◆おまけ 灰羽連盟

 

 

 

オジキの予言的中!やはりパー券問題は静かに終了。そして岸田首相の「政治刷新」で派閥はどうなる?! ニュース女ネ 上念司×須田慎一郎×真鍋由佳 2024/1/25 朝8時公開

 

 

◆世界史 昭和女子大学2022(世界史の窓より)

近代史


 最初に建設されたのは、1607年のヴァージニア、最後が1732年のジョージア

当初は国王から特許状を得た会社による植民(会社植民地)が多く、他に領主植民地、自治植民地があったが、次第に王領植民地が増加した。18世紀半ばにはの状況は、次の通り。
王領植民地:ニューハンプシャー、ニューヨーク、ニュージャージー、ヴァージニア、ノース=カロライナ、サウス=カロライナ、ジョージア
領主植民地:ペンシルヴェニア、デラウェア、メリーランド
自治植民地:コネティカット、ロードアイランド、マサチューセッツ※
※マサチューセッツは、王領植民地だが、1774年から総督と議員は住民による選挙が認められ、半自治植民地となった。)
 いずれにおいても植民地議会を持って一定の自治を認められていたが、その範囲はそれぜぞれの植民地の中に留まり、最終的な権限は総督を通じて本国政府が持っていた。
 イギリス領の13植民地の北方に広がるカナダや、西に広がるルイジアナ(ミシシッピ流域)には、ブルボン絶対王政下のフランスが広大な植民地を獲得しており、両国はヨーロッパ本土で覇権を巡って争うと共に、激しい英仏植民地戦争をアメリカ大陸とインドで展開していた。

4つの移民集団

プリマス メイフラワー港

 イギリスから新大陸東岸に移住し、植民地を形成した移民集団は一つだったのではなく、その出身地、信仰の違いなどから、大きく次の4つの集団に分けることが出来る。彼らはアメリカ植民地に定着するとともに、それぞれが独特の信仰や思考形態、生活様式をもっており、異なる集団として存在した。
イーストアングリア(ロンドン北東部)の港からピューリタン(清教徒)が、主に新大陸東北部のマサチューセッツなどニューイングランドに入植した。
続いてロンドン南部と南西部から、チャールズ1世時代の王党員や年季奉公人が、南部のヴァージニアに住みついた。
北ミッドランド(チェシャーからカンバーランドまでの地域)のクェーカー教徒が、北部のデラウェア渓谷やペンシルヴェニアに移住した。
北イングランド、アイルランド、スコットランドの国境地帯の人々は、現在のワシントン西部のシェナンドアやアレゲニー台地といった辺境に住みついた。
 アメリカに早い時期にイギリス(グレートブリテン島)から新大陸に移住した人びとは、決して同一の集団だったのではなく、信仰、慣習、伝統、考え方の違う4つの集団から構成されていた。

後に北部と言われる地域にもピューリタンとクェーカーの違いがあり、また南部と言われるヴァージニアの王党派との違いも大きかった。アメリカの歴史を考える際にこの集団による大きな違いに留意しなければならない。

<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.22,36> → アメリカの南北対立

 

ニューアムステルダム 

オランダ人の入植
 1524年、フランス国王にやとわれたイタリア人のヴェラツァーノという探検家が大西洋に出るためのルートを探りに東海岸を探検中、初めてこの島に近づいたが、天候が悪化したため、上陸はしなかった。1609年、イギリスの探検家ヘンリ=ハドソンがオランダ東インド会社に雇われてアジアへの航路をもとめてこの湾に入り、はじめてマンハッタン島に上陸し、先住民と取引し、ナイフやガラス玉と毛皮を交易した。このとき彼がさかのぼって探検した川はハドソン川と名づけられた。オランダ(ネーデルラント連邦共和国)はハドソンの報告に基づきこの地方をニューネーデルラントと命名し、1621年に西インド会社を設置し、1625年からニューネーデルラント植民地の建設を開始した。オランダ人たちはマンハッタン島の南端に居住地を作り、本国の首都の名を借りてニューアムステルダムと命名した。


