1951 年、ソニー クロフォードとデュアン ジャクソンは、テキサス北部の衰退する石油の町、小さなアナリーンに住む高校 3 年生で友人でした。デュアンは町で一番裕福で一番美しいジェイシー・ファローと付き合っている。ソニーはガールフレンドのシャーリーン・ダグスと別れる。彼は密かにジェイシーに恋心を抱いている。

クリスマスのダンスの席で、ジェイシーはレスター・マーロウから、デュアンより将来有望と思われる裕福な青年ボビー・シーンの家でのスキニーディッピング・パーティーに招待される。同じパーティーで、ソニーは高校時代のコーチの落ち込んでいる中年の妻、ルース・ポッパーにキスをする。ジェイシーはデュアンに嘘をつき、結局スキニーディッピングパーティーに行き、飛び込み台の上でストリップショーをすることになる。ボビーは後に彼女に言い寄るが、まだ処女の女の子とはセックスしないと言う。

デュアンとソニーを含む少年たちのグループは、精神障害のある若い友人ビリーを売春婦に連れて行き、処女を失います。女性は激しく不平を言い、ビリーが車から降りると鼻血が出ていた。グループがビリーを家に連れ帰ると、地元の実業家サム・ザ・ライオンはグループによるビリーの扱いに激怒する。彼らは自分たちの行動を説明しようとしますが、サムはアナリーンの唯一の娯楽源であるビリヤード場、映画館、カフェなど、彼のビジネスにグループが立ち入ることを禁止します。その後、サムはソニーが実際にビリーの世話をしていることに気づき、チーズバーガーを食べるためにソニーをカフェテリアに戻します。

大晦日の週末、デュアンとソニーはメキシコへロードトリップに出かけます。出発する前に、サムは自分にもまだ仲間になれる体力が残っていたらいいのにと思い、二人が楽しめるように追加のお金を渡します。2日後、少年たちは二日酔いで疲れて戻ってきて、サムが脳卒中で急死したことを知る。サムの遺言では、映画館は売店を経営していた女性に、カフェはジュヌヴィエーブに、1,000ドルは説教師の息子ジョー・ボブ・ブラントンに渡された。そしてビリヤード場からソニーへ。

ジェイシーはボビーに自分を自由なサークルに受け入れてもらいたくて、ついにデュアンをモーテルの部屋に誘いセックスをするが、デュアンは勃起することができない。彼女はデュアンに腹を立てますが、彼らは再び試みます。その後、彼女は電話でデュアンと別れました。その後すぐに、ジェイシーはボビーがすでに別の女性と結婚していることを知ります。退屈と拒絶感から、ジェイシーは父親の下で働き、母親の恋人でもある荒くれ職長のアビリーンとセックスしてしまう。行為の後、アビリーンはジェイシーを家に残し、彼女に対して残酷なまでに冷たい態度をとります。家に入ると、ジェイシーは母親に捕まえられ、泣き始めます。二人とも男性の残忍さについて不平を言い、ジェイシーの父親がいかに優しいかについて言及します。

デュアンは別れの悲しみと怒りがまだ消えず、街を離れ、気まぐれに都合よく帰ることができないほど遠く離れたテキサス州の町、オデッサの油井で荒くれとして働き始める。その後、ジェイシーはソニーに目を向けます。ソニーは何も言わずにルースを捨て、真実の愛者と結婚することを夢見始めます。デュアンは休暇で帰国し、真新しいマーキュリーを運転するが、ジェイシーを巡ってソニーと口論になり乱闘になり、友人たちが路上で喧嘩して倒れる中、ビール瓶がソニーの左眉毛に打ち付けられる。騒動は地元住民らによって解散され、ソニーは入院する。ソニーが回復している間、ルースは見舞いに行こうとするが、ソニーは寝たふりをする。

