▲おまけ「ふしぎの海のナディア」

 

 

▼きょう召集の通常国会について
▼日本経済界代表団 中国の李強首相と会談
▼京アニ放火殺人 青葉被告に死刑判決
▼米GDP 市場予想を上回る3.3%増
▼イランとトルコの大統領が会談
▼能登半島地震 被災地介護の現状
⇒社会福祉法人 福島県社会福祉事業団
 地域福祉課長の大河原光子さん
 介護福祉士の大湊秀章さん
1月26日(金)ニュース
コメンテーター 
外交評論家、内閣官房参与 宮家邦彦

 

◆世界史 早稲田

インド=ヨーロッパ語族の移動 主に3方面に波及。気候の寒冷化?

 小アジア・メソポタミア

 インド方面

 ギリシア

 ヒッタイト

ヒッタイト人はインド=ヨーロッパ語族に属し、前17世紀中ごろ、小アジア中心に王国を建設し、一時はメソポタミアに進出し帝国の支配を拡げた。都はハッシュシャ。西アジアで最初に鉄器を使用したとされる。エジプト新王国と激しく争った後、前1200年頃、海の民の侵攻によって滅亡した。

 


古代エジプトの古王国時代

 都メンフィス

 クフ王 前26世紀中頃、ギザに最大のピラミッドを建造した。

 エジプト中王国
前2040年頃、古王国に次いで現れたエジプトの王国。

 テーベを都とした。前1650年ごろ、ヒクソスの侵入を受けて衰退した。

 

 ヒクソス
前18世紀中ごろ、エジプトに侵入したアジア系民族。エジプトに騎馬と戦車をもたらし、前1650年に第15王朝を建て、エジプト新王国によって前1542年にエジプトから追われるまでエジプトを支配した。

 

エジプト新王国
前16世紀中頃成立し、ヒクソスを撃退してエジプトを統一した王国。

 アメンホテップ4世の改革を経て、前13世紀のラメセス2世の時、最盛期となってシリア進出をとげ、ヒッタイトと争った。

カデシュの戦い/カデシュの平和条約
前1286年、エジプト新王国とヒッタイトのシリア・パレスティナをめぐる戦い。

戦後、両国間で締結された条約は、世界最古の国際条約と言われている。

 

しかし海の民の侵入によって次第に衰え、前11世紀中ごろに滅びた。

 

 カッシート
前16世紀、メソポタミア南部、バビロニア王国を支配した民族。系統は不明。ヒッタイト、ミタンニ、アッシリアと抗争した。前1155年、エラム人に滅ぼされた。(注 インド=ヨーロッパ語族であるとわれたこともあったが、現在は否定されており、非セム系である以外は正確には不明)

 

ミタンニ
前15世紀、メソポタミア北部にあったフルリ人(傾倒不明)が作った国。エジプト新王国、ヒッタイトなどと抗争した。前14世紀にヒッタイトと争って敗れて衰退し、前13世紀ごろにアッシリアに併合されたと考えられる。
(ミタンニ人はインド=ヨーロッパ語族とされている。しかし、ミタンニを構成していた多くの人々は、もともとコーカサス地方にいたフルリ人(フリ人ともいう)であったという。このフルリ人の民族系統は不明である。)

 

 

▲インド方面。

インダス文明
インダス川流域のモエンジョ=ダーロ、ハラッパーなどの遺跡に紀元前2500年頃から1500年頃まで、彩文土器、金属器、印章などを伴う高度な都市文明が生まれた。重要な人類の古代文明の一つである。

青銅器の使用(鉄器は知られていない)。

 

アーリヤ人
前1500年頃、北西部からインダス川流域のパンジャーブ地方に侵入した印欧語族の一派。

 騎馬戦士と戦車を使って先住民族であるドラヴィダ人らを征服しながら…

前1500~1000年頃を前期ヴェーダ時代。「リグ=ヴェーダ」によって伝えられる。

前1000年頃、ガンジス流域に進出しインド亜大陸に広がってインド社会を形成した。

前1000~前500年頃までを後期ヴェーダ時代。アーリヤ人がガンジス川流域に移動し他の三ヴェーダが作られる。

 アーリヤ人の伝承であるヴェーダの神々への信仰からバラモン教が生まれ、

 そこからヒンドゥー教が発展する。また彼らの征服の過程で、カースト制社会が形成されたと考えられている。

バラモン教
 アーリヤ人の自然崇拝から起こった多神教で、『ヴェーダ』を聖典として成立した。

祭祀を司るバラモンの権威が強く、しだいに形式的になり、前5世紀頃から改革運動が起こり、ウパニシャッド哲学という独自のインド思想が生まれる。またバラモン教の形式化を批判して、仏教やジャイナ教がおこるが、民衆の日常生活の中ではなおもバラモンの教えは存続し、後のヒンドゥー教につながっていく

 

リグ=ヴェーダ
ヴェーダ(アーリヤ人の聖典)の中で最古のもの。アーリア人のインダス流域進出に伴って成立した。
アーリヤ人がインドを征服する過程で生じた身分制度であるヴァルナ制と、それを基本に形成された多数のジャーティから成るカースト社会とむすびついている。

 

