◆おまけ「とらドラ!」

 

 

◆【上念司】「中国恒大に法的整理 清算命令」「中国 株安阻止へ 空売り 制限 株式貸し出しを規制」

 

◆世界史

古代オリエント地域では 、大河の定期的な増水を利用した治水灌漑を行った結果、 王を中心とする 初期国家が誕生する。
メソポタミア地域ではウルや ウルク、ラガシュなど(シュメール人)による都市国家が形成されて繁栄したが、
前 24世紀頃に(アッカド王国・サルゴン1世、首都不明。)によって征服統一され 広大な領域国家が作られた 。
(その当時エジプトは古王国、首都がメンフィスのころである。)
アッカド王朝は11代約180年続いたが次第に衰退した。
その後 一時的100年だが、(シュメール人)による 最後の王朝(ウル第3王朝、ウル=ナンムが建国。都はウル。)が出現。
最初の法典の整備が行われ、シュメール法典(「ウル=ナンム法典」ともいう)が編纂された。
(ウル第3王朝 )は(エラム人)によって滅ぼされた。

(ウル第3王朝 )の崩壊後、紀元前1900年頃、(アムル人)が【バビロン第一王朝・都はバビロン。】を起こした。
(その当時エジプトは中王国、首都がテーベのころである。)

【バビロン第一王朝】はハンムラビ王の時代に全メソポタミアを支配した。
ハンムラビ王が制定した 有名な法典(ハンムラビ法典)克明に刻した石碑が、20世紀初頭にフランスの調査隊により、
(イランのペルシア帝国時代の古都スサ。)で発見されている。
 この石碑は現在、 パリのルーブル美術館に 収蔵展示されている。


◆(ギリシア・ローマ)獨協大学
古代地中海世界は海上交易によって一つのまとまった文化圏を形成していた。
その文明は沿岸部の都市を中心に発達し【セム語】系民族のフェニⒶキア人やインドヨーロッパ語系のギリシア人と古代イタリア人をはじめとして、⑴様々な民族が活躍した。
上記の世界のうち地中海東部の Ⓐ【エーゲ海】 沿岸では、前3000年頃、オリエントからの影響のもとに⑵ヨーロッパではじめての青銅器文明が誕生した。
その文明は前1200年頃までに滅亡し、その後しばらく「暗黒時代」と呼ばれる時代が続いたが、
前8世紀になると各地で有力貴族の指導のもとにいくつかの集落が連合し、人々が集住して都市(ポリス)を建設した。
これらの都市はそれぞれに独立した国家でもあり、
前4世紀後半に【アケメネス朝ペルシア】の侵攻を受けるまで、⑶ギリシア世界ではつねに小国の分立状態が続いた。

イタリア半島では前1000年頃、古代イタリア人が南下して定住した。

その一派であるラテン人は ③ 【ティベル川】のほとりに都市国家ローマを建設し、
前6世紀末にエトルリア人の王を追放して共和政に移行した。
その後ローマは前2世紀半ばに宿敵カルタゴを倒して地中海の覇権を手中にしたが、
やがて有力政治家が互いに暴力で争う⑷内乱の時代に突入する。この内乱に終止符を打ったのが、

カエサルの養子 ④【オクタウィアヌス】 である。

彼はプリンケプスと自称して表向きには共和政の制度を尊重したが、実態は事実上の皇帝独裁であった。
ここからローマは帝政の時代に入ってゆく。

⑸ギリシア・ローマが生んだ優れて人間的で独創的な文化は、ルネサンスによって「再発見」され、のちのヨーロッパ近代文明の模範となった。『イリアス』や『オデュッセイア』をはじめとするこの時代の文学作品は、いまでも多くの人々に読み継がれている。


 Ⓐ 「エーゲ海」。
エーゲ海は、ギリシャ本土とトルコに囲まれた海で、多くの島々が浮かぶ多島海です。
エーゲ海沿岸では、前3000年頃、オリエントからの影響を受けて、青銅器文明が誕生しました。
この文明は、ミケーネ文明と呼ばれ、ギリシャ文明の基礎となりました。
ミケーネ文明は、強力な軍事力と海上交易によって繁栄しました。彼らは、青銅製の武器や装飾品などを作り、交易によって広く流通させました。また、ミケーネは、エーゲ海沿岸の諸国を支配する強大な国家となりました。
ミケーネ文明は、紀元前12世紀頃に衰退しましたが、その文化は、ギリシャ文明に受け継がれました。



