◆おまけ「無限のリヴァイアス」

 

 

【堀江貴文】JAXAの小型月着陸実証機「SLIM」が月面へのピンポイント着陸に成功したことについて解説します。

 

 

◆おまけ世界史W世界史の窓より

ケルト人

ケルト人 Celt は、アルプス以北のヨーロッパに広く居住していたインド=ヨーロッパ語族の一派で、原住地はライン川やドナウ川上流域の南ドイツと考えられている。西ヨーロッパに鉄器文化をもたらし、高い農耕・牧畜技術を持っていた。彼らは精悍な騎馬民族として活動するようになり、

前8世紀ごろから、大ブリテン島(イギリス)、ガリア(後のフランス)、イベリア半島(スペイン)、アナトリア(小アジア)、ギリシアにも進出したが、多くの部族に分かれ、対立をくり返していた。前4世紀初めにはケルト人の一派が北イタリアに侵入し、さらに南下して一時は都市国家ローマを占領(前390もしくは387年)している。この時ケルト人は賠償金のみを得て撤退したが、これがローマにおける貴族と平民の対立を先鋭にし、前367年のリキニウス・セクスティウス法の制定の背景となった。前3世紀にはバルカン半島に侵入し、ギリシアを経て前278年には小アジアまで至った一派もあった。新約聖書のパウロの書いた『ガラテア人への手紙』のガラテア人とはこのケルト人の子孫だという。
 そのケルト文化はヨーロッパ各地に遺跡として残されており、ヨーロッパ鉄器文化の後半期にあたりラ=テーヌ文化(ラ=テーヌはスイス西部)といわれている。また、キリスト教普及以前の彼らの信仰はドルイドという司祭に支配された呪術的な宗教であった。ドルイド信仰はキリスト教以前のヨーロッパの宗教の古層として、現在のフランス・ドイツ西部・スイスから北イタリアに広く残存しいる。

…ブリテン島西部のウェールズにはケルト系ブリトゥン人の住民も多く、

 1536年にはイングランドに併合されたが今も分離独立の動きは続いている。

 

…アイルランドの北東部海岸地方にいたゲール人の一派のスコット人は、6世紀ごろブリテン島の西海岸を荒らし回るようになった。古アイルランド語で「荒らす」、「略奪する」ことを「スコティ」と言ったことから、彼らはスコット人と言われるようになった。スコット人はやがて同じケルト系のピクト人とともにブリテン島北部に定住し、その地は9世紀にはスコットランドと言われるようになった。

 

…現在でもアイルランド・スコットランド・ウェールズ・ブルターニュなどにはケルト系の文化が残存している。

ガリア戦記
前58~前51年のカエサルのガリア遠征の記録。

紀元前1世紀のケルト系ガリア人およびゲルマン人に関する重要な史料であると共にラテン語の名文とされている。

 

◆CHATGPT

アルフレッド大王はケルト系ではありません。

 彼は9世紀から10世紀初頭にかけてイギリスで活動したイングランドの王で、アングロ・サクソン人です。

デーン人に対抗してウェセックスを守り、また文化・教育の振興にも尽力しました。

 

◆ヒッタイト 早稲田の過去問ではちょくちょくみます。

 インド=ヨーロッパ語族

 都はハッシュシャ。

 西アジアで最初に鉄器を使用。戦車馬車。

 エジプトと激しく争う。カデシュの戦い、ラメセス2世。

 前1200年頃、海の民の侵攻によって滅亡した。

 

◆教会修道院

ペテロ ローマ教会初代の教皇は、伝統的には聖ペトロ(Saint Peter)。

 イエスの十二使徒の一人、ペテロが創建したとされるローマ教会(聖ピエトロ教会)の司教は、キリスト教信仰の中でペテロの後継者という特別の地位が与えられていた。しかしはじめは、五本山の一つにすぎず、またローマ帝国の国教となってからは、ローマ皇帝が教会に対する命令権を持っていたため、その保護を受けながら、皇帝に服さなければならなかった。…

 

➡パウロではありません。

パウロ。パウロはユダヤ人で、最初はキリスト教の弾圧者として知られていました。

しかし、ダマスコでの霊的な体験(ダマスカスの光景)を経てキリスト教に改宗し、キリスト教の伝道者となりました。

パウロは異邦人への福音伝道に重点を置き、ギリシャ語圏やローマ帝国内で広く伝道活動を行いました

 

 

べネディクトゥス
529年ごろ、イタリアモンテ=カシノに修道院を建設し、ベネディクト派修道会を興した。

539年(または540年)にベネディクトゥスが定めた戒律は、その後の修道会の規範として大きな影響を与えた。

(➡6世紀であり、9世紀ではありません)

 「祈り、働け」をモットーとし、「清貧・純潔・服従」を理想とする禁欲生活を送り、…

7世紀ごろには、すべての修道院において、ベネディクトゥス戒律を準拠することが定められた。

 

6世紀の修道院運動の震源地となり、後世に大きな影響を与えた。

581年頃、ランゴバルド王国のゾトによって破壊されて、720年頃まで再建されなかった。

またその後は2回にわたりイスラーム教徒の襲撃を受けて破壊され、荒廃してしまった。

 

 

シトー派修道会。
 キリスト教の修道士の団体である修道会の一つ。

1098年、中部フランスのシトーに設立された。(➡イタリアではありません)

1106年、シトー派の修道院が公認され、さらに同会の修道院が設けられていった。

 ベネディクト派修道会の戒律の厳格な励行をかかげ、クリュニー修道院にかわる修道院運動の中心となる。

 

12世紀の半ばには修道院長ベルナルドゥス(ベルナール)の指導のもとで発展し、修道士は清貧・服従・労働の生活を守った。
 シトー派修道会の修道院は、イギリスにもわたり牧羊を飼育して毛織物をつくる技術をもたらしたと言われている。

