◆おまけ「フルーツバスケット」

 

◆「長谷川幸洋 Tonight」第49回 ゲスト・原英史様

 

◆おまけ世界史(CHATGPTと世界史の窓) 早稲田法2023

◎開封はかつて北宋(960年から1127年まで)の都でした。

開封は黄河流域に位置し、また大運河という重要な水路の結節点でもありました。

大運河は中国の主要な河川や水域を結び、経済や文化の交流を促進しました。開封はこの大運河の北端に位置しており、

南方からの物資や文化が北へ、北方からのものが南へと容易に流通できたため、交易が盛んに行われました。

こんな感じ?

 


◎「交子会子」

 

北宋時代(960年から1127年)に導入された通貨制度でした。
「交子」とは、銅銭のことを指しました。これは小さな銅の銭で、経済取引や市場で使用されました。

「会子」は、貨幣や銭貨の総称として使われました。

 

◎宋代(960年から1279年まで)の華北地域では、トウモロコシはまだ栽培されていませんでした。

トウモロコシは本来、アメリカ大陸原産の植物であり、それがヨーロッパ経由でアジアに広まったのは、16世紀以降のことです。

宋代の中国では、主要な穀物としては主に稲、麦、粟(きび)、豆類などが栽培され、食用されていました。トウモロコシは中国に導入されたのは、後の時代になってからでした。トウモロコシが中国に広まる主な経路は、ヨーロッパを経由した大航海時代の交流です。アカプルコ貿易ではない。

 

サツマイモはラテンアメリカ原産で、16世紀にコロンブスのアメリカ大陸到達後にヨーロッパ経由でアジアにもたらされました。
中国においてもサツマイモが導入され、栽培が始まったのはその後の時代で、主に明代以降になります。

サツマイモは暖かい気候を好む作物であり、華南地域の気候と土壌条件が適していたことから、栽培が盛んになったと考えられています。(宋代においてはサツマイモの栽培はまだ広く行われていなかったと考えられます。)

 

宋代に白磁青磁が作られていた
宋代中期から後期にかけて製造され、その美しさと技術的な進歩により、世界的に高く評価されました。
白磁 代表的なものに 定窯や汝窯など。
青磁 代表的なものに、青花瓷や哥窯があります。
宋代の白磁と青磁は広く輸出され、他の国々にも大きな影響を与えました。

 宋代の中国は陶磁器の製造と貿易が発展し、多くの宋代の磁器が海外に出荷されました。
特に、アジアや中東、アフリカ、ヨーロッパといった地域に向けて宋代の磁器が輸出されました。

中国磁器は世界中で高い評価を受け、「中国磁器」は一つの象徴として広く知られました。
海上シルクロードと呼ばれる陶磁器の貿易路が確立され、青磁や白磁が船で運ばれました。

これにより、中国の磁器は異国の富裕層や王侯たちのコレクションや贈り物として広く愛用されました。

 

◆市舶司

市舶司
中国で海外との貿易を管理し、徴税するためにおかれた役所。

唐の中ごろに広州に始まり、宋代に常置・拡充されて主要海港におかれた。

元、明代まで続き、海外貿易が盛んになるに伴い、重要な官庁となった最初の市舶司は、唐代に存在しました。

 

 唐の市舶司

 唐の玄宗の時、714年に広州に市舶司が置かれたことが始まりで、その長官を市舶使(司ではない)といった。 
 唐の市舶司(その長官が市舶使)の任務は、商人の出入国手続き、貨物の検査、禁制品(武器など)の取り締まりに加え、もっとも重要なことが徴税であった。また広州に設けられたイスラーム商人の居住区である蕃坊も市舶司が管理した。

ただし、唐では市舶使は常置の官職ではなく、節度使や宦官が貿易業務に当たることも多かった。


宋の市舶司
 宋(北宋)の時代は、経済の発展を背景に、海外貿易がさらに盛んになった。

とくにイスラーム商人との南海貿易は広州以外にも広がり、

それに対応して宋代には、市舶司は広州以外にも泉州、明州(寧波)、杭州(臨安)、温州などにも設置された。

このうち明州は日本からの交易船の入港地でもあり、他に山東の密州は新羅からの交易船の来港地と指定されていた。

 