◆セム語派に属するフェニキア語。
(フェニキア語は、ヘブライ語、アラビア語、アラム語などと同じ語族に属します。)



フェニキア人はシドンやティルスを拠点として海洋交易を盛んにおこない、

北アフリカのカルタゴやシチリア島のシラクサなど多くの植民市を建設した。につき。
「フェニキア人は、紀元前1千年紀から紀元前1千年紀末にかけて、地中海を中心にして広範な海洋交易活動を展開しました。彼らは主にシドン、ティルス、およびカルタゴなどの拠点を中心に、地中海の東部から西部にかけて商業帝国を築きました。

フェニキア人は、地中海沿岸のさまざまな地域に植民市を建設しました。特に有名なのは、北アフリカのカルタゴで、これは後に大規模なカルタゴ帝国を形成することになります。また、シチリア島のシラクサなども含めて多くの植民市が築かれ、これらの植民地はフェニキアの商業ネットワークを拡大しました。」
◎「フェニキア人は、紀元前1500年頃から、シドンやティルスなどの都市国家を拠点として、地中海沿岸で海洋交易を盛んに行いました。彼らは、レバノン杉などの木材や、金属、陶器、染料などの商品を交易し、地中海沿岸の諸国と交流を深めました。

フェニキア人は、交易の拠点として、地中海沿岸各地に植民市を建設しました。
北アフリカのカルタゴや、シチリア島のシラクサ、サルデーニャ島のカルタゴ・ノヴァ、スペイン南部のガデスなど、多くの植民市がフェニキア人によって建設されました。

これらの植民市は、フェニキア人の交易ネットワークの拠点として機能し、地中海沿岸の交易の発展に貢献しました。また、植民市は、フェニキア人の文化や技術を広める役割も果たしました。」


×フェニキア人はアラム文字をもとに線状のフェニキア文字をつくり、これがギリシアに伝わって、子音だけでなく母音をも表記できる仕組みのアルファベットが成立した。
「フェニキア文字の起源: フェニキア文字は、フェニキア人によってアブジャド(子音のみを表す文字)の一形態として発展しました。この文字体系は主に商業活動や記録に使用されました。

アルファベットの形成: フェニキア文字からギリシャ文字が派生したとされていますが、ギリシャ文字が母音を表記する能力を得たのは、ギリシャ人自身による進化によるものでした。

アルファベットの形成において、ギリシャ人はフェニキア文字を借り入れ、さらにそれを発展させ、母音を表記できるようになりました。ただし、これは直接的な影響ではなく、むしろ両者の文字体系の発展が平行していたとも言えます。

総じて、ギリシャのアルファベットが成立する過程には、フェニキア文字の影響があったが、母音を表記できるようになったのはギリシャ人自身による進化によるものでした。」

「フェニキア文字は、紀元前1500年頃に、フェニキア人によって作られた音素文字です。フェニキア文字は、アラム文字から発展したものと考えられています。アラム文字は、紀元前1000年頃に、メソポタミアで使われていた楔形文字から発展した文字です。

フェニキア文字は、22文字から構成されており、それぞれが子音を表します。フェニキア文字は、交易を通じて地中海沿岸各地に広まり、ギリシアにも伝わりました。

ギリシア人は、フェニキア文字を改良して、母音を表す文字を追加しました。これにより、ギリシア文字は、子音だけでなく母音も表記できる仕組みのアルファベットとなりました。

ギリシア文字は、その後、ラテン文字やキリル文字などの多くの文字の基礎となりました。

したがって、「フェニキア人はアラム文字をもとに線状のフェニキア文字をつくり、これがギリシアに伝わって、子音だけでなく母音をも表記できる仕組みのアルファベットが成立した。」という主張は、正しいと言えます。

具体的には、フェニキア文字の22文字のうち、5文字が母音を表す文字として使われるようになりました。これらの文字は、ギリシア語の母音を表すために使われました。

また、ギリシア文字は、フェニキア文字と比べて、字形が簡略化されました。これは、ギリシア語の音韻体系がフェニキア語の音韻体系と異なるためと考えられています。」



×パレスチナの地に定住したヘブライ人は前10世紀頃に統一国家をつくったが、ダヴィデ王の後を継いだソロモン王が死ぬと、

南のイスラエル王国と北のユダ王国に分裂した。
南のユダと北のイスラエル。




×城壁をそなえた都市クノッソスを中心に前2000年頃から栄えたクレタ文明は、オリエント世界などからの影響も受けながら、明るく写実的な絵画などの独自の文化を生み出した。
城壁: クノッソスには城壁が存在しませんでした。クノッソスの宮殿は印象的でしたが、城壁はなかったとされています。城壁は、他のミノア文明の都市や、後のギリシャ本土の都市に一般的な要素でしたが、クノッソスには見られませんでした。