ジェイシーはソニーに、オクラホマで結婚するために逃げるべきだと提案します。テキサコマ湖への新婚旅行に車で向かう途中、ジェイシーは両親に計画全体を説明するメモを残した事を明かす。すぐに彼らはオクラホマ州警察に呼び止められ、ジェイシーの両親が待つ最寄りの警察署に連行される。ジェイシーの父親はソニーを完全に解雇し、ジェイシーを車で家に連れて帰ります。ソニーはジェイシーの母親と一緒に車で帰り、家に戻ると、ライオンのサムがジェイシーの母親の幼い頃の唯一の本当の愛だったことを明らかにし、サムが以前の釣り旅行中に少年たちに語った話を裏付けます。ジェイシーの母親はソニーに、ジェイシーよりもルースと一緒にいたほうがずっと良いと言いました。結婚は無効となり、短期間が経過します。

デュアンの休暇最後の夜、ソニーは和解の最後のチャンスを求めてデュアンの家を訪れる。2人の友人は償いをし、ソニーはジェイシーがダラスの大学に通い、アナリーンに戻ってこなかったことを明かす。客が減って映画館が閉まりそうなので、彼らは映画に行きます。新オーナーは閉店の原因をテレビと自身のビジネスセンスの欠如のせいだとしている。最後の紙芝居はテキサスを舞台にしたジョン・ウェイン・ ウェスタン ・レッド・リバーです。

翌朝、ソニーはデュアンをバスに乗せて見送る。デュアンはソニーにマーキュリーの鍵を渡し、ソニーが自分とジェイシーが「モーテルにたどり着けなかった」と明かした後、車の世話をするように頼む。近くの通りでトラックがブレーキをかける音を聞いたソニーは、ビリヤード場を開ける。彼はビリーのほうきが道の真ん中にあり、何人かの人々が車を止めているのを見ました。彼はビリーの死体を囲む地元の町民に近づきます。彼らは死んだ少年が愚かで不注意だったと非難する。ソニーは男たちの行動を非難し、ビリーの遺体を慎重に階段の上まで運び、ビリーの顔をソニーのレターマンジャケットで覆った。

現在の生活に怒り、意気消沈したソニーは、ボロボロのトラックに飛び乗って街の境界線へ向かいます。しかし、彼は徐々に考えを変え、車で戻り、ルースの家の近くにトラックを駐車し、ルースにコーヒーを一緒に飲んでもいいかと尋ねました。彼女は落ち込んだようで、家に閉じこもっています。ルースが傷と怒りを爆発させ、コーヒーカップを割った後、彼女はソニーが完全に打ちのめされていることに気づきました。彼女は彼に自分を見てほしいと要求する。彼はそうして、そっと彼女の手に触れた。まだ過ごしているので、彼女は怒りを忘れたようで、少年を憐れみ、彼を慰め始めます。

 

◆おまけ メモ

世界史 札幌大学2023 より

 

(世界史の窓)

市舶司
中国で海外との貿易を管理し、徴税するためにおかれた役所。唐の中ごろに広州に始まり、宋代に常置・拡充されて主要海港におかれた。元、明代まで続き、海外貿易が盛んになるに伴い、重要な官庁となった。

 国家が海上貿易の利益を得るために設けられた役所で、海港都市に置かれて、

  貿易を管理し、輸出入に関わる税を徴収するなどの業務を行った。

 唐の中期、玄宗の時に714年始まり、初めは広州におかれ、その長官を市舶使といった。

 イスラーム商人との海上貿易(南海貿易)が始まるという新たな状況に対応して唐で始まったが、

  それは広州だけに置かれ、しかも常置でなかった。

 任務は、商人の出入国手続き、貨物の検査、禁制品(武器など)の取り締まりに加え、もっとも重要なことが徴税であった。

 

(ムスリム商人 ダウ船という15~2メートルの木造帆船で、

 季節風を利用してインドとの交易も行い、さらに東南アジア、中国にも進出した。ヨットみたいな)

(参考 ジャンク船 名前からして中国の船 昔の香港なんてこんな船のたまり場のイメージ)

ガレオン船 中世の海賊船とかスペインのアルマダとか…。

 

 

 

 宋代には東南アジアとの貿易がさらに盛んになったことをうけて常置の官庁となり、

  広州だけでなくも

   泉州、明州(寧波)、杭州(臨安)、温州にもおかれるようになった。

  明州は日本からの交易船の入港地。

  山東の密州は新羅からの交易船の来港地と指定されていた。

 

