【本日のニュース】
▶安倍派幹部に離党要求
▶能登支援 予備費1500億円
▶賃上げ 昨年超えへ
▶困窮者子供へ一時金
▶トランプ氏予備選2連勝
▶スウェーデンNATO加盟へ

 

1月25日(木)
文化放送「#おはよう寺ちゃん」6時台アーカイブ

▼パーソナリティ
 寺島尚正

▼コメンテーター
 #

 

 

当初西ヨーロッパ「ケルト人」

 ハリーポッターなら「ロン」。赤毛でこんなイメージ。こんなひとたちが住んでいたわけだが、

 

ところが民族大移動とかいう前から、ゲルマンがだんだんケルト人を圧迫してヨーロッパに広く住むようになった。

金髪碧眼 狩猟民族。

◆ちなみにローマはラテン人。栗毛で瞳が黒い ざっくりそんなイメージ。

封建的主従関係

中世ヨーロッパの封建社会の軸である、領主間の土地を仲立ちとした保護と服従の関係。
授封
臣従礼
 家臣は主君に対して隷従し、従軍などの軍役を奉仕する。

 主君は家臣に封土を与え、保護する義務を負う。

このような、土地を仲立ちとした主従関係を封建的主従関係という。

この関係は双務的な関係であり、また重層的である。

 国王は最大の封建領主として有力な家臣を諸侯として広大な土地を与え、諸侯もそれぞれ家臣(騎士)を持つ。

家臣もさらに下級の家臣と主従関係を結んでいる。

 

 主君と家臣は主従関係を結ぶ際、叙任式(オマージュ)という儀式を行った。

家臣はひざまずいて忠誠を誓い、主君は家臣に剣をあたる、という儀式で主従関係を象徴させていた。このような封建的主従関係(レーエン制ともいう)は、ローマ時代の恩貸地制度と、ゲルマン社会の従士制が結びついて形成されたと考えられ、国家による保護と言うことがなくなった中世社会に特有の社会関係である。

 

従士制
ゲルマン社会の有力者と従者の関係。ローマの恩貸地制と結びついて封建的主従関係が生まれた。

 ゲルマン社会に見られた、貴族や自由民の子弟が、有力者の従者となり、奉仕するかわりに馬や衣食を支給される制度。ここでは土地の給与はなかったが、フランク王国の時代に、ローマ時代の恩貸地制度と結びついて、土地を仲立ちとする封建的主従関係(レーエン制)が形成されたと考えられる。

 

 

主君(右)が臣下(左)の手を自分の両手でつつみ、臣下の誠実を受けている。臣下の三本の手は一つは自分をさし、他の二本は与えられた封土(穀草で象徴される)をさしている。

下図は、聖職者(司教、修道院長)に対する笏による授封(左)と諸侯に対する旌旗による授封(右)の違いを示している。<堀米庸三編『中世ヨーロッパ』世界の歴史3(旧版)中央公論社 p.98>
双務的契約関係

 双務的とは、主君と家臣の双方がいずれも義務を負うことであり、その関係がそれぞれの利害にあったとき、契約として結ばれることを言う。つまり、家臣は一方的に主君に対して従軍などの義務を負うのではなく、主君も家臣を保護するという義務を負っている。家臣は主君が十分自己を保護することが出来ないと考えれば、契約を解除することも出来る。契約がある以上、双方ともその義務を守る誠意を持たなければならない。またその関係は一対一ではなく、一人の家臣が複数の主君と契約することもあり得た。日本の「家臣は二君にまみえず」というのとはちがい、ドライな契約関係であった。

 

◆昭和女子大学2022

アウグスティヌス
4~5世紀、西ローマ時代、北アフリカで活動した教父。

『告白録』『神の国』などを著し、ローマ=カトリック教会の理念を確立させ、中世以降のキリスト教に多大な影響を与えた。

『告白録』

キリスト教への回心の経緯をつづった

『神の国』

ローマ帝国の国教となったキリスト教を、国家に奉仕する宗教としてではなく、この世に「神の国」を出現させるものとして教会を位置づけ、教会の恩寵を説き、その典礼を定めたもので、世俗の国家に超越する「教会」(ローマ教皇を中心とした聖職者の組織)という中世ヨーロッパのもっとも根幹となる思想の原型を造ったと言える。