ミケーネ文明は前1600年頃からギリシア本土のペロポネソス半島を中心に栄え、強大な軍事力によって遠くは小アジアのトロイアまでを支配した。



イギリスの建築家ヴェントリスらによって解読された線文字Bはクレタ島で使用された線文字Aを改良したものであり、粘土板に刻まれていたため火災による焼失をまぬがれた。➡一応◎


◎ミケーネ文明は北方から南下したギリシア系のアカイア人によって築かれたと考えられているが、

その一方で、クレタ文明を築いた人々の民族系統は分かっていない。




◎古代ギリシアには1000以上のポリスがあったが、ギリシア人はそれぞれのポリスに分かれて住んでも共通の言語や神話を持つと考え、自分たちのことをヘレネスと呼んで異なる言語を話す異民族と区別した。

「一般的に、ギリシャには多くのポリス(都市国家)が存在し、これらは個々に自治を行っていました。しかし、文化的な統一性や共通性は存在し、共通の言語や神話、ある程度の文化的な結びつきがありました。

ギリシャ人は、自らを「ヘレネス(Hellenes)」と呼び、共通の文化的アイデンティティを有していました。これには共通の言語である古代ギリシャ語や、ギリシャ神話、宗教儀礼、オリンピック競技などが含まれていました。このヘレネスのアイデンティティは、個々のポリスや地域を超えて共有されるものでした。

一方で、ポリスごとに政治体制や法律が異なり、競技会や祭り、戦争などで争いも発生していました。これらの違いにもかかわらず、共通の文化的な枠組みが存在したため、ギリシャ人はヘレネスとして統一されたアイデンティティを抱えていたと考えられています。」

 

×この時代のギリシアでは民主政が発達したが、その発達の歴史は基本的に、はじめは抑圧され権利を制限されていた奴隷階級が次第に市民権を獲得してゆく歴史として記述することができる。
➡「古代ギリシャの民主政は奴隷制度の拡大とは直接的には関係していません。以下に詳細を述べます。

古代ギリシャの民主政が発達した歴史は、基本的には市民階級(自由市民)に焦点を当てます。古代ギリシャの市民階級は、奴隷ではない自由な人々から構成されており、彼らが政治的権利を行使するための制度が発展していきました。この過程で奴隷制度の抑圧が解消されるわけではありませんでした。

主にアテネの民主政が有名で、紀元前5世紀において市民が直接政治に参加する形態が発展しました。しかし、この市民には奴隷や女性、外国人などが含まれておらず、実際の市民権は限定的でした。

奴隷制度は古代ギリシャ社会において一般的で、市民の自由を享受する一方で奴隷たちは抑圧され、市民権を持たない立場にありました。したがって、民主政発展の歴史と奴隷階級の権利拡大は直接的な関係はありませんでした。」


◎前594年にソロンが断行した国政改革は借金の帳消し、債務奴隷の禁止、財産政治の3点を主な内容とし、平民の不満を十分に解消するものではなかったが、民主政へ向けての第一歩として価値のある改革だと考えられている。
➡「前594年にソロンがアテネで行った国政改革は、借金の帳消し、債務奴隷の禁止、財産政治の改革などが主な内容でした。これらの改革はアテネの政治・経済の不満を緩和するものであり、その結果として平和を維持し、社会の安定を図ることが期待されました。」

◎アテネはデロス同盟の盟主として他の諸ポリスに対する支配を強めて繁栄したが、スパルタを中心とするペロポネソス同盟はその勢力拡大を危惧して抵抗し、やがて全ギリシアを二分する戦争が起こった。
➡「ペロポネソス戦争は、紀元前431年から紀元前404年まで、ギリシアの二大勢力であるアテナイとスパルタの間で行われた戦争です。アテナイは、デロス同盟の盟主として、他の諸ポリスに対する支配を強めて繁栄していました。一方、スパルタは、ペロポネソス同盟の盟主として、アテナイの勢力拡大を危惧していました。