Epsode 歴史上最大のバーゲン?
 ニューネーデルラント植民地の総督としてこの地に来たピーター=ミュイットという人物は、1626年5月6日、先住民と取引し、60ギルダーのナイフ、ガラス玉などで、マンハッタン島を買い取った。60ギルダーは24ドルにあたるので、この「24ドルでマンハッタン島を買った」という話は、歴史上最大のバーゲンなどと言われ、面白おかしく語り継がれた。…

 

英蘭戦争
 イギリスはすでに1607年にヴァージニアへの植民を開始しており、その勢力を東海岸全域にひろげようとして、ニューアムステルダムの領有権を主張した。1664年にイギリスの国王チャールズ2世の弟ヨーク公(後のジェームズ2世)の命令で派遣されたフリゲート艦4隻が現れると、抗戦を叫ぶオランダ総督の命令を無視して、町の人びとはすぐに降伏してしまった。
 オランダはただちにイギリスへの報復として1665年の第2次英蘭戦争(1665~67年)が始まった。この第2次英蘭戦争では、海軍力を増強したオランダ海軍が、名提督デ=ロイテルの活躍もあって、イギリス海軍は手痛い敗北を喫した。一時はテムズ川をさかのぼったオランダ海軍がロンドン港を封鎖するなどの打撃を与えた。


敗れたイギリス、スリナムとニューアムステルダムを交換 

 その結果、1667年にイギリスとオランダの間でブレダ条約が締結され、

敗れたイギリスは南米大陸のイギリス領スリナムをオランダに譲った。

オランダはニューネーデルラントの価値を認めていなかったので、そのままイギリス領とすることを認めた。

ニューファンドランド
北米大陸東岸、現在のカナダの一部となっている大きな島と付近一帯をいう。1497年、イギリスのカボットが到達。タラ漁の漁場として重要。16世紀以来フランスが進出、スペイン継承戦争=アン女王戦争の結果、1713年、ユトレヒト条約でイギリス領となる。後に自治領となる。

印紙法
1765年にイギリスが北アメリカ大陸の13植民地に対して制定した、証書、証券類、酒類販売許可証、パンフレット、新聞、広告、暦、カルタなどに最高10ポンドの印紙をはることを定めた法律。(大学の卒業証書にも2ポンド課税された。)

特定の業種・階層の人々だけでなく、あらゆる社会階層に影響を与え、言論・出版の自由を制限する事になるので、反対運動が急速に広がった。  イギリス本国のジョージ3世のもと、国王の宣言が出されて以来、アメリカ植民地に対する課税を強め、前年の1764年には砂糖法を出していたが、この印紙法でも強い反発を受けることになった。


「代表なくして課税なし」の声起こる
 印紙法案は本国議会を通過して3月22日に制定され、11月に実施される事になったが、

8月になって植民地側で反対の動きが強まり、印紙販売人が襲撃されるなどの反対運動が起こった。
 イギリス本国政府による印紙法の押しつけに対する反対運動は、植民地の抵抗運動を一段と強めただけでなく、質的な変化ももたらした。ひとつは、抗議運動が植民地の枠を越えて拡がったことであり、10月には植民地13州の議会が連帯して印紙法会議を開催した。そこで、「代表なくして課税なし」というイギリス議会の原則に照らし、植民地代表のいないイギリス議会には植民地への課税することはできないと決議し、印紙法の撤廃をイギリス政府に請願した。この正当な抗議を受けて、イギリスは翌1766年、印紙法を廃止にせざるを得なくなった。

 

