◆おまけ「天元突破グレンラガン」


【激動の政局 どう動くのか】『キーマンは誰か?財務省の思惑は?』

【2024/1/30(火)内容】
◎ 激動の日本政局、今後の行方
・岸田総理が暴走した岸田派解散宣言、刷新本部中間とりまとめ
・自民党のシステムをある意味壊していく岸田総理
・高橋教授の最重要補助線〜ラスボスが財務省としたら・・・
・石橋文登が重視する菅義偉前総理、無派閥議員への影響力
・高市早苗経済安保相による万博延期進言報道の意味

★出演者
長谷川幸洋(ジャーナリスト)
高橋洋一(数量政策学者)

★ゲスト
石橋文登(元産経新聞政治部長、千葉工業大学特別教授、政治ジャーナリスト)

最新1/30(火)長谷川幸洋と高橋洋一のNEWSチャンネル 390

 

 

 

◆世界史(メモ)

ゲルマン人について
トイトブルグ 森のアルミ ニウス 率いる ゲルマン人がローマ軍を壊滅させた後 、アウグストゥスはライン川以東の征服を断念した。

( )人の慣習である恩貸地制度が封建的主従関係の起源の一つとなった。
➡(ローマ)人の慣習である恩貸地制度が、封建的主従関係の起源の一つとなった。
なお、従士制はゲルマン民族慣習。

西ローマ帝国を滅ぼした ゲルマン人 傭兵隊長オドアケルは、その後 ()によって倒された。
西ローマ帝国を滅ぼした ゲルマン人 傭兵隊長オドアケルは、その後 (東ゴートのアラリック)によって倒された。

ランゴバルド。

カロリング家の( )の死後 フランク王国は3つに分割された。
➡カロリング家の(カール大帝)の死後 フランク王国は3つに分割された。


◆ビサンツ帝国
➡7世紀、ビサンツ帝国ではラテン語に変わり ギリシア語が公用語として用いられるようになった。(P190)

プロノイア制
 ビザンツ帝国の土地制度。10世紀に軍管区制が完成したが、11世紀にはいると屯田兵の没落、貴族の大土地所有が広がるようになり、ビザンツ帝国の軍事力と徴税力が低下してきた。そのような中でセルジューク朝の侵攻に悩んだビザンツ帝国のコムネノス朝では、ビザンツ皇帝が功績のあった貴族に対し、軍事奉仕とひきかえに、恩恵として一定の土地の管理・監督(プロノイアは本来は「配慮」の意味)を任せ、徴税権を与える制度であるプロノイア制に切り替え、皇帝の軍事力を強めようとした。
➡11世紀末以降 ビサンツ帝国ではプロノイア制がしかれ、軍役の見返りとして 貴族に領地が与えられるようになった。


中世ヨーロッパ。

11世紀における封建社会の安定は、 西ヨーロッパに農業生産の増大をもたらし 、その結果 余剰生産物の取引が活発となり 古代 世界の崩壊以来 衰退していた商業が復活した。 
この経済的復興は封建領主は教会に対する新たな勢力としての都市の発展を促した。 
紀元前1世紀ごろからローマと接触していたゲルマン人が西ローマ 帝国の滅亡前後と繰り返した大移動の影響もあって、
 古来栄えた イタリア 諸都市も一旦は荒廃したが中世中期には 経済発展とともに 復興の時代を迎えた。
北イタリアでは港湾都市が地中海 商業権での遠隔地貿易を通じて 他に先駆けて 反映した。

【ヴェネツィア】
ヴェネツィアは将来の隆盛の基礎となる 東地中海の商業 特権 を ビサンツ帝国 東ローマ帝国バシレイオス2世から 10世紀末(991年)ごろ 獲得している。ちなみに、バシレイオス2世「ブルガリア人殺し」を意味する渾名をもつ。

【ピサ】
 かつてのローマの植民市でその海軍拠点であった ピサは、西ローマ帝国の滅亡後も 海運 に従事して 海軍力を蓄え、 11世紀半ばに イスラム勢力が支配する シチリアのパレルモを攻撃し 、第1回十字軍に際しては 東地中海におびただしい数の艦船を派遣して、周辺各地に貿易拠点を確保した。

【ジェノヴァ】
ジェノヴァはこれらと同じく 東地中海で交易を展開するとともに 西地中海にも乗り出して、12世紀にはフランスのプロヴァンスや ラングドックに商館をおき、さらに定期市で有名なシャンパーニュにも進出して、 13世紀まで続くこの地方の繁栄に寄与した。