外国の商船が入港すると、その物資はまず市舶司によって「抽解(ちゅうかい)」される。

抽とは税を抽出する課税のことで、だいたい十分の一の税率である。抽解の後、市舶司は禁榷(かく)貨物といわれた専売品を一手に買い上げる(収買)。北宋時代には真珠・タイマイ・犀の角・象牙・珊瑚・瑪瑙・乳香などが専売品とされた(時期によって品目は変わる)。その他の物は官は良質の物を選んで買い上げ、残りを商人が買い付ける。市舶司は買い入れるための金・銀・銭・鉛・錫・絹織物・陶磁器などを貯えており、それによって支払う。


 銅銭は輸出禁制品であったので外国の商人への支払いには使われず、専ら中国商人に対して使用された。銅銭の輸出禁止令(銭禁)は宋初から布かれ、三貫以上は死刑という極刑が科せられたが、外国商人にとっては同船は有利な貿易品であったので、厳禁にかかわらず密輸出が絶えなかった。

 

元、明にも継承され、近代以前の中国の海外貿易を国家が管理する重要な官庁であった。…

 

唐の都としての長安

 唐は隋の大興城を継承し、さらに大規模にして完成させた。

唐の長安城は南北が8651m、東西が9721m。北辺の中央に大極殿を中心とした宮城があり、碁盤目状の道路で東西南北に区画されていた。外側は城壁で囲まれ、城門は日暮れから夜明けまでは閉じられている規則であった。

宮城周辺の三省六部の官庁街の他に、東西に市があり、商人が住み、営業していた。

盛唐の玄宗時代には人口100万と言われ、またイラン系のソグド人など、周辺の世界から渡来するものも多く、国際都市として繁栄した。(バグダード200万)

 

長安城内には、多数の仏教寺院や、道教の寺院である道観があった。

その他、ネストリウス派キリスト教である景教の寺院(大秦寺)、ゾロアスター教の寺院である祆祠があった。

安史の乱を機にマニ教も伝えられ、摩尼教寺院として大雲光明寺が建てられた。

 

◆都護府
中国の漢、後漢、唐で西域などの征服地に置かれた辺境警備と占領地行政を兼ねた地方官。

唐では六つの都護府が置かれたが。
 漢が前59年に西域を統治するために置いた西域都護が始まりで、

その後、後漢では光武帝の時、班超を派遣して亀茲(クチャ)に都護府を設置した。
唐の六都護府

 

◆安史の乱
 755年、唐の節度使の安禄山が反乱を起こした。反乱軍は一時都の長安を陥れ、唐は滅亡寸前まで行ったが、安禄山が内紛で殺され、その盟友の史思明が反乱軍を指揮したので、二人の姓を合わせて「安史の乱」という。

唐は玄宗皇帝が長安を離れたまま退位し、粛宗、代宗と継承され、

その間、「北方の遊牧騎馬民族『ウイグル』の支援を得ることに成功」し、

次第に態勢を回復して、763年に、反乱軍を鎮圧した。

 

(ウイグル

 ソグド商人を保護して東西交易で繁栄した。しかし840年にキルギスによって滅ぼされ…)

(ウイグル人)

◆ 
 唐はすでに府兵制による軍事体制は崩れ、募兵制という傭兵制度に切り替えられ、

 各地の節度使に軍事指揮権がゆだねられるという体制に変化していたが、

 

 さらに安史の乱後に租庸調制という一律の税制を廃止して現実的な「両税法」に改め、

また「塩専売制」によって財政を維持するようになった。

(➡元の交鈔 高額紙幣の役目を果たしたのは、塩引(えんいん)という国家の専売制とさていた塩の引換券であった。

  当時塩は密売もされ高価な商品であったので、その引換券である塩引は有価証券として取り引きされ、事実上の高額紙幣の役目を果たしていた。)

 