【代表なくして課税なし】No taxation without representation 

印紙法(条令)に反対するヴァージニア植民地議会で、1765年5月29日、パトリック=ヘンリが提案し、決議された。植民地人は本国人と同等の権利を有する事、「代表なくして課税なし」はイギリス憲政の本質である事、ヴァージニアに課税する権限を持っているのはヴァージニア議会だけである事、など7項目があった。決議は東部の特権的プランターの反対があったが22対17、20対19(項目ごとに採決)などの小差で可決された。ヘンリは奥地プランターの利害を代表していた。1765年のこの決議が「革命への信号」となった。<今津晃『アメリカ独立革命』至誠堂 p.42> → 1775年のアメリカ独立戦争

 

タウンゼント諸法
 1767年、イギリスの蔵相タウンゼンドが提案した、アメリカの13植民地に対して示した植民地規制法の総称をいう。
ニューヨーク植民地議会の立法権の停止(制裁条令)
ガラス・鉛・ペンキ・紙・茶の輸入への課税(歳入条令)
本国大蔵省直属の税関局をボストンに設置(密輸取締強化)
 これに対し植民地側は、本国製品不輸入協定で対抗した。またドーターズ=オブ=リヴァティーの女性達はアメリカ製品愛用運動に立ち上がった。その結果、タウンゼンド歳入条令は茶税を残して1770年4月に撤廃された。その後も植民地への課税を強化しようとしたイギリス本国政府は、1773年に茶法(茶条令)を制定、それに対する反発から1775年のアメリカ独立戦争が開始される。

 

茶法Tea Act 茶条令ともいう。

イギリス本国がアメリカ植民地に対して出したタウンゼント諸法以来、茶輸入に課税されていた植民地側が、対抗上オランダからの茶を密輸入するようになったため、以前から経営難に陥っていた東インド会社は打撃を受けた。 → 世界史の中の茶
ボストン茶会事件が起きる
 そこでイギリス政府はは1773年4月に茶法を制定し、東インド会社を救済するため、会社手持ちの茶を、イギリス仲買人を経ずに植民地に直売し(密輸茶より安い価格で販売できるようにし)、植民地の茶市場の独占を認めた。植民地側は茶の密輸業者だけでなく、一般貿易商、消費者も、東インド会社による商品市場の独占につながるとして激しい反対運動を展開し、1773年12月にボストン茶会事件が引き起こされ、それをきっかけにアメリカ植民地人の独立の声が強まり、1775年4月のレキシントンの戦いからアメリカ独立戦争が始まる。

 

大陸会議 Continental Congress 


第1回大陸会議 フィラデルフィア
イギリスの強圧的諸条令に対してアメリカ植民地の12の代表(13植民地の中のジョージアをのぞく)が、1774年9月、フィラデルフィアに集まって開催され、その後、独立革命の最高の連絡会議となったもの。3分の1は反英感情が強く、独立を求める愛国派(パトリオット)、3分の1はイギリス王室への忠誠心が強く、独立には反対している国王派(ロイヤリスト)、残りが中間派という構成であり、最初から独立を志向したわけではなかった。
 しかし愛国派の主張によって「宣言と決議」で植民地に対するイギリスの議会の立法権の全面的否定と、イギリスとの不輸入、不輸出、不消費を守るための「大陸通商断絶同盟」結成を宣言した。参加者の中にはヴァージニアのジョージ=ワシントンとパトリック=ヘンリ、マサチューセッツのサミュエル=アダムズ、ジョン=アダムスなどがいた。


大陸会議の意義
(引用)第一回大陸会議で採択された「宣言と決議」は、前文で明記されたように「北アメリカでのイギリス植民の住民」の宣言と決議であり、独立をうたったものではない。それにもかかわらず、「宣言と決議」は植民地に対するイギリス議会の立法権を全面的に否定し、あわせて「不輸入、不輸出、不消費」同盟、つまり大陸通商断絶同盟(コンチネンタル・アソシエイション)として知られる大経済同盟の結成を宣言した。<今津晃『アメリカ大陸の明暗』世界の歴史14 河出書房 p.154>
 第一回大陸会議で1774年10月に、12植民地(後にジョージアが加わり13となる)で、アソシエイション(同盟)を結成し、はじめて集合体(union)となったことは、アメリカ独立の重要な1ステップであった。翌年4月の独立戦争の開始、5月の第2回大陸会議を経て、1776年の独立宣言へと進んでいくこととなる。