当時の フランスにおけるイタリア商人の活動の足跡は今でもいくつかの都市の街道の名称に残っている。

 12世紀になると北イタリアでは 都市国家の制度が開花する。
 諸都市は 封建領主である司教の支配を排除して 自治都市(コムーネ)になっていた。
 北イタリアの中世都市は複数の執政官 や 1名の長官をトップとする固有の行政機構を備え 、
さらには 周辺の農村地域 (コンタード)にも 勢力を拡大して1つの独立国家の様相を呈した 。

都市国家の間では抗争が頻発し、こうした状況は都市に対して徴税などを通じた 中央集権的支配を及ぼそうとする 神聖ローマ帝国の皇帝の介入を招いたが 、特にフリードリヒ1世のイタリア政策に対しては、1165年のベローナ都市同盟のように、 いくつかの都市が連合して地方自治権を防衛する動きが各地で生じ、これはやがて 北イタリアの多数の都市を集結する ロンバルディア同盟の成立につながった。

 一方で自己の権威の強化を図る ローマ教皇は神聖ローマ皇帝のイタリア支配に抵抗するために 諸都市との連携を模索した。
また都市の復興を背景に始められた イタリアにおける教会建設運動は12世紀末、本格化してきた。
 小アーケード率と小柱からなる装飾は、他の地域の教会建築 にも影響を与えた 。

 自治都市の内部でその姿勢を掌握する有力家系が形成されると、
 それらの都市の教養 人の芸術活動を保護するようになり 、イタリアン ルネサンスの発展を支えることとなった。


◆中世ヨーロッパ 
中世ヨーロッパ 世界では 中世盛期以降、北イタリアの都市 商人(とくにヴェネツィア)が中心になり、 ユーラシア大陸の東との 商業貿易が活発化した。
しかし、それとともに キリスト教 の布教も積極的に行われ、

 特に フランチェスコ会修道士 が布教のために モンゴルに派遣された。
 一方で同じ時期 、東方 植民も活発になり エルベ川以東のドイツ人の入植によって1356年(ブランデンブルグ) 辺境伯領も創設され、
 商業交易ネットワークは北ヨーロッパ世界でも拡大した。

だが 中世ヨーロッパ世界の経済的繁栄 も 14世紀に入ると気候が寒冷化し凶作や飢饉が生じたことや、
 何よりも14世紀半ばに黒死病(ペスト)が大流行したことにより 衰退に向かった。
この時期にそれまで威勢を振っていた教皇 権も失墜。教会の権威への批判も生じた。
また農民は農奴制の廃止などを要求し、 各地で大規模な農民一揆を起こし 、
たとえばフランスでは ジャックリーの反乱が生じた。

◆フランチェスコ会修道士。

プラノ=カルピニ。
ローマ教皇インノケンティウス4世によってモンゴル帝国に派遣されたイタリア人のフランチェスコ会修道士。1246年、カラコルムでグユク=ハンに面会した。
バトゥの率いるモンゴル軍の侵入によって起こった1241年のワールシュタットの戦いでヨーロッパのキリスト教世界は大きな恐怖に陥った。モンゴル軍が東方に去った1年後の1243年、ローマ教皇に選出されたインノケンティウス4世は、モンゴル帝国についての情報を得るため、使節を派遣することを決定し、修道士プラノ=カルピニを派遣した。プラノ=カルピニは1246年にカラコルムにたどり着き、おりから挙行された第3代ハンのグユク=ハンの即位式に列席し、グユク=ハンの教皇への返書をたずさえて帰国した。…彼の残した報告書は、貴重な報告書としてヨーロッパの人々に広く知られた。
➡プラノ=カルピニが教皇の命で派遣され モンゴルの実情を西洋に訴えた。なので正しい。


ルブルック。
13世紀、フランス王ルイ9世の時、モンゴルに赴いたフランシスコ会修道士。1254年、モンケ=ハンに面会した。
修道士ルブルックの申し出は自発的なものであって、ルイ9世が派遣したものではない。
➡ルブルックがルイ9世の命で派遣され モンゴルに関する報告書を書いた 。なのであやまりかもしれないが、フランチェスコ会修道士でないのはどれの観点からすると、次のマルコ=ポーロはまったく違うのでこれは一応正しいとみておく。