明州/寧波
浙江省の港市として唐では市舶司が置かれ、さらに宋代、元代、明代を通じて繁栄し、ムスリム商人も来航した。南宋と元では慶元といわれた。元代には、元軍の第2回の日本遠征での江南軍の出港地となった。
 特に明代以降は、寧波(ニンポー)と言われ南海貿易で栄えた。日本からの貿易船(勘合貿易)が寄港し、日本の商館も置かれた。1523年に起こった寧波の乱は、室町時代の日本の細川氏と大内氏が勘合貿易の利益をめぐって争い、現地の寧波で大内氏側が細川氏の船を焼き討ちした事件である。

 

明州(現在の中国の浙江省杭州市周辺)は、唐代には日本の遣唐使が唐との外交の拠点として使われた港の一つでした。

明州はその地理的な位置から、唐との交流において重要な拠点として機能しました。

遣唐使船が使われる航路の中には、日本から出発し、明州を経由して唐に向かうものもありました。このような経路は、当時の航海において便利であったため採用されました。

 

杭州
マルコ=ポーロの滞在
 元の フビライの宮廷に仕えた、ヴェネツィア出身の商人マルコ=ポーロも杭州に滞在し、世界最大の都市と賞賛している。その著作『東方見聞録(世界の記述)』ではキンサイと書かれているのは、杭州が南宋の都(臨安)となったが、公式には一時的な皇帝の滞在地、つまり行在所(あんざいしょ)といわれていたためであり、


 

・・・
 宋の初めは市舶司も州の長官や財務を担当する官が兼任することが多かったが、

北宋の末になって専任の長官として提挙市舶司(市舶司、提挙市舶ともいう。ここでは使でなく司)がおかれるようになった。

宋の市舶司は、朝貢使節の受け入れ、民間貿易船の出入港の許可、積荷の検査、輸入税(関税)の徴収、専売品の買い上げなどの貿易業務に当たった。


参考 宋の市舶司の任務と利益
 外国の商船が入港すると、その物資はまず市舶司によって「抽解(ちゅうかい)」される。抽とは税を抽出する課税のことで、だいたい十分の一の税率である。抽解の後、市舶司は禁榷(かく)貨物といわれた専売品を一手に買い上げる(収買)。北宋時代には真珠・タイマイ・犀の角・象牙・珊瑚・瑪瑙・乳香などが専売品とされた(時期によって品目は変わる)。その他の物は官は良質の物を選んで買い上げ、残りを商人が買い付ける。市舶司は買い入れるための金・銀・銭・鉛・錫・絹織物・陶磁器などを貯えており、それによって支払う。
 銅銭は輸出禁制品であったので外国の商人への支払いには使われず、専ら中国商人に対して使用された。銅銭の輸出禁止令(銭禁)は宋初から布かれ、三貫以上は死刑という極刑が科せられたが、外国商人にとっては同船は有利な貿易品であったので、厳禁にかかわらず密輸出が絶えなかった。
(引用)宋の政府は、抽解および収買によって入手した物価を、専売または商人に出売りして巨額の利益を上げた。その収益は南宋初期の紹興年間に百万緡(びん)から二百万緡に達した。その財政収入において占める割合はかなり大きなものであった。市舶司に期待されるところは多かった。外国使節・商船の招致は宋朝歴代不変の対外方針であった。来朝の使節・商人を優遇するとともに、積極的に自国の使節を海外に派遣し、あるいは国書を貿易商人に託して、諸外国の朝貢・通商を勧誘した。<周藤吉之・中島敏『五代と宋の興亡』講談社学術文庫 p.440>