 


第2回大陸会議もフィラデルフィア
 1775年4月に本国軍と植民地民兵が武力衝突し、アメリカ独立戦争が始まったことを受けて、1775年5月10日、フィラデルフィアで第2回大陸会議が開催され、13植民地の代表は、「武力抵抗の理由と必要の宣言」を採択、アメリカ連合軍を創設し、ワシントンを総司令官に任命した。
独立宣言を採択 さらに、ワシントン軍はボストンに向かい、ヨーロッパ諸国と外交関係を結ぶために外交使節の派遣と戦争遂行に必要な紙幣の発行を決めた。7月、フランクリン(ペンシルヴァニア代表)が「連合の規約と永久の連合」案を作成した。次いで1776年に、ジェファソンが起草した独立宣言を採択した。
アメリカ合衆国の成立 独立を宣言したものの、当初は中央政府は無かったので、大陸会議が中央政府の役割を担った。1777年には最高規定としてアメリカ連合規約を制定し、各州の批准を経て1781年にそれが施行されてアメリカ合衆国が成立してからは、「連合会議」と呼ばれるようになる。

 

◆らしゅもあ山4人の大統領の彫像。

(左から右へ)ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーン。

独立戦争の経緯
1773年4月の本国政府による茶法(茶条令)制定
1773年12月ボストン茶会事件 

茶法(茶条令)制定に反発したボストン茶会事件が起こったことで直接的衝突へとエスカレートした。

1774 年9月第1回大陸会議を招集 フィラデルフィア

イギリスによるボストン港封鎖・強圧的諸条令と続いた締めつけに反発して、

イギリス製品ボイコットを決定して植民地同盟を結成、両者の緊張が高まった。


1775年4月、開戦

 イギリス軍は植民地人が武器を貯蔵しているとしてマサチューセッツのコンコードに部隊を派遣した。

 警戒していた植民地人は、イギリス軍がレキシントンの町にさしかかったときに一斉に銃撃、さらにボストンに撤退するイギリス軍を追撃してゲリラ戦でその多くを殺した。このレキシントンの戦いからアメリカ独立戦争が始まった。

 この時の植民地側民兵は、服装もまちまちで、銃一丁を手に、数分で戦う準備ができたので、ミニットマンと言われた。


1775年5月、第2回大陸会議フィラデルフィア

 ワシントン司令官に就任 。

ワシントンの率いる独立軍には植民地人が民兵として参加し、急きょボストンの救援に向かい、バンカーヒルの戦いでイギリス軍と衝突した。民兵はよく戦ったが、組織的な戦いができず、また弾薬が不足したため押されるようになった。各地で起こった植民地軍とイギリス軍の戦いも、次第にイギリス軍が優勢となっていった。


1776年1月トマス=ペイン『コモン=センス』 

 独立軍の苦戦が続く中、トマス=ペインが発表した『コモン=センス』は、アメリカの独立が人間の権利にもとづく正義の戦いであると論じ、多くの植民地人に自信と勇気を与え、彼らが独立戦争に確信を持つことに大きく貢献した。


1776年7月4日、独立宣言 Decralation of Independence  大陸会議(昨年からの第2回が継続されている)にて。

 トマス=ジェファソンが起草し、ベンジャミン=フランクリン、ジョン=アダムズが修正した。アメリカ独立革命の基本文書として最も重要なものである。
 アメリカ独立戦争の二年目にあたる1776年7月2日の第2回大陸会議総会で13植民地の全会一致で決議された。(議員個人の中には反対もいた。)7月4日に再確認(正式に採択)、8日にフィラデルフィア市民に正式発表、翌日ニューヨークのワシントン軍の前で朗読された。
 図は独立宣言への署名の場面。机の前に立っている人びとは、

