◆おまけ「トップをねらえ」

 

 

 

 

【堀江貴文】京アニ事件で思ったことについてお話しします。

 

 

◆世界史 早稲田文、世界史の窓より

ウルのスタンダード

 

エジプト新王国
前16世紀中頃成立し、ヒクソスを撃退してエジプトを統一した王国。

アメンホテップ4世の改革を経て、前13世紀のラメセス2世の時、最盛期となってシリア進出をとげ、ヒッタイトと争った。しかし海の民の侵入によって次第に衰え、前11世紀中ごろに滅びた。

 

テーベのエジプト王はヒクソスから軍事技術を学びながら力を付け、前1552年に第18王朝となった。

一般にここから新王朝が始まるとされる。

エジプトの統一を再現した新王朝はその後、第20王朝までの約500年間続く。


 新王朝のアアフメス1世は、前1542年にヒクソスの都アヴァリスを占領してエジプトの国土再統一を達成し、

さらに逃れたヒクソスを追ってパレスチナに攻め入り、前1539年に最後の拠点シャルヘンを落とし、ヒクソスを滅ぼした。


 前15世紀のトトメス3世の時代は、西アジアに進出、

ミタンニなどと戦うとともに、ナイル川上流ヌビア地方のクシュ王国を服属させ、エジプト新王国の領土を最大にした。


 前14世紀の前1364年ごろに即位したアメンホテプ4世の時代は、一神教信仰を創始する宗教改革が行われ、都もテル=エル=アマルナに遷され、独自のアマルナ文化が開花した。

 

しかし、つぎの前1346年に即位したツタンカーメン王の時に神官の力によって都がテーベに戻されるなど、しばらく混乱が続いた。その後は、ハトシェプスト女王、ラメセス2世など有能な王が出て、またその領土はエジプトにとどまらず、西アジアのパレスチナ、シリアに進出するようになり、ミタンニやヒッタイトなどの国々と激しく抗争した。
 新王国時代の歴代の王の墳墓としてテーベの近くに築かれたのが「王家の谷」である。<大城道則『古代エジプト文明 世界史の源流』2012 講談社選書メティエ p.78-161>

 

テル=エル=アマルナ アメンホテプ4世の新都
 エジプト新王国のアメンホテプ4世が、テーベのアメン神神官の勢力を排除するために築いた新都。

テーベとメンフィスのほぼ中間のナイル川東岸にあった。アケト・アテン(「アテンの地平線」の意味)というのが正式の名称。従来のアメン神を祀る神官団の勢力を排除し、新たに王が創出した唯一神アトン神を祀る神殿を建設するために選んだ。


 紀元前1364年の冬、アメンホテプ4世は王妃ネフェルティティなどを従え、アケト・アテンと命名された新都建設予定地を訪問、建築工事起工の儀式を行った。都にはアトン神の神殿とともに、王宮、王墓、中央官庁街が二年ほどで建設された。


 アマルナに遷都し、アメンホテプ4世はイクナートンと改名、

これ以後王は何ものにも束縛されず、専制君主として「アマルナ革命」を推進し、斬新なアマルナ美術がこの王宮で栄えた。


 しかし、その死後、アメンホテプ4世の改革が否定されると、この都は王一代で終わり、

次の王朝によって破壊され、現在は遺跡が残るのみとなっている。

 

1887年にはこの遺跡から、偶然にアマルナ文書といわれる大量の楔形文字を刻んだ粘土板が出土し、

アメンホテプ時代のオリエント諸国の外交記録であることが判明した。

 

カデシュの戦い/カデシュの平和条約
 前1286年頃、シリア・パレスチナの領有権をめぐり、

エジプト新王国のラメセス2世と、ヒッタイト王ムワタリとの間で戦われた戦争。

カデシュは現在のシリア西部の地名でオロンテス川近くにある交易の要衝であった。エジプト新王国は早くからシリアに進出していたが、小アジア(アナトリア)を本拠としたヒッタイト王国が急速に勢力を伸ばしてきたことによって、両国はシリア・パレスティナの支配権をめぐって衝突、オリエント世界の有力国間の戦争に突入した。
 一時ヒッタイト軍が優勢であったが、ラメセス2世の勇戦によってエジプト軍が態勢を立て直し、最終的には決定的な勝敗は決せず終にわった。戦いの結果は、一般に引き分けに終わったとされている。その後、前1269年頃には、エジプトとヒッタイト両国の間で、平和同盟条約が締結された。この条約は現在知られている世界で最古の国際条約といわれている。

(セティ2世ではない)

トトメス3世
 トトメス3世 thut-mes Ⅲ は、エジプト新王国第18王朝の王(在位前1490~36年)。即位したときは幼少であったので、先代の正妃であったハトシェプストが共治王として実権を握った。前1486年頃から単独で政権をとると、北方の脅威となっていたミタンニ王国に対し遠征を開始した。治世42年間に17回のアジア遠征を行い、その記録は都テーベ(現在のルクソール)に造られたカルナック神殿の壁面に刻まれている。
エジプトの支配領域最大に
 前15世紀、エジプト新王国のトトメス3世は軍をユーフラテス川まで進め、カッシート(バビロンを支配していた)、ミタンニ、アッシリア、ヒッタイトなどのアジアの諸王朝にエジプトの地位を承認させた。アジアを制圧したトトメス3世は、次いでナイル川上流ヌビア地方のクシュ王国を従え、エジプト史上最大の版図を獲得した。

このような征服活動を展開したところから、トトメス3世は「エジプトのナポレオン」と言われる。
 しかし国王の権力が強くなるに従い、それを支えていたテーベのアメン神(アメン=ラー)の神官との対立が始まり、前14世紀のアメンホテプ4世のアマルナ革命の混乱期を迎える。

 

◆古代ギリシア

アクロポリス

ギリシアの植民市。

タレントゥム 

 

ミラノは古代にはメディオラヌム(メディオラーヌム)と称され、

紀元前600年のケルト人の町を元にしている。前222年にローマが征服