元の市舶司
 元の時代も前代からの南海貿易は続いており、市舶司による貿易管理の制度も引き継がれた。南宋の末期から元の始めにかけて、泉州ではアラビア人の蒲寿庚という人が市舶司に任命されフビライに協力したことが知られてている。
 一方、フビライの頃から、内陸の隊商貿易でオルトク(オルタク)というムスリム商人組織が作られるようになると、

それが海上貿易にも応用されて、元朝の皇族や貴族が資金を出して貿易の利益を独占しようとするようになった。

 

イブン=バットゥータの見た泉州
 イブン=バットゥータはモロッコ生まれの大旅行家。1345年に泉州に上陸し、そこから大都を訪問している。

その時の彼の見た泉州について、その旅行記『三大陸周遊記』は次のように記している…

 

イブン=ハルドゥーン
14世紀、チュニジア生まれのイスラーム歴史学の大家で『世界史序説』を著す。

 都市と遊牧民の交渉を中心に歴史の法則性を探った。


明の市舶司
 元が貿易の国家統制を強めようという傾向は、次の明にも継承された。朱元璋(洪武帝)は即位すると中国の皇帝を中心とした世界秩序(中華思想による華夷秩序)をつくりあげるため、諸国に使節を派遣して朝貢を促した。1371年には沿岸の人民が海上に出ることを禁止する「海禁」を打ち出した。これは倭寇のとりましりを理由としていたが、ねらいは貿易を朝貢貿易に限定することによってその利益を国家が独占することにあった。具体的な方法としては、朝鮮と琉球を除いた諸国には一定の勘合符を発行して符合する船のみを朝貢船として認める勘合貿易の形式が取られた。市舶司は寧波・泉州・広州の三港だけに置かれ、朝貢使とそれに随伴した商人らを乗せた船は、この三港の市舶司で検査を受ける必要があった。
 明の海禁政策と朝貢貿易の強化は、海外貿易の展開では消極的な政策であったが、永楽帝の時代だけは例外で、鄭和艦隊を東南アジアからインド洋方面まで派遣するという積極策がとられた。しかしその本質は、自由な民間貿易を拡げるのではなく、朝貢貿易を広く呼びかけ、その範囲をひろげて中国皇帝の権威を高めようということを目的としていた。永楽帝の時代が終わると通常の朝貢貿易に戻るが、民間貿易を禁止する方策は、密貿易や海賊の横行(その例が倭寇の活動)を盛んにすることとなって行き詰まり、明末の1567年には民間貿易も許可される。<堀敏一『中国通史』講談社学術文庫 p.313-315>。

 

◆海の道
地中海方面とインド洋からアジア海域を結ぶ海上の交易路。東方から陶磁器などが製法に運ばれた。


 東西貿易は陸路だけではなく、早くから船を使った海上貿易も盛んだった。まず1世紀ごろ、ローマ帝国の地中海世界支配の確立によって、そのもとで海上貿易に従事していたギリシア系商人が紅海やペルシア湾からインド洋に進出し、クシャーナ朝や南インドの王朝と交易を行い、インド洋交易圏が成立した。

この時期のギリシア人商人の活動は、ギリシア語文献の『エリュトゥラー海案内記』に見ることが出来る。

さらに東南アジアから中国沿岸を結ぶ東西交易ルートにつながっていった。
 特に8世紀以降西アジアにイスラーム教が起こると、イスラーム商人(ムスリム商人)の紅海、アラビア海での活発な海上貿易活動が始まる。11世紀以降になると宋や元などの中国の経済力が高まり、中国商人が東南アジアからインド洋に進出し、特にジャンク船で陶磁器を運び、ムスリム商人と取引をした。また東南アジアからインド、アラビア海沿岸にはいくつかの港市国家が繁栄していた。これらの海洋を利用した船による東西貿易は海の道または「海のシルクロード」といわれ、または特にインド洋に面した地域や中東、地中海世界まで陶磁器がもたらされたことから陶磁の道と呼ばれている。また最近は沈没した貿易船の引揚げなども進み、注目されている。