マルコ=ポーロ。
 イタリアのヴェネツィア生まれの商人。1271年、17歳の時、父や叔父と一緒に東方への旅に出発し、陸路をとり、トルキスタン、西域を通って、1275年に元の都大都に至った。元の世祖フビライに厚遇され、政務に参加した。
1292年にイル=ハン国に嫁ぐ王女を送って泉州を出航、海路マラッカ海峡を通って使命を果たした後、
1295年にヴェネツィアに帰った。マルコ=ポーロはヴェネツィアに帰国後、貿易に従事していたが、ジェノヴァとの戦争が起こり、
その時捕虜となって捕らえられ、獄中でその見聞をルスティケロという人物に話をした。
ルスティケロが記述したのが『世界の記述(東方見聞録)』である。
すでにローマ教皇インノケンティウス4世は修道士プラノ=カルピニを派遣し、またフランス王ルイ9世の時にはルブルックがモンゴルに旅行している。しかし、この二人はカラコルムにとどまり、中国本土の情報はもたらさなかった。それに対してヴェネツィアの商人マルコ=ポーロは1260年代から80年代まで、数十年も中国に滞在し、その記録である『東方見聞録』は元帝国だけでなく、イル=ハン国やキプチャク=ハン国などの事情を伝えると共に、日本を含むアジア諸地域の情報を伝えたものであり、大きな驚きをもって迎えられた。またマルコの旅行が、宗教的・政治的な目的ではなく、商業活動として行われたものであったことが、新しい視点での情報を伝えることとなった。
➡マルコポーロが教皇の命で派遣され、教皇の命で派遣され旅行記を書いた。。なのであやまり。

モンテ=コルヴィノ
13世紀末、ローマ教皇から元に派遣された修道士。大都の総大司教となる。
 南イタリアのモンテ=コルヴィノ出身のジョバンニというフランシスコ会修道士。東方伝道を志しイル=ハン国に入り、1289年、ラッバン=ソウマを伴ってローマ教皇ニコラウス4世に面会、教皇からモンゴル皇帝への手紙を託されて東方に向かい、イランのホルムズから海路インドに渡り、さらに1294年、元の大都に到達した。

大都でカトリックの布教を行う
 以後、キリスト教の布教につとめ、大都の総大司教に任命された。これは、中国における、キリスト教カトリックの最初の本格的な布教の始まりであったが、中国人の信者は増えなかった。モンテ=コルヴィノはその地で亡くなり、元朝はその後任をローマ教皇に要請、1342年にマリニョーリが大都に来た。
しかし、元朝もまもなく倒れたため、中国でのキリスト教布教はしばらく行われなくなり、
次は16世紀のイエズス会のアジア布教を待たなければならない

 ➡モンテ=コルビノが 教皇の命令で大都の初代大司教となった。。なので正しい


◆黒死病/ペストの流行1346として。
ボッカチオの『デカメロン』。
ヨーロッパ各地の教会や墓所には「死の舞踏」と言われる壁画が造られた。
“死を忘れるな”(メメント・モリ)
百年戦争 当時のヨーロッパは百年戦争の最中であり、英仏両国にも伝染し、戦局に大きな影響を与えた。
戦争の惨禍と黒死病の流行は社会不安を増幅。
1358年のフランスのジャックリーの乱、
1381年のイギリスのワット=タイラーの乱。

◆教会批判(宗教改革)ポイントは14世紀の話。
(12世紀。)ワルドたちが異端 運動を始め カトリック教会に対する教会を作った。
ワルド派。中世キリスト教の異端とされた一派。12世紀にフランスのリヨンで盛んになったが弾圧された。
中世のフランス王国の主要都市の一つリヨンの富裕な商人であったピエール=ワルドーが、1173年に、吟遊詩人のうたう聖者アレクシスの物語に感動し、その家財をなげうって、使徒の生活にならった清貧を実践しながらキリストの福音を広めようとした。
彼らは、民衆に聖書の教えを広めようと、ラテン語聖書のフランス語口語訳を作ったが、これは中世における聖書の口語訳の先駆として注目される。
その信奉者は「リヨンの貧者たち」と言われ、リヨンを中心にフランス南部に広がっていった。当初は熱心な布教団体としてローマ教会からも認められていたが、ローマ教皇庁は彼らの活動が教会の聖職者の統制の外で広がっていくことに警戒するようになった。