 

 

クローヴィスは、496年、アタナシウス派に改宗した。

トゥール・ポワティエ間の戦い
732年、ピレネーを越えて侵攻したイスラーム軍をフランク王国の宮宰カール=マルテルが撃退した戦い。

ピピンの寄進
 754年、ローマ教皇ステファヌス2世は、カロリング朝フランク王国を承認し、フランク王国は新たなローマ教会の保護者としての役割を期待されることになった。ピピンはその期待に応えて、北イタリアに遠征して、

ローマ教会を圧迫していたランゴバルド王国からラヴェンナ地方を奪い

756年にローマ教皇に寄進(ピピンの寄進)した。これはローマ教皇領の始まりとなる、

ローマ=カトリック教会の基盤が安定したことを意味していると同時に、これによってカロリング朝フランク王国を保護者として結びついたことが完全なものになり、ローマ教皇はコンスタンティノープル教会などに対する優位を確立することとなった。

 

 カールの遠征、フランク王国の領土拡大。

南方では774年にランゴバルド王国を征服、北イタリアを併合し、

西方ではイベリア半島のイスラームと戦い、ピレネーを越えてエブロ川まで領土を広げ、スペイン辺境伯を設置した。

東方ではドイツのザクセン人、バイエルンなどを従え、

796年にはパンノニア(現ハンガリー)に遠征軍を送り、アジア系のアヴァール人を討ち、その勢力を東方に拡張した。

 その最大領土は、大陸の西ヨーロッパほぼ全域に及んだ。オットー1世はマジャール人を撃つ。

 

アヴァール人
モンゴル系民族で、6世紀にパンノニア(現ハンガリー)に侵攻。東ヨーロッパに勢力をひろげビザンツ帝国を圧迫した。

796年、フランク王国のカール大帝によって滅ぼされた。。

マジャール人
ウラル語族に属し、西進してヨーロッパに侵攻、東フランクのオットー1世に敗れ、パンノニアに戻って定住し、キリスト教化。11世紀にハンガリー王国となる。現在のハンガリーも自らはマジャールと言っている。

(両方とも同じパンノニアのハンガリーにいるが

 アヴァール人は北匈奴っぽくてでもカール大帝にやられて、

 その後マジャール人(プーチンみたいなスラブ系?)がパンノニアにも入ったりして、そのあたりも拠点にして

 ヨーロッパ脅かしていたんだが、オットー1世にブロックされてパンノニアに帰りましたみたいな感じかな)

 

チェック人/チェク人/チェコ
西スラヴ人の一系統。チェコ人のこと。10世紀にベーメン(ボヘミア)王国を形成。神聖ローマ帝国以来、ドイツ・オーストリアの支配を受けることが多かったが、19世紀に民族運動が強まり、1919年、スロバキア人とともにチェコスロバキア共和国として独立。ナチスドイツの支配を受けた後、社会主義国として独立したが、1992年、チェコスロバキアが分裂、チェコ共和国が成立した。

 スラヴ人の中の西スラヴ人に属し、現在のチェコ(ボヘミア地方・モラヴィア地方)を構成する主要民族。東隣のスロヴァキア人と初めは未分化で、6世紀に現在のチェコとスロヴァキアの地に移住してきた。アヴァール人の支配を受けた後、フランク王国の勢力下に入ったが、7世紀に、「モラヴィア王国」という西スラヴ人最初の国家を建設するとその勢力下に入った。モラヴィア王国は906年、マジャール人の侵入によって滅亡した。その後、マジャール人(ハンガリー王国)の支配に入った人々はスロヴァキア人となり、東フランク(ついで神聖ローマ帝国)の支配下に入った人々がチェック人と言われるようになる。チェック人は神聖ローマ帝国のもとで、ベーメン(ボヘミア)王国を形成していく。
 → プラハ  フス戦争  ベーメンの反乱  ベーメン民族運動  パラツキー 

フス戦争が起こるくらいだから、元はカトリックがメインかな。

 

 