右からベンジャミン=フランクリン、トマス=ジェファソン、二人おいて左端がジョン=アダムズ。(ジョン=トランブル原画)
 アメリカ独立宣言は、それまでのイギリスの圧政、悪政を告発し、平等、自由、幸福の追求などの基本的人権と圧政に対する革命権を認め、高らかに宣言したもので、アメリカ内部の王党派や、独立に反対する保守派に対して独立戦争の正当性を訴え、結束を強める目的を持っていた。アメリカ独立宣言に盛り込まれた抵抗権・革命権の思想は、17世紀後半のイギリスの思想家ロックにさかのぼる。この人民主権の理念は、独立後に制定されたアメリカ合衆国憲法に継承される。 → アメリカ合衆国
 ところで、アメリカ独立宣言が印刷された紙は、どんな(何でできた)紙だったと思われるでしょうか。 → 

ベンジャミン=フランクリンははじめてイギリスから錫製のバスタブを輸入し、避雷針や二重焦点メガネ、効率的な住宅用ストーブを発明し、自慢の種には事欠かない人物だ。ボストンの敬虔な夫婦の間に10番目の息子として生まれ、アメリカ最初の新聞の一つニュー・イングランド・クーラントを創刊し印刷出版していた異母兄弟ジェームズのもとへ見習いに出された。

しかし兄との関係がきまずくなり、フィラデルフィアへ向かった。17歳のベンジャミンの手もちの金はオランダ・ドル1枚だけだったが、印刷出版業で順調に業績を伸ばすことができた。42歳になって印刷出版業にけりをつけ、行政や外交、科学そして菜食主義に専念した。
(引用)アメリカ革命までの30年間、イギリスの貿易制限に端を発し、両国の関係には不穏な空気が漂っていた。アメリカは数ある輸入品の中でも紙の原料をイギリス産のパルプに頼りきりだった。この状況にやきもきしていたフランクリンは、自社の印刷工場でパルプの代わりにアサを利用する方法を思い立った(ジョージ・ワシントンとトマス・ジェファソンもみずからアサのプランテーションを経営していた)。独立宣言を起草したときには、フランクリンの工場で生産されたアサの紙に書かれたことはまずまちがいない。<ビル・ローズ/柴田譲治訳『図説世界史を変えた50の植物』2012 原書房 p.36>
 合衆国史上、最も有名な文書である独立宣言は、十中八九ベンジャミン・フランクリンの製紙工場で生産されたアサ紙に印刷されたものだ。しかし、現在ではアサ紙が全紙パルプ生産に占める割合はごくわずかになっている

 


独立宣言に欠けていたこと
 独立を達成したアメリカ合衆国の市民とは、ヨーロッパからの白人入植者のことであった。そこには、先住民であるインディアンと、奴隷としてアフリカから連れてこられていた黒人の人権は認められておらず、黒人奴隷も依然として残されていた。

 


苦戦が続く  7月の独立宣言がだされたとき、ワシントン麾下のアメリカ軍は約2万の兵力があった。しかしニューヨークの戦いでは壊滅的な敗北を喫し、年末にはわずか3000に減っていた。多くの民兵は戦いに疲れ、自分の村に逃げ帰ってしまった。

クリスマスの夜、ワシントンは少数の兵士を率いて凍りついたデラウェア川を渡り、対岸のドイツ人傭兵部隊(ヘシアンと言われた)を奇襲して敵を倒して持ちこたえた。大陸会議も、兵士への給料支給と西部の土地の無償提供を約束して兵力の増強を図った。しかし、イギリス軍はアメリカ軍の本拠地フィラデルフィアを占領し、大陸会議は西部に避難、町では王党派による独立派に対する報復が行われ、危機が続いた。ワシントン軍はフィラデルフィアの近郊バレーフォージという小村で飢えと寒さに耐えなければならなかった。