 1179年、教皇庁はワルド派の信仰に対し、神学者に審判に当たらせた。
審問官が「キリストの母を信じるか」という問いに対して、ワルド派の信者たちが信じると答えると、
審問官一同は爆笑して審理を切り上げ、彼らは「無学文盲」の徒にすぎず、宗教運動と認められないと結論を出した。


(13世紀。)カタリ派が蔓延したため 異端審問制度は 創設された。
アルビジョワ派/カタリ派
中世の南フランスで有力になったキリスト教の異端派。13世紀のルイ9世の時に弾圧される。
 中世のフランス王国の南部で勢力のあった、ローマ教会からは異端とされたキリスト教の一派。
 中世の異端には二つの流れがある。一つは12世紀の末にリヨンに現れたワルド派、一つがカタリ派(カタリとは清純者の意味)である。いずれもペルシア起源のマニ教の影響を受け、二元論的な世界観を持ち、教会の権力や富を否定し清貧を主張する共通性があった。
ワルド派はリヨンからロンバルディア、ドイツ、スペイン、ボヘミアに広がったが、カタリ派は南フランスアルビを中心としたトゥールーズ伯領にかたまっていおり、アルビジョワ派とも言われるようになる。
このアルビジョワ派はより過激に教会制度を否定したので、
13世紀のローマ教皇インノケンティウス3世はフランス国王フィリップ2世に十字軍派遣を要請、
1209年から20年にわたる「アルビジョワ十字軍」が行われ、ルイ9世の時、1229年に殲滅されて消滅した。


(14世紀。)教皇 権を批判してイギリスのウィクリフが聖書のみの思想を展開した 。
ウィクリフ
14世紀イギリスの先駆的な宗教改革者。聖書の英語訳を行ったといわれる。
教皇・聖職者の権威を否定し、聖書にもとずく信仰を説き、農民反乱に影響を与えた。
チェコのフスもその影響を受け教会改革を主張した。
その死後、1414年のコンスタンツ主教会議で異端とされ、遺体が火刑となった。
 16世紀の宗教改革の先駆となる動きであった。

(16世紀)。ルターがカトリック教会による贖宥状の発行を批判した。

◆(中国と欧州の交流・16世紀半ば以降)
ヨーロッパ人の残した資料の中で中国についての情報量が明確に増大するのは16世紀半ば以降である 。
ポルトガル人などが 16世紀前半までにインド航路を開拓し、続いて東南アジアや中国沿岸に進出すると、商人や宣教師 冒険者による中国 情報が回顧録や 報告書の形で著述 出版される。
フェルナン・メンデス・ピントの『遍歴記』はその一つであり
 著者が種子島に火縄銃が伝えされた際に立ち会った と主張するが、 この本は 虚実が入り混じる内容でその史実性については注意が必要である 。
こうした中、イエズス会はその組織的な布教 体制と東アジアにおけるキリスト教 布教で最大の問題であった 祖先祭祀 容認したことで 、明朝 治下で中国布教を積極的に推進した。
 イエズス会である マテオリッチは明朝の高官とも親しく 交遊。当時のヨーロッパにおける最新科学技術などを中国に紹介した 。

その後 引き続き 清朝でもイエズス会士達は 科学技術などを用いて皇帝につかえた。
ある 意味 16世紀半ばから17世紀は、中国がヨーロッパについて広範かつ 貪欲に学ぼうとした歴史上 初めての時代であった とも言える 。

◆ヴァスコ=ダ=ガマ
 大航海時代のスペイン王が派遣したコロンブスの西回り航路の発見によって、アジアへの到達が現実のものとなろうとしたため、スペインとポルトガルの両者は1494年のトルデシリャス条約で、アフリカ西岸のヴェルデ岬から370レグア(約2000km)西の子午線(西経46度30分)の西をスペイン、東をポルトガルの権利とする協定を成立させた。

ポルトガルは東回りでアジアに到達することを急がねばならなくなった。
 ジョアン2世の時に、すでに陸路によるコヴィリャンの派遣や海路によるバルトロメウ=ディアスの派遣が試みられており、
バルトロメウ=ディアスによる喜望峰到達などによってインド航路開拓の見通しをつけていたポルトガルのマヌエル1世は、1497年7月、ヴァスコ=ダ=ガマを東回りでインドに派遣した。
 その結果、1498年5月20日にインド西岸のマラバール海岸のカリカットに到達、
ポルトガルとインドを結ぶインド航路の開拓がなされた。
(これが、1492年のコロンブスの西インド諸島到達に続く、ヨーロッパ人による新航路の発見の時代の大きな事跡となった。)