◆オットー1世

オットー1世(大帝)
東フランク王国ザクセン朝の王。マジャール人を撃退。イタリアに遠征して、962年に戴冠しローマ皇帝となる。

後に神聖ローマ皇帝初代とされ、オットー大帝と言われる。

ちなみにザクセン公国はこのへんらしい。ウィキペディア。ブレーメンとかね。

英アングロサクソンとかいうくらいだからこの辺でもいいのかなと思うのだけど。

 

ただCHATGPTでザクセンを尋ねると

現代のドイツの北西部、ニーダーザクセン州、ザクセン=アンハルト州、メクレンブルク=フォアポンメルン州などに相当します。ザクセン地方は中世において、重要な政治的・文化的な中心地の一つでした。

といってて、これはライプツィヒの東南、中世にはザクセン選帝侯領として知られ、後にザクセン王国(Kingdom of Saxony)当たりとかいわれて場所がわかりにくい。イタリア遠征いくくらいだから、こっちがメインかなと思う

いろいろ読んでいても「オットーは留守がち」みたいなことをいってるので、

イメージは南部のこっちにしておいたほうがいいのかな?

 

 

◆ノルマン人

ノルマン人/第2次民族大移動
ゲルマン人の一部のノルマン人が、9~11世紀に北ヨーロッパから各地に移動を行い、中世社会に大きな変化をもたらした。


 ノルマン人はインド=ヨーロッパ語族のゲルマン人に属し、スカンディナヴィア半島やユトランド半島(デンマーク)で、狩猟や漁労に従事し、造船や航海術にたけた民族だった。4~6世紀のゲルマン人の民族大移動の時期には北ヨーロッパに止まっていたが、8世紀ごろから人口増加は始まり、9世紀になるとさかんに海上に進出して海賊を兼ねながら交易に従事するようになった。このような9~11世紀のノルマン人の移動は、第2次民族大移動ともいわれている。
ヴァイキング

 彼らは、フランク王国の分裂に乗じて、海岸を荒らし回り、さらに底の平らな船で川を遡り、内陸深く侵入して掠奪を重ね、とくに西フランクでは大いに恐れられた。西フランク王国から奪った女性や子供を、遠くイスラームに奴隷として売り飛ばし、イスラームから多量の貨幣を得ていた。(現在もバルト海の島々の遺跡から、アッバース朝のバグダードで鋳造された貨幣が大量に出土する。)そのような一面から彼らはヴァイキング(入り江の民、の意味)と言われ恐れられた。 → 北欧諸国 民族移動
ノルマン人の活動範囲

 ノルマン人の民族移動は海上活動によるものであったので、非常に広範囲に及んでいる。彼らの主な移動先は次のようにまとめることができる。

 

ノルマンディー/ノルマンディー公国(ロロ)
ノルマン人がフランスの北西部に移住し定着した地域。911年、カペー朝より公国と認められた。

ノルマン人はさらに1066年、イングランドを征服し、1130年には南イタリアにシチリア王国を建国した。

 

➡両シチリア王国

ノルマン人がシチリア島と南イタリアに進出して建設した国。1130年にルッジェーロ2世がパレルモで即位、ナポリを中心とする南イタリアも制圧した。シチリアと南イタリアはその後、分離統合を繰り返し、

15世紀中頃と19世紀の中ごろの二度、正式に両シチリア王国と称した

 

 

スカンジナヴィア東側、現在のスウェーデンにいたノルマン人の一部のルーシは、

リューリクに率いられてバルト海を渡ってスラヴ人地域に移動し、スラヴ民族と同化しながらロシア国家のもとをつくる。

ちなみにドニエプル川は…もっと南。

 

デーン人/デーン朝
デンマークを拠点としたノルマン人で、9世紀に盛んに征服活動をおこない、一部はブリテン島に侵攻し定住した。1016年にはクヌート王がイングランドを征服し、デーン朝を建てた。


スカンジナヴィア西側、現在のノルウェーにいたノルマン人は北大西洋を横断してアイスランド、グリーンランドに進出、一部は北アメリカ大陸にも達していた。 → ノルマン人のアメリカ大陸到達


