◆おまけ「あずまんが大王」

 

須田慎一郎「自民党森山派も解散へ、6派閥中4派閥が解散方針」「米大統領選、トランプ前大統領」「春闘スタート、連合の目標5%の引き上げなるか?」1月25日

 

 

 

(テーマ 2世紀の世界・札幌大学2022参考)

 

【2世紀の世界地図】

後漢とローマ帝国

ローマ➡パルティア➡クシャーナ➡後漢(匈奴対策に長城) 扶南 チャンパー

   ➡クシュ➡アクスム サータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)

 

オアシスの道(シルクロード) 

サマルカンド
ソグド人の商業活動の中心地として栄えた中央アジアの都市。

前329年、アレクサンドロス大王の東方遠征軍がこの地に至ったことが知られている。

チンギス=ハンに破壊されたが、ティムールによって復興され、

その帝国の都となった。現在はウズベキスタンの第二の都市として歴史遺産を有する文化都市となっている。

ローマはパクスロマーナ

後漢は西域進出

 前漢

(張騫)
  前漢の武帝が匈奴を挟撃するため西方の大月氏に派遣した使者。匈奴に捕らえられながら脱出し、13年かかって帰る。

  大月氏国との同盟はならなかったが、大宛など西域に関する多くの情報をもたらした。第2回の遠征では烏孫の到達した。

(司馬遷)
 前漢の武帝時代の官僚。歴史家で『史記』を著述した人。
(前99年、友人の李陵が匈奴ととの戦いで捕虜となったことを、武帝の前で弁護したために、

 その怒りをかい、宮刑に処せられた。出獄後も執筆に専念し、前91年ごろ、『史記』一三〇巻を完成させた。)

中島敦『李陵』

 

 後漢(班超)甘英
後漢の武将。西域都護として西域経営にあたった。部下の甘英をさらに西方に派遣した。
 匈奴の討伐 西域都護に任じられ、西域経営に当たった。
 班超は『漢書』の著作者として知られる班固の弟。

 

◆パルティア/アルサケス朝パルティア
 前3~後3世紀。前238年、族長アルサケスが即位してアルサケス朝を開いた、

 イラン系遊牧民がセレウコス朝シリアから自立し、イラン高原に建国した国家。

都 ヘカトンピュロス(イラン北部、カスピ海やや南)

 ➡前1世紀中頃のオロデス2世は、ティグリス川に面したクテシフォンに遷都。

 

  シルクロード交易を通じて安息国として知られていた。(東西交易でウハウハ!)

 パルティアは長期にわたりローマと対抗し、しばしばその侵攻を撃退したが、

次第に国力が衰え、226年、農耕系イラン人のササン朝に滅ぼされた。

 

◆クシャーナ朝 宗教に寛大

 中央アジアの大月氏国の支配を脱した同じイラン系民族のクシャーナ族。
1世紀頃、イラン系民族(パルティアと同じくイラン系)が北西インドを支配して建てた王朝。

 メインはインダス川だが、領域は東はインドガンジス川中流域まで。

 東西貿易ルートを抑え、2世紀ごろ全盛期となった。

 

カニシカ王は仏教を保護し、そのもとでガンダーラ美術が栄えた。

(だから…都はガンダーラ地方のプルシャプラ(現在のペシャワール))

ナーガールジュナ/竜樹
クシャーナ朝時代の僧で大乗仏教思想を大成した人物。中国名を竜樹。

 

 

(注 

カーリダーサ
グプタ朝のチャンドラグプタ2世時代の宮廷で、『シャクンタラー』などを著したインドを代表する詩人。)

 

メモ

 マウリヤ朝は前3世紀にガンジス川流域に興ったインド人の国家であるが、

 クシャーナ朝は後1世紀ごろバクトリア方面から北インドに入ったイラン系国家(次第にインド化したが)

 また、クシャーナ朝の支配は南インドには及ばなかった。南インドはサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)

 

◆東南アジア

扶南
 紀元後1世紀末ごろ、メコン川下流に生まれた王朝。港市国家の一つ。民族系統は不明。

 オケオ遺跡の発掘でインド、ローマ帝国、後漢などとも交易し、繁栄していた。

(7世紀にクメールによって滅ぼされた。)

港市国家
 南インド、東南アジアの海岸部で港市を中心に交易で発達した国家形態。

 インド洋貿易(季節風貿易)

 

2C➡3C

◆ローマ パクスロマーナから五賢帝➡軍人皇帝時代へ。

◆後漢。 豪族や宦官

 黄巾の乱
後漢末の184年、太平道などの教団の指導した農民反乱。鎮圧後、動乱は全国に広がり、三国時代へと移る。

後漢の末期の184年に起こった大農民反乱。

 生活に苦しむ農民を扇動したのは、張角の唱えた太平道という新興宗教であった。

張角は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子にあり、天下大吉」をスローガンにして甲子の年(西暦184年)の3月5日に反乱を起こした。蒼天とは後漢王朝を意味し、黄天は「太平道」の信奉する神であった。

彼らは「黄天」を象徴する黄色の頭巾を巻いて印としたので黄巾の乱という。


宗教運動から農民反乱へ
 河南省を中心とした反乱は河北省に及んだ。後漢政府は当時「党錮の禁」で捕らえていた党人(宦官と対立していた官僚たち)を許し、党人と農民反乱が結束することを防いだ上で、豪族の協力を得て12月までに黄巾の乱を鎮定した。その後も散発的な反乱が続いて中央政府の威信はなくなり、各地の有力豪族が自立して、動乱の時代に入る契機となった。  → 後漢の滅亡 

 

◆パルティアも衰え ササン朝ペルシアに滅ぼされる。