カリカット。インド 西南部の都市。1498年ヴァスコ=ダ=ガマ到着し その後 胡椒 綿織物など ヨーロッパへの輸出口となった。
 (1406年に中国の明王朝の鄭和がこの地に到達➡明より100年遅れ。)。キャラコ(キャリコ)というのは、「カリカット製の布」。

南のコーチンとともに香辛料の積出港であり、ホルムズ、アデン、イエメン、東アフリカの諸港と結び、さらにモルジブ諸島、セイロン島からベンガル湾をへて東南アジア、さらに中国にむかう海上交通の要衝であった。

(コーチン)
1502年バスコ・ダ・ガマによってポルトガルの商館が置かれ、
翌03年にはポルトガルのアルブケルケによって要塞が築かれた。
のち、オランダ、イギリスなどが進出し、重要な商業の中心として栄えた。
イギリス領時代には、同市を首都としてコーチン藩王国が形成された。


(マドラス)
1639年イギリス東インド会社。中央の商館を取り囲む二重の城壁をもつ要塞。要塞は54年に完成し,イングランドの守護聖人にちなんでセント・ジョージ要塞と名づけられた。以後,同要塞はボンベイやカルカッタに先立つイギリスのインド支配の拠点となった。



フェルナン・メンデス・ピントが種子島に赴く前に 現在の 浙江省 船山群島にあった 蜜貿易 拠点に滞在したと記されているが 、
16世紀半ばにおいて 明朝 日本のこうした密貿易や海賊行為に従事した倭寇の頭目は誰。
➡王直。明代の貿易商人(海商)で、後期倭寇の頭目。

鄭芝竜
海賊仲間に加わり、華南沿岸ならびに台湾海峡一帯に出没し、泉州、マカオ、マニラ、平戸、台湾沿岸を拠点に、東シナ海を舞台にした海賊(武装貿易集団ということもできる)の頭領となった。これに対して明朝は、1628年に鄭芝竜に官職を与えて帰順させ(これを招撫するという)、一転して官船を率いて海上防御に任に当たることとなった。その狙いは台湾に進出しているオランダ勢力に対抗させることであった。鄭芝竜は同年、福建省民数万を台湾に招き、一人あたり銀三両、三人に農耕牛1頭を与えて開拓に従事させるなど、大きな功績をあげて都督の官位に昇りつめた。

鄭成功
17世紀後半、明の遺臣と称して台湾を支配した。
鄭芝竜の子で母が日本人。鄭氏の支配する台湾(鄭氏台湾)は清に服属せず、その死後、1683年まで存続した。


顧憲成
明末の反宦官派の官僚、東林派の指導者。東林学院を設立、宦官政治を批判した。

 明末の政治家で、反宦官派である東林派(党)の指導者。江蘇省無錫の出身で官界に入ったが、皇太子冊立問題で神宗(万暦帝)の怒りを買い、官を辞して故郷に帰り、1604年に東林書院を再興し、同志の趙南星、鄒元標らを招いて自説を講義するとともに、「講学」と称する討論会を開き、政治批判を展開した。顧憲成は朱子学の立場から、学問は自己の興味の対象のとどまるべきではなく、政治批判の方法であるべきであると説き、政治への宦官の関与を徹底的に批判した。彼の名声は天下にとどろき、多くの学者、官僚、知識人の共感をえて、東林派の勢いが強くなったが、一方で現実との妥協を図り宦官を容認するグループは反東林派を形成し、両派の政争は激しくなった。