この2つの同盟の間の緊張は、紀元前431年に、アテナイがスパルタの同盟国であるコリントスの港町を攻撃したことで、ついに戦争へと発展しました。

戦争は、長く激しいものとなり、両陣営ともに大きな犠牲を出しました。最終的に、紀元前404年に、アテナイはスパルタに敗北し、ペロポネソス戦争は終結しました。

この戦争は、ギリシアの政治的・経済的・文化的状況に大きな影響を与えました。アテナイの覇権は崩壊し、スパルタが新たな覇権を握りました。また、この戦争によって、ギリシアの諸ポリスは疲弊し、その統一は大きく損なわれました。 
したがって、アテネとスパルタの勢力対立が、ペロポネソス戦争の根本的な原因であったと言えるでしょう。」


◆マリウスとスラの争い。
紀元前88年から紀元前82年まで、ローマの政治情勢を大きく揺るがした内乱です。
マリウスは、平民派の出身で、市民兵制の改革によってローマ軍の戦力を強化し、ユグルタ戦争やキンブリ・テウトニ族の侵入を防いだことで、民衆の支持を得ていました。一方、スラは、元老院派の出身で、マリウスの軍制改革を批判し、ミトリダテス戦争の指揮権をめぐってマリウスと激しく対立しました。

紀元前88年、マリウス派の護民官スルピキウスが、マリウスをミトリダテス戦争の指揮官に選任したことをきっかけに、両派の対立は内乱へと発展しました。スラは、元老院の支持を受けてローマに進軍し、マリウスと平民派をローマから追放しました。

スラは、ローマに戻ると、独裁官に就任し、独裁政治を敷きました。スラは、マリウス派の粛清や、軍制改革の撤回など、マリウスの政策を否定し、元老院派の権力を回復させました。

スラは、紀元前82年に死去しましたが、彼の独裁政治は、ローマの政治情勢に大きな影響を与えました。スラの死後、ポンペイウスやカエサルなどの有力な将軍たちが台頭し、ローマは内乱の時代に突入することになりました。

したがって、マリウスとスラの争いは、紀元前88年から紀元前82年までの4年間にわたって行われました。

◆ポンペイウスの死。
紀元前48年9月28日です。エジプトのファラオであったプトレマイオス13世の側近であるポテイノスによって、エジプトの港町ペルシウムで刺殺されました。

ポンペイウスは、ローマの元老院派の指導者であり、民衆派のカエサルと対立していました。紀元前48年のファルサロスの戦いでカエサルに敗北し、エジプトに逃亡しました。しかし、エジプトではカエサルと手を結ぶことを望むプトレマイオス13世の側近によって殺害されたのです。

ポンペイウスの死は、ローマの政治情勢に大きな影響を与えました。カエサルは、ポンペイウスの死によって、ローマの全権を掌握することになりました


◆カエサル暗殺。

紀元前44年3月15日、ローマ元老院で行われました。カエサルは、共和政ローマの有力な将軍であり、独裁官として権力を握っていました。しかし、彼の権力拡大を恐れた共和派の元老院議員たちによって、暗殺されたのです。

暗殺の実行者は、ブルータス、カッシウス、タンブルリヌスなど、約60人の共和派の元老院議員たちでした。彼らは、元老院の定例会議にカエサルを招き、彼の背後から短剣で刺殺しました。カエサルは、23ヶ所もの刺し傷を負って死亡しました。

カエサル暗殺は、ローマの政治情勢に大きな影響を与えました。カエサルの死後、ローマは内乱に突入し、共和政は崩壊しました。

したがって、カエサル暗殺は、紀元前44年3月15日、ローマ元老院で行われました。

◆クレオパトラの死。
紀元前30年8月です。オクテヴィアヌスによってエジプトが征服された後、自らの手で命を絶ちました。

クレオパトラは、プトレマイオス朝最後のファラオであり、美貌と知性で知られる女性でした。カエサルやアントニウスなど、ローマの有力な政治家と関係を持ち、エジプトの独立を保とうとしました。しかし、オクテヴィアヌスによってエジプトが征服されると、自らの手で命を絶ち、エジプトの独立を守るために自ら死を選んだのです。

クレオパトラの死は、エジプト史の転換点となりました。エジプトはローマの属州となり、古代エジプトの歴史は幕を閉じました。

クレオパトラの死の具体的な方法については、諸説ありますが、一般的には、毒蛇に噛ませて自害したという説が有力です。また、毒薬を飲んだという説や、自らの首を吊ったという説もあります