 ノルマン人は征服活動を展開したが、その地の先住民の文化と同化し、ノルマン人としての個性を維持することは少なかった。

 

 

◆カノッサの屈辱


ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝との聖職叙任権を巡る対立から起こった事件。

1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が破門を恐れてローマ教皇グレゴリウス7世に許しを請うた事件。ハインリヒ4世にとっては屈辱であったが、結局グレゴリウス7世は皇帝の聖職叙任権否定を認めさせたうえで破門を取り消した。その後も皇帝と教皇の対立は続いたが、11世紀末にはローマ教皇権の確立に向かっていく。

 

これと反対のやつ。

ボニファティウス8世
ローマ教皇。聖職者に課税しようとしたフランス王フィリップ4世と争い、

1303年、アナーニ事件で屈辱を受け、憤死した。ローマ教皇権衰退の始まりを示す事件と言われる。

 

◆12世紀ルネサンス

ピサ大聖堂 左の建物

ピサは、地中海に面した港市。ジェノヴァなどと並び、地中海貿易で繁栄した。ピサ大聖堂は、イタリアを代表するロマネスク様式の建築。11~12世紀に建造されたもので、大聖堂と付属する斜塔が有名。

 

ロマネスク様式 右はクリュニー修道院 下ヴォルムス教会堂

厚い壁と小さな窓、円形アーチ。ロマネスク建築は修道院の建築様式として発達したもの


 

◆ビサンツ様式 アヤソフィア ドームとモザイク画による装飾。右はゴシックのケルン大聖堂

ボローニャ大学(左)
11世紀に遡るイタリアで作られたヨーロッパ最古の大学。法学で有名。

 

パリ大学/ソルボンヌ(右)
1200年に開設された大学で、ソルボンヌといわれる。神学研究では最高峰とされ、多くの高位聖職者を排出した。

アベラール/アベラルドゥス
12世紀フランスのスコラ哲学者で唯名論者。

 12世紀のフランスのスコラ学者。ラテン名アベラルドゥス。普遍論争においては唯名論者とされるが、厳密には実在論と唯名論を調停する説を主張した。(唯名論を主張した人物としてはロスケリヌスがいる。)

アベラールは、「普遍は実在性をもつが、ただ個の中に(個に即して)のみある」と主張した。
Episode アベラールとエロイーズの恋
 アベラールはスコラ神学者として名高いが、実生活は波乱に富んだ一生であった。彼が家庭教師をしていたエロイーズと恋仲となり、子供が生まれ、密かに結婚したが発覚し、エロイーズは女子修道院に入れられ、アベラールは去勢されたうえでサン=ドニ修道院に入れられた。二人の間に交わされた書簡は、真実の愛の言葉を交わされており、古典文学の一つとなっている。

 

◆ 

アルクィン カロリング=ルネサンスの人。
8世紀のイギリス出身の神学者。カール大帝のアーヘンの宮廷でラテン語の教育にあたる。

 8世紀のイギリス、ヨークに生まれ、教会で教育を受け神学者となる。781年、ローマからの帰路、パルマでフランク王国のカール大帝と会い、そのまま大陸にとどまり、そのアーヘンの宮廷でラテン語の教育や聖書の講義やカロリング小字体の作成などに従事して、カール大帝のアーヘンの宮廷でラテン語の教育にあたる。

 8世紀のイギリス、ヨークに生まれ、教会で教育を受け神学者となる。781年、ローマからの帰路、パルマでフランク王国のカール大帝と会い、そのまま大陸にとどまり、そのアーヘンの宮廷でラテン語の教育や聖書の講義やカロリング小字体の作成などに従事して、いわゆるカロリング=ルネサンスの中心人物となった。彼が目ざしたことは、ラテン文明(古典文明)とキリスト教を調和させることであり、その活動によってラテン文明・キリスト教・ゲルマン文化という中世ヨーロッパ文化の要素が統合されたと言える。の中心人物となった。彼が目ざしたことは、ラテン文明(古典文明)とキリスト教を調和させることであり、その活動によってラテン文明・キリスト教・ゲルマン文化という中世ヨーロッパ文化の要素が統合されたと言える。

 