戦局の転換と国際情勢の好転  1777年10月、バーゴイン将軍に率いられカナダから南下したイギリス軍を迎え撃ったアメリカ軍はサラトガの戦いで大勝し、戦局は転換した。

 

(「アメリカ合衆国」の名前は、1776年7月4日に独立宣言が採択された後、1777年に初めて連邦政府の法制文書で使用されました。)

 

それまでフランスはラ=ファイエットのような個人的な参戦の他は、アメリカに対する密かな武器・弾薬の支援にとどまっていたが、このアメリカ軍の勝利を知り、1778年2月、ルイ16世が正式にフランスの参戦を宣言した。これによってこの戦争はヨーロッパでも英仏間の戦争に拡大した。さらに1779年にはスペインが、1780年にはオランダが同じくアメリカ側に参戦し、ロシアのエカチェリーナ2世も武装中立同盟を掲げた。こうして国際情勢はアメリカ独立に圧倒的に有利となった。


独立戦争の勝利  イギリスのコーンウォリス将軍はアメリカ独立の息の根を止めようとヴァージニアのヨークタウンに進攻した。しかしこの地は半島の先端の行き詰まりであった。ヴァージニアの地形を熟知するワシントンは、好機到来とばかり、ニュージャージーから急きょ南下し、ラ=ファイエット指揮のフランス軍も参加して攻撃、さらにフランス海軍がチェサピーク湾の海上からイギリス軍を砲撃した。袋の鼠となったイギリス軍は降伏、この1781年のヨークタウンの戦いの勝利で、アメリカの独立は決定的になった。その後も散発的に戦闘はあったが、事実上独立戦争は終わり、1783年の講和条約であるパリ条約でアメリカは独立を認められ、さらに国境をミシシッピ川まで伸ばすという勝利で終わった。

 

ヨーロッパでは…

ネッケル
18世紀末、フランス・ルイ16世のもとで財務長官として財政改革にあたった銀行家。
特権身分への課税や三部会の議員配分の変更を提案したが罷免され、それをきっかけに1789年の民衆蜂起が起こり、フランス革命が始まった。

 

ポーランド第1回分割
1772年、ロシア、プロイセン、オーストリア三国によってポーランドの一部が分割された。


 1772年、まずロシア(エカチェリーナ2世)とプロイセン(フリードリヒ2世)との間で条約が締結され、オーストリア(ヨーゼフ2世)がそれに加わった。三国から領土分割を迫られたポーランド議会は、若干の反対はあったが、翌年領土割譲を承認した。プロイセンは「王領プロイセン」(1466年ドイツ騎士団がポーランドに譲った土地)を領有し(中心都市グダニスクは除く)、ロシアはリヴォニアとベラルーシの一部を、オーストリアはガリツィア地方の一部をそれぞれ獲得した。これによってポーランドは領土の30%と、人口の35%を失った。


プロイセン王国の一体化 ポーランド第1回分割を行った三人の君主(いずれも2世)が得た領土の面積は、プロイセンのフリードリヒ2世は3万6000平方㎞、オーストリアのヨーゼフ2世は8万2000平方㎞、ロシアのエカチェリーナ2世は9万2000平方㎞であった。プロイセンの取り分が最も少なかったが、フリードリヒ2世にとっては領土の多少は問題ではなかった。これによってブランデンブルク選帝侯国の本領とプロイセン公国がこれによって一体となったことに意味があるのだ。これによって東西に分断されていたプロイセンが、悲願であった地続きの一つの国家、文字どおりのプロイセン王国となったのだった。