イ マリウスとスラの争い→ポンペイウスの死→カエサル暗殺→クレオパトラの死

 

 

◎ギリシア・ローマの古典文化はおもにビザンツ帝国やイスラーム圏を介して西ヨーロッパに伝えられ、中世キリスト教的な価値観を批判的にとらえる思想に大きな影響を与えた。

「ギリシア・ローマの古典文化は、おもにビザンツ帝国やイスラーム圏を介して西ヨーロッパに伝えられました。ビザンツ帝国は、東ローマ帝国とも呼ばれ、古代ローマの文化を継承した国家です。イスラーム圏は、イスラーム教を信仰する地域であり、古代ギリシアの文献や学問を翻訳・保存するなど、古典文化の伝承に重要な役割を果たしました。

古典文化は、西ヨーロッパの思想に大きな影響を与えました。特に、中世のキリスト教的な価値観を批判的にとらえる思想に大きな影響を与えました。例えば、14世紀のイタリアの思想家、ダンテ・アリギエーリは、古代ギリシアの哲学者、アリストテレスの思想を参考にして、キリスト教的な神学を批判する思想を展開しました。また、16世紀のイギリスの思想家、トマス・モアは、古代ギリシアの理想国家を描いた「ユートピア」を著し、現実の社会を批判しました。

このように、ギリシア・ローマの古典文化は、西ヨーロッパの思想に大きな影響を与えました。その影響は、ルネサンスや宗教改革など、近世以降のヨーロッパの思想にも受け継がれています。

具体的な例としては、以下のようなものが挙げられます。

ビザンツ帝国は、古代ギリシア・ローマの文献を写本として保存し、ギリシア語の教育を継承しました。このため、ビザンツ帝国は、西ヨーロッパの古典文化の伝播の拠点となりました。
イスラーム圏は、古代ギリシアの文献をアラビア語に翻訳し、保存しました。このため、イスラーム圏は、古典文化の伝播のもう一つの拠点となりました。
ダンテ・アリギエーリは、アリストテレスの思想を参考にして、キリスト教的な神学を批判する思想を展開しました。また、彼は、古代ギリシアの神話や文学を引用して、自身の思想を表現しました。
トマス・モアは、古代ギリシアの理想国家を描いた「ユートピア」を著しました。この作品は、現実の社会の不正を批判し、理想的な社会のあり方を模索したものです。
以上のように、ギリシア・ローマの古典文化は、ビザンツ帝国やイスラーム圏を介して西ヨーロッパに伝えられ、中世キリスト教的な価値観を批判的にとらえる思想に大きな影響を与えました」。



×古代ローマ最大の詩人とされるウェルギリウスはホメロスの叙事詩などギリシア文学の影響を強く受け、ローマ建国につながる英雄の事績をうたったギリシア語による叙事詩『アエネイス』を残している。

➡「ウェルギリウスとギリシア語: ウェルギリウスはラテン語で書かれた古代ローマの詩人です。『アエネイス』はラテン語による叙事詩であり、ギリシア語ではありません。ウェルギリウスはギリシャ文学、特にホメロスの影響を受けながらも、自身の作品をラテン語で執筆しました。

『アエネイス』とローマ建国の事績: 『アエネイス』は、トロイアの英雄の冒険を描いた叙事詩です。彼はトロイアの滅亡後、さまざまな冒険を経て最終的にイタリアにたどり着き、ローマ建国の起源と結びついています。しかし、『アエネイス』はローマ建国に直接的な影響を与えるような形で書かれたわけではありません。むしろ、アウグストゥス(オクタウィアヌス)の統治を賛美し、その支持を受けていたことが知られています。

要するに、ウェルギリウスはローマの詩人であり、彼の最も有名な作品である『アエネイス』はラテン語で書かれています。」


◎アレクサンドロス大王の東征によりギリシアの文化がオリエントに持ち込まれ、東西の文化が融合した独特の文化が形成されたが、その文化の担い手は主に都市に住むギリシア人だった。

×ソクラテスが始めた哲学を受け継いだプラトンは「万学の祖」と呼ばれ、経験と観察を重視するその学問体系は、イスラームの学問やヨーロッパ中世のスコラ学に大きな影響を与えた。
➡プラトンでなくアリストテレスです。