このようにいわば安史の乱を境に唐は「軍事国家」から「財政国家」へと変質を遂げたと言える。

唐がその後1世紀に渡って存続出来た理由は、依然として南部の穀倉地帯を抑え、また両税法・塩専売制で富を国家が独占する体制を維持できたことが大きい。
 しかし、安史の乱以後は、各地の節度使がが自立して藩鎮といわれるようになり、中央の朝廷の力は相対的に弱体化した。また安史の乱で唐を支援したウイグルが唐の北西部で強大となり、唐は西域の支配権を失うなど、かつての世界帝国としての唐を中心とした国際秩序は次第に失われていった。

 

◆藩鎮。
唐の節度使の統治地域。節度使そのものも指すようになる。

 

タラス河畔の戦い
751年、中央アジアにおける唐とアッバース朝の対決。唐が敗れ西域進出が停止され、中央アジアのイスラーム化が始まった。中国から製紙法がイスラーム世界に伝えられる契機となった。
 唐ではアラビア人またはイスラーム教徒を大食(タージー)と言った。

 

黄巣の乱
唐末の875年に起こった、塩の密売人黄巣らを指導者とする農民反乱。884年に鎮圧されたが、唐は急速に衰退する。
(唐の末期の875年夏、黄河下流の山東省・河南省一帯で相次いで農民反乱が起こった。)

(その年、この地方にイナゴが大発生し、その大群がとぶと日中も暗く、飛び去ったあとは青いものはすべて食べ尽くされ赤土だけが残ったという。)

(そのような中で唐朝が草賊とよんだ群盗、塩の密売人である王仙芝と黄巣が、その秘密結社の組織力を生かして反乱を起こした。彼らは塩専売制のもとで密売によって利益を得ていたが、唐政府が密売摘発を強化したことに反発して反乱を起こしたのだった。)

(黄巣を長安から追い出すことに成功した朱温は朱全忠と名乗り、唐王朝を滅ぼす)。

 

 

◆衛所制
明の洪武帝に始まる兵農一致の軍事制度。
 民戸とは別に軍戸(軍籍に編入された戸)を設定して、中央の兵部の管轄下におき、軍戸から一人兵士を出し、112人で百戸所、10百戸所で千戸所、5千戸所(つまり5600人)で1衛とした。

衛所を管轄する地方の軍事機関が都指揮使であり、中央では五軍都督府が管轄した。

 

郷紳 きょうしん
中国の明清時代、農村の地主として有力になった階層。科挙に合格して官吏となることで免税特権を得て富裕となり、地域支配層を形成した。清朝末期には公認の自衛軍事力として郷勇を組織した。
 

ウマイヤ朝
アラブのイスラーム国家最初のカリフ世襲制度による王朝。661~750年、ウマイヤ家がシリアのダマスクスを都として西アジアを支配、さらにその版図を中央アジアや北アフリカ、さらにイベリア半島まで拡大した。

しかしウマイヤ朝カリフを否定するシーア派の出現によりイスラーム世界の分裂がはじまり、8世紀に非アラブのイスラーム教徒の不満の高まりなどによって衰え、アッバース家によって倒された。

 

◆アッバース革命 アラブ帝国からイスラーム帝国へ
 アッバース朝の成立の背景には、ウマイヤ朝のアラブ至上主義が、アラブ人以外のイスラーム教徒の反発を強め、また彼らの中に反体制派のシーア派が生まれ、不満が高まったことがあった。そのような状況でアッバース家のクーデターが成功して成立して新王朝が成立、この変革をアッバース革命ということもある。

 

 

◆バグダード
8世紀にアッバース朝の都として建設された円形都市。「平安の都」と言われイスラーム文明の中心地として栄えた。
第2代カリフのマンスール、イラク平原のティグリス川西岸に、762年に新都建設を開始し、766年に完成させた。

この新都は「平安の都」(マディーナ=アッサーム)と名付けられ、
その中心部には、円形の城壁に囲まれ、緑色のドームを持つ宮殿が建てられていた。
 バグダードは8世紀から9世紀にかけてハールーン=アッラシード(第5代カリフ)のころ最も繁栄し、

人口200万を数えたという。

 

◆グレゴリウス1世
6世紀末のローマ教皇で、ブリテン島などヨーロッパ各地に布教を行い、

カトリック教会の基礎を築いたので大教皇と言われる。

 