中国人 信者に対する 祖先祭祀 や孔子の崇拝など イエズス会による 容認 はやがてドミニコ会など他の修道会により 教皇庁に提訴され 教皇 庁はこれらの容認を禁止した。
これに反発した清朝がイエズス会の方式に従うことを制約した宣教師以外を マカオに退去させると、
中国における キリスト教の布教を巡り 熾烈な論争が行われた。 この論争を何というか
➡典礼問題。
清朝の康煕帝の時、イエズス会が中国の儒教儀礼を認めて布教していることに対し、他の修道会が批判したことから起こった問題。ローマ教皇がイエズス会の布教方法を否定したため、康煕帝はイエズス会以外の布教を禁止した。17~18世紀の中国の清で、キリスト教(ローマ・カトリック教会)の布教にあたったイエズス会の宣教師は、その布教を進めるうえで、中国の習慣や習俗をある程度認め、信徒に対しても孔子の礼拝や祖先の祭祀(つまり典礼)を行っていてもよい、としていた。その方法が功を奏し、イエズス会は中国における伝道を一手に独占していたが、後から中国布教を目指したフランチェスコ会、ドミニコ会などの修道会は、イエズス会のそのような布教方法は神を冒涜することで間違っているとローマ教皇に訴えた。この問題が「典礼問題」であり、教皇庁内でも論争となり、1704年、ローマ教皇クレメンス11世はイエズス会の布教方法を否定するという結論を出した。
これに対し清の康煕帝は典礼を認めるイエズス会でなければ中国での布教を認めない、として典礼を拒否する宣教師の入国を禁止した。
次いで雍正帝は全面的なキリスト教の布教禁止に至る(1724年)。


 カトリックの洗礼を受け 天文学 物理学 地理 水利などに関する マテオリッチの著作の公刊を助け、また「農業全書」の編纂を行った科挙官僚の名前を書け。
➡徐光啓。

徐光啓
16世紀末~17世紀、明末の学者で政治家。科挙に合格後、内閣大学士まで昇進した。
イエズス会宣教師マテオ=リッチから西洋の科学を学び、マテオ=リッチと共同でエウクレイデス(ユークリッド)の『幾何原本』を翻訳した。また、同じく宣教師アダム=シャールから西洋暦法を学んで『崇禎暦書』を著し、さらに1639年、古来の農法を集大成して『農政全書』などを編纂した。 → 明の文化
カトリックに改宗
 彼はカトリックに改宗した最初の中国高官であり、洗礼を受けてパウロといった。彼の子孫が故郷に天主堂を建て、これが江南のイエズス会の本拠となった。上海旧市内の光啓南路は彼にちなむ地名で、そこに残る九間楼は彼が晩年に住んだところである。



マテオ=リッチ/利瑪竇
イタリア人のイエズス会宣教師。中国名利瑪竇(りまとう)。
中国で布教にあたったキリスト教宣教師の中で、最も早く活動した。1582年にマカオに上陸し、広州で布教に従事した。
彼は数学・天文学・地理学の知識や世界地図・地球儀・渾天儀などの機器を中国にもたらした。
1601年には北京に赴き、神宗万暦帝に拝謁を許され、ヨーロッパの情勢などの下問に答え、時計を献上したという。

『幾何原本』と『坤輿万国全図』

 リッチは神宗の信任を得て北京に天主堂を建設することを認められ、数年の間で約200人の信者を得た。
リッチはキリスト教の紹介書『天主実義』を翻訳、1602年には世界地図の『坤輿万国全図』などを中国語で著し、
また1607年には明朝の政治家で学者である徐光啓と協力してエウクレイデス(ユークリッド)幾何学の紹介書『幾何原本』を刊行した。彼の活動がキリスト教の布教にとどまらず、実用的な科学技術を中国に伝えたことが重要である。1610年に亡くなり、神宗はリッチを北京城内に葬る事を認め、その墓地が北京で死亡した宣教師の墓地となる。

崇禎暦書
明末の徐光啓が西洋暦法を採り入れて著した暦書。
 明末の崇禎帝の時、徐光啓が、アダム=シャールから西洋暦法を学び、刊行した暦書。西洋暦法の採用は、清になってから、アダム=シャールが集成した時憲暦として、1645年に実施された。 → 授時暦

フェルビースト/南懐仁
 ベルギー出身のイエズス会宣教師。1659年に清の時代の中国に渡った。中国名南懐仁。
康煕帝が三藩の乱に際し、フェルビーストに大砲の鋳造を命じ、これが功を奏して乱を鎮定することができたので、康煕帝は宣教師のもたらす西洋の技術に大いに関心を持ち、たびたび紫禁城の内廷に彼を招いて講義を聴いたという。またこの康煕帝の時代はキリスト教に寛容であったのも彼らの活動に追うところが大きい。またフェルビーストは暦の制定で天文学の知識を発揮し、1669年正月元日に起こった日食の時刻を正しく計算したことでも康煕帝の信頼を獲得し、アダム=シャールのあとを受けて天文台長官となった。