また、13世紀にはドイツの東方植民とも結びつき未開地の開墾に従事し、大開墾時代をもたらした

しかし、そのころから次第に俗化し、托鉢修道会の出現によって衰退した。

 

◆イギリス チューダー朝

イギリス宗教改革はヘンリ8世以来進められ、

 ローマ教皇と対立を深めたヘンリ8世は、1534年に首長法(国王至上法)を議会で制定させ、ローマ教皇にかわってイギリス国王を教会の首長とする宗教改革を断行、イギリス国教会を創始した。次いで修道院を解散させその土地をジェントリに売り渡し、国民の支持を受けた。しかし、国王の離婚を非難したトマス=モアを処刑するなど、反対派を厳しく弾圧した。
 ヘンリー8世の宗教改革と結びついた絶対王政の強化策は、議会の下院を構成していたジェントリ層の支持を受けた。協力の代償として彼らは修道院財産の分配にあずかったからであった。

 

1549年、エドワード6世の時に礼拝・祈祷についての統一基準が作られた

➡ブラディ・メアリ

 スペインの皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)と結婚。

 メアリ1世の時にカトリック復活策で廃止されるなど混乱がつづいていた。

母がスペイン王女であったのでカトリックへの復帰を強行、新教徒を迫害した。

 

1558年エリザベス1世に即位。

 先代のメアリ1世のカトリック政策を改め、イギリス国教会による宗教統制を復活させる決意を固めた。

1559年には、首長法(国王至上法)を再度制定して、

 女王は「世俗上の事項と同じように、一切の宗教上・教会上の事項においてもイギリス王国の唯一最高の統治者である」と定め、
1559年、統一法 エリザベス1世の時のイギリス国教会の礼拝法を確立させた法。
 国教会の礼拝・祈祷の統一基準を定めた法律。
これによってイギリス宗教改革は完了し、イギリス国教会の体制ができあがった。

 

ジェームズ1世 ステュアート朝初代国王。(在位1603~25年)。

 スコットランド王としてジェームズ6世と称していたが、

テューダー朝のエリザベス1世(女王)が1603年に後継者なく死去した際、後継のイギリス王(厳密にはイングランド王とスコットランド王を兼ねる)として迎えられた。

 その母のスコットランド女王メアリ=ステュアートの祖母がチューダー朝のヘンリ7世の娘であったため、エリザベス女王が次期国王に指名していたのだった。

 これによってイングランドにステュアート朝が成立し、イングランド王位は16世紀以来アイルランド王位を兼ねていたから、ジェームズ=ステュアートのもとで、歴史上初めてイングランドとスコットランドとアイルランドは、同君連合の形で統合されることとなった、

 

 王権神授説を掲げて絶対王政を展開し、議会と対立した。

 

クロムウェルの政治

平等派・長老派を弾圧 

 権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、

  水平派 財産権と参政権の平等を要求、

  ディガーズ 土地均分を要求

    これらの運動を弾圧するとともに、

 

  国内の王党派・カトリック勢力を厳しく取り締まった。

 

 1648 議会の穏健派である長老派を追放して、独立派のみで独占した

  (これ以後の長期議会を、ランプ議会という。ランプとは残部の意味)。


アイルランドとスコットランドの征服

 またクロムウェルは反革命運動を抑える口実で、

 アイルランド征服(1649年)とスコットランド征服(1650年)を実行した。
  アイルランド征服 

 アイルランドは1171年にイングランド国王のヘンリ2世が侵略し、その主権を主張、形式的にはその属領となっていた。

 イングランドよりも古いカトリック信仰が根付いており、ヘンリ8世以来の国教会強制も効果を上げていなかった。

 

 ピューリタン革命でチャールズ1世が処刑され、その子チャールズがオランダに亡命すると、

  アイルランドでは彼を国王チャールズ2世として迎えると宣言した。

 

 クロムウェルは国内で平等派を武力で押さえた後、

1649年夏、アイルランドの王党派を掃討するという名目でみずから1万2千の軍を率いてダブリンに上陸し、

王党派・カトリック勢力を弾圧した。その際、一般市民も含む大量虐殺が行われた。

 この遠征は給与の不払いなどで不満を持つ軍隊に対する恩賞として、没収した土地が与えられた。没収地はロンドンの投機家たちにも与えられ、アイルランド人の土地の40%が奪われたという。

これ以来、アイルランドはイギリスにとっての安価な食糧と原材料を供給する「植民地」と化した。

 


スコットランド征服 

 チャールズ2世がスコットランドに渡って拠点を作り、イングランドへの南下の動きを示すと、クロムウェルは同じく王党派の撃滅を口実に、1650年にスコットランド遠征を行い、1651年9月のウースターの闘いでスコットランド軍を破った。

これによってスコットランドはイングランドに吸収され、1654年4月には合邦が宣言された。


航海法・英蘭戦争
 17世紀に海上貿易に進出したイギリスにとって、最大のライバルはオランダだった。

1651年には貿易商の要求を入れて航海法を制定、オランダとの貿易競争で優位に立とうとした。

航海法

植民地との貿易の独占: 植民地との貿易はイギリスの船によってのみ行われるべきであり、植民地からの輸出品もイギリスの港を経由する必要がありました。

外国製品の制限: 外国製品は、まずイギリスの港で荷卸しされ、そこから再び輸送される必要がありました。

船の所有と船員の国籍: 船はイギリス人によって所有され、船員もイギリス人でなければならなかった。

これらの規定は、植民地の経済をイギリスに取り込み、国内の産業と海運を促進することを意図していました。このような政策は典型的な重商主義の手法