代、復古王政期に活躍。

ウィーン会議ではフランス代表として正統主義を提唱した。

 

サン=シモン
フランスの初期社会主義者。経営者・労働者一体となった産業社会を構想し、ナポレオン3世時代の経済政策に影響を与えた。
ランスの貴族の出であるがアメリカ独立戦争にも参加。

 

パリ=コミューン
1871年3月、普仏戦争の講和に反対したパリ市民が蜂起して成立させた世界最初の労働者政権。

パリに労働者による政権を樹立したが、ブルジョワの支持を受けた臨時政府の軍隊によって攻撃され、激しい市街戦の結果、5月に崩壊した。

血の日曜日事件
1905年1月、ロシアのペテルブルクで労働者の請願に対して軍隊が発砲、多数が殺傷された事件。第一次ロシア革命の勃発となった。。