コーサラ

前6世紀頃、ガンジス中流に成立した都市国家。マガダ国と対抗したが、前4世紀に滅ぼされた。
 なお、古代インドの二大叙事詩の一つ、『ラーマーヤナ』の主人公であるラーマは、コーサラ国の王子とされている。

 ラーマ王子が都としたアヨーディヤはヒンドゥー教の聖地とされている。

 

マガダ国
前6世紀に有力となったガンジス流域の都市国家。仏教とジャイナ教を保護。

前4世紀ごろナンダ朝が治めたが、前317年にチャンドラグプタが興したマウリヤ朝に代った。

 

ジャイナ教
前6~5世紀、仏教と同じころ生まれたインドの新宗教。ヴァルダマーナを始祖とし、徹底した不殺生を説く。現在もかなりの信者が存在する。

 

アショーカ王
 インドの最初の統一王朝であるマウリヤ朝第3代の王。王朝の創設者のチャンドラグプタの孫。紀元前268年に即位し、前232年頃まで在位。マウリヤ朝全盛期の王で仏教の保護者としても知られる。


アショーカ王と仏教
 アショーカ王は、デカン高原の東南部のカリンガ国を征服したとき、王自身が戦争で多くの犠牲を出したことを深く恥じて、仏教に深く帰依するようになった。


ダルマによる政治 前258年に、ダルマ(普遍的な仏法)にもとづく政治を行うことを宣言し、2年後にそれを詔勅として発布した。詔勅には不殺生と正しい人間関係の尊重が説かれていた。


石柱碑、磨崖碑の建設 石柱に刻んだり(石柱碑)、崖に刻んだり(磨崖碑)して民衆を教化した。それらの碑文は、民衆語であるプラークリット語を、インドの文字であるブラーフミー文字で書かれていた。それらは現在もインド各地(パキスタンやアフガニスタンも含み)に現存しており、マウリヤ朝の統治範囲を示している。


仏典の結集 アショーカ王の時代に3回目の仏典結集が行われ、仏教史上理想的な王とされている。

 ブッダの死後、教団の内部に意見の違いがあらわれたため、ブッダの教えを正しく伝える必要が生じ、伝えられた説法を整理して統一を図る必要が生じた。そのために行われた仏典の編集作業を結集といい、ブッダの死の翌年に教団の長老たちが集まった第一結集、約百年後の第二結集、アショーカ王の時代に第三結集が行われたと伝えられている。

次いでクシャーナ朝のカニシカ王の時に、第四回目の仏典結集が行われた。


仏塔の建設 アショーカ王は全土に仏塔(ストゥーパ)を建て、仏舎利(ブッダの遺骨)を分納した。伝承によると王は8万4千の仏塔を建てることを目指したという。現存する石塔には、インド中央部のサーンチーの石塔が有名である。


スリランカへの布教 またアショーカ王は前240年ごろ、王子をインドの南に位置する島、スリランカに派遣して仏教を布教した。またビルマに布教されたのもこの時代であり、これらは後の大乗仏教と異なる部派仏教であり、南伝仏教(後に上座部仏教と言われるようになる)としての東南アジアの仏教の繁栄の基礎となった。

 

カニシカ王
2世紀なかごろに北西インドを支配したクシャーナ朝3代目の王。大乗仏教を保護した。西方のローマとも交易を行った。
ガンダーラのプルシャプラを都に北西インドを支配した。
仏教の保護
 マウリヤ朝のアショーカ王と並んで仏教に深く帰依し、保護政策をとったことで有名であるが、カニシカ王が保護した仏教はアショカ王時代と異なり、大乗仏教といわれる新しい仏教であった。

王はインド各地に多くの仏塔や寺院を建て、第四回の仏典結集を行った。
 またカニシカ王の時代には、ヘレニズムの影響が北西インドに及び、ガンダーラ様式にみられる仏像彫刻が盛んに造られた。

 

法顕
5世紀初めに仏典を求めてインドに渡った東晋の僧。

グプタ朝のインドで仏教を学び、海路で帰国。その旅行記が『仏国記』である。

 

ヴァルダナ朝
7世紀にハルシャ=ヴァルダナ王が北インドを統一して建てた王朝。

 仏教を保護し、この時代に唐の玄奘がナーランダ僧院で学んだ。

 グプタ朝が衰退した後、インドは分裂状態に戻ったが、その中で最も有力で、606年にインドの統一を一時的に回復したのがマガダ国のヴァルダナ朝である。都はガンジス川中流の現在のカナウジにあった。
唐の玄奘の来訪
 7世紀のハルシャ王の時一代のみが繁栄し、その間、仏教とヒンドゥー教がともに保護された。唐の僧玄奘がインドに来てナーランダー僧院で学んだのもこの時代であった。ハルシャ王の死後は急速に衰退し、インドはラージプート時代といわれる分裂期にはいる。この分裂期に、711年のウマイヤ朝のインダス川流域侵攻を皮切りにイスラーム教の浸透が始まる

 

玄奘
唐の僧。7世紀前半太宗の時、仏典を求めて陸路インドに往復し、多くの仏典を持ち帰り、仏教の興隆に努めた。

その旅行記は『大唐西域記』である。