ロンバルディア同盟
北イタリアの都市が皇帝に対抗するため結成した同盟。1176年には皇帝フリードリヒ1世の軍を破る。

 ロンバルディアは北イタリアのポー川流域の一帯を指し、かつてランゴバルド王国が支配した地域を言う。この地には11世紀ごろからミラノをはじめとする自治都市(コムーネ)が形成されていたが、12世紀には神聖ローマ皇帝(ドイツ)のイタリア政策による干渉が激しくなり、特にフリードリヒ1世(赤髯王、バルバロッサ)は1158~78年にかけて4回イタリア遠征を行い、1162年にはミラノを破壊した。

 

◆百年戦争

王位継承問題:フランス王国のカペー家の王位が断絶した際、ヴァロワ家のフィリップが立ったのに対し、

カペー家出身の母をもつイギリス王エドワード3世が王位継承を主張した。これは開戦の口実という意味が強い。

 

1346年のクレシーの戦い

 イギリスの歩兵部隊がフランスの騎士軍を破り、戦術の転換によるイギリスの有利な戦いが明白となった。

1347年はイギリス軍がカレーを占領し、長く支配することになる。

1356年のポワティエの戦いでもエドワード黒太子の活躍でイギリス軍が勝利した。

こんなのではないが、とにかくエドワード黒太子は黒鎧だから黒太子(the Black Prince)

1348年に全ヨーロッパに広がった黒死病(ペスト)、

 英仏両国に大きな打撃を与え

 1358年にはフランスでジャックリーの乱、

 1381年にはイギリスでワット=タイラーの乱

   という農民の反封建闘争が激化し、両国とも社会不安を増したため、戦争は長期化した。


1428年、イギリス軍のオルレアン包囲 

 シャルル7世は、ブルゴーニュ派に抑えられているパリには入れず、ブールジュを拠点としていたが、

 イギリスの攻撃を避け、各地を転々とした。

イギリス軍はフランス中部の要地でオルレアン・アルマニャック派の拠点であるオルレアンに対する総攻撃を開始、

シャルル7世にはオルレアン救出の手立てが無かった。(ニューオーリンズのオーリンズはオルレアン)

 

ジャンヌ=ダルクの登場 

このときドンレミ生まれの一人の少女ジャンヌ=ダルクが、神のお告げがあったとして、

1429年2月にシャルル7世とシノン城で面会、オルレアン解放のため立ち上がることを促した。

その言葉に動かされたシャルルは軍を起こし、ジャンヌがその指揮に加わり、

4月末にオルレアンに入り、守備隊と共にイギリス軍と戦い、1429年5月8日にはオルレアンの解放に成功した。


戦争の結果,イギリスはカレーを除くフランス全領土から撤退した。

 

ジェントリ

 イギリス中世末期、中小の封建領主層であった騎士がが地方に土着して「地主(gentry)」となったものをいう。gentry とは「郷紳」とも訳され、身分的には「平民」であるが比較的豊かで、「貴族(nobility)」の次の階級にある地方の名士であることが多い。

 農村の生産者層であるヨーマン(yeoman)(独立自営農民)よりは上の身分に位置する。

 つまり、「貴族より下で、農民よりは上の社会層」と言われる。


絶対王政を支える
 ジェントリの中で上位を占めるのが、騎士(knight)である。騎士は本来は文字通り軍事的な職掌の称号であったが、13世紀には年収20ポンド以上の収入のある自由人は騎士と言われるようになっており、実質的には地主である。

 彼等は1295年の模範議会以来の議会に州ごとに2名ずつ選出されて参加した。

1330年代に下院(庶民院)が成立すると、都市代表とともにその多数を占めるようになる。

特に彼らは無給の名誉職として地方の行政や裁判にあたる治安判事に任命され、王政を支えた。

 

下院/庶民院
 イギリス議会制度の発達の中で、1330年代に、各州の代表である騎士(富裕なジェントリが騎士といわれた)と都市の市民の代表からなる議院として成立した。庶民院(House of Commons)ともいう。

国王の課税を承認する代償として、法律を上院(貴族院)に請願する権限をもつ機関として次第に重要性を増し、

ピューリタン革命・名誉革命では革命の中核としてその存在意義を高めた。