ポーランド第2回分割
1793年、フランス革命の最中にロシアとプロイセンの二国によってポーランドの一部が分割された。


・ポーランドの改革 第1回ポーランド分割の後、ポーランド王国では危機感を強め、国政改革を行い、国家の独立を維持しようと言う努力がなされた。1791年には「5月3日憲法」が制定され、シュラフタによる国王選挙と自由拒否権は廃止され、立憲君主制・三権分立・義務兵役制などが定められた。この憲法は、アメリカ憲法に次ぐ早い時期の近代的憲法であった。また、ポーランドの身分制議会の悪弊であった「自由拒否権」を否定して、多数決で議決できるとした。また王位も不安定な選挙王制をやめ、ザクセン家の世襲とされた。さらに土地を持たぬシュラフタは議席を失い、代わりに都市代表が加わった。しかし、この憲法は1年しか持たなかった。
・エカチェリーナ2世の介入 ロシアのエカチェリーナ2世は、新憲法を「フランス革命の伝染病」だとして嫌悪し、大量のロシア軍を送って弾圧した。ポーランド軍は激しく抵抗したが、ポーランド国王はロシアに妥協して停戦、憲法の停止などを約束した。停戦に反対したコシューシコなどの将校は辞任して亡命した。
・プロイセンの分け前要求   プロイセンは1792年9月にヴァルミーの戦いでフランス革命軍に敗れていた。しかし、対仏戦争を続行する代償としてポーランド分割を強硬に要求した。対仏大同盟の結成へと動いていたエカチェリーナ2世はその要求を容れ、オーストリアがポーランド問題に無関心(バイエルン併合の幻想を抱いていた)を表明すると、1793年1月、ペテルブルクでロシア・プロイセンの二国によるポーランド分割協定に調印した。
・沈黙を同意と見なす ポーランドでは第2回分割を承認するかどうかで議会が開かれた。ロシア公使は反対する議員を逮捕し、議場を大砲で包囲した。誰一人として賛成の演説をするものはいなかった。議場は沈黙したまま真夜中まで続いた。議長がついに沈黙は同意の印と見なすと宣言して終了した。
・第2回分割 こうして1793年、ロシア軍の監視下の議会は、ロシアとプロイセンへの領土割譲を承認した。ポーランドはロシアにベラルーシ東半とウクライナの大部分、面積にして25万平方キロと人口300万を、プロイセンにポーゼンとダンツィヒ(グダンスク)を含む5.8万平方キロと人口100万の土地を譲った。残ったポーランド領は20万平方キロの土地に400万の人口に過ぎなくなり、議会は存在するものの招集されないという事実上のロシアの属国と化した。
・コシューシコの蜂起 この第2回分割でポーランドは事実上国家機能を失った。国家消滅の危機に対して、翌1794年、コシューシコらが蜂起したが、期待したフランスの救援が無く、コシューシコ自身も負傷して捕らえられて、鎮圧された。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書 p.52-72>

ポーランド第3回分割
1795年、残された国土をロシア、プロイセン、オーストリア三国が分割しポーランドは消滅した。


 コシューシコが蜂起すると、ロシアのエカチェリーナ2世はプロイセンにも鎮圧の協力を要請し、「隣国で突発した火事を、その最小の火花まで消し去るだけでなく、灰殻から新たに燃えあがる可能性を永遠に取り除くために、近隣三宮廷が隣国を領有するときが来ました」と述べた。反乱を鎮圧したエカチェリーナはポーランド国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキに退位を強く迫り、1795年、ロシア・プロイセン・オーストリアによるでポーランドの最終的分割を行った。
 これによってポーランド国家は完全に滅亡し、政治地図から姿を消すこととなった。その後、ナポレオンによるワルシャワ大公国の建国、ナポレオン没落後はロシアの実質支配の下におかれたポーランド立憲王国の時代を経て、ポーランドが独立を回復するのは、第一次世界大戦後の123年後の1918年のことである。 → ポーランドの独立