◆トゥール・ポワティエ間の戦い
732年、ピレネーを越えて侵攻したイスラーム軍をフランク王国の宮宰カール=マルテルが撃退した戦い。

 

◆ローランの歌
カール大帝の甥ローランがスペイン遠征の際、しんがりの軍の隊長となり、サラセン軍の襲来に最後まで踏み止まって、

援軍を求める角笛を吹きながら戦死するまでの武勲をうたう。

 

 

◆カールの戴冠
800年の、フランク王国国王のカール(1世)が、ローマ教皇(レオ3世)から「ローマ帝国皇帝」の帝冠を与えられた。

 

◆東南アジア

(タイ)ドヴァーラヴァティー王国
7世紀、モン人が現在のタイのチャオプラヤ川流域に建国した。

 9世紀ごろまで港市国家として栄え、仏教も盛んだったが10世紀に消滅した。

7世紀には中国の文献に現れ、玄奘は「堕羅鉢底国」、義浄は「杜和鉢底国」として伝えている。

 

日本にやってきたドヴァーラヴァティ人
 奈良時代の文献『日本書紀』によると斉明天皇の時の西暦657年に、

「覩貨邏国の男二人、女四人、筑紫に漂い泊まれり」という記事がある。これがドヴァーラヴァティ人であろうと言われている。おそらく中国への使節か交易に赴いたドヴァーラヴァティ人が嵐に流され、日本に漂着したのであろう。
➡斉明天皇だから、

 ドヴァーラヴァティはおおむね大化の改新~壬申の乱~あとの天武朝ぐらいのタイの王国と認識するわかりやすいかも。

 

ラタナコーシン朝/チャクリ朝/バンコク朝
1782年に始まる、現在のタイの王朝。バンコクを都にラーマ1世が初代の王。19世紀、英仏の侵略を受けながら独立を維持し、ラーマ5世(チュラロンコン大王)の時期に近代化を進める。1932年に立憲革命で立憲君主政となり、第二次世界大戦後も継続している。

 

◆(マレーシア)

シュリーヴィジャヤ王国/室利仏逝/三仏斉
7~14世紀、スマトラ島とマレー半島に栄えた港市国家。

 唐僧義浄が滞在し、大乗仏教が盛んだったことを伝えている。宋王朝には三仏斉が盛んに朝貢している。

ちなみにさきほどタイでドヴァーラヴァティー王国 義浄は「杜和鉢底国」と書いたので

 ドヴァーラヴァティはおおむね大化の改新~壬申の乱~あとの天武朝ぐらいのタイの王国だが、

 シュリーヴィジャヤ王国も同じころのマレーシアの王国みたいな感じで覚えるとよろしいが

ただしシュリーヴィジャヤ王国は7~14世紀なので、南北朝ぐらいまであるイメージ(長期)

 

それで、シュリーヴィジャヤ王国の次がマラッカ王国みたいな

マラッカ王国
マラッカはマレー半島の南西部の海港としてインド洋と南シナ海を結ぶ海の道の要衝であった。

はじめスマトラ島のパレンバンにあったが、シンガポール島を経てマレー半島のマラッカに移り、14世紀末に王国を築いた。

 マレー半島からスマトラ島の一部を支配したマレー人国家で、マラッカ海峡に面した港市国家として繁栄した。

 

 

 

◆(インドネシア)

シャイレンドラ朝
8~9世紀にジャワ島中部を中心に栄えた港市国家。大乗仏教を保護し、ボロブドゥール寺院建築で知られる。
一時はベトナム、カンボジアにも進出し、隣接するスマトラ島のシュリーヴィジャヤとも連合したことがあったらしい。

 

で、

ドヴァーラヴァティはおおむね大化の改新~壬申の乱~あとの天武朝ぐらいのタイの王国だが、

 シュリーヴィジャヤ王国も同じころのマレーシアの王国みたいな感じ。

 シャイレンドラ朝も同じころのインドネシアの王国

と覚えるとよろしいが

 

ただし、シュリーヴィジャヤ王国は7~14世紀と特別に長く、南北朝ぐらいまであるイメージ(長期)