◆ウルストンクラフト 18世紀末、イギリスの女性解放運動の先駆者とされる女性。

(世界史の窓より)

女性参政権/男女平等選挙権
19世紀末のニュージーランドを始め、20世紀初頭に西欧に広がった。イギリスでは第一次世界大戦末期の1918年に女性参政権(30歳以上)が認められ、28年に男女平等(21歳以上)となった。アメリカでは1920年に憲法修正19条として女性参政権が認められた。

 18世紀後半のヨーロッパで啓蒙思想の深まり、市民革命の勃発などの中から、自由・平等の思想が広がり、市民社会の成り立たせる原理として人権が意識されるようになった。当初は男性がその運動の主体であり、社会的・経済的な平等に続け政治的な平等の要求も男性を対照することが自明のこととされていた。しかし、フランス革命の進展は女性の人権をも自覚させ、長く男性中心の家父長制家族制度に縛られていた女性の解放(離婚の自由など)、社会的・経済的な平等(女性の財産権など)を求める声とともに、女性の政治への参加を求める声も起こり始めた。これらは広く女性解放運動と言える動きであるが、初めは散発的であり、ブルジョア社会の中でもすぐには認められなかったが、その中で19世紀に入ると組織的な女性参政権運動となっていった。
 女性参政権運動は、18世紀からフランスで始まり、19世紀には労働組合運動・社会主義運動運動と結びついて運動が本格化した。

 

世界で最初に女性参政権を認めたのは、

1893年のニュージーランドであった。白人女性限定。(自治領は1907)

オーストラリア(1902年)、白人女性限定。

 まずはオセアニア

フィンランド(1906年)(←当時帝国だったロシアから独立。同年一院制議会も誕生。)

ノルウェー(1913年)、

デンマーク・アイスランド(1915年)、→北欧が早い。

 

 

ソビエト=ミルシア(1917年)、カナダ・ドイツ(1918年)で実現した。

 

主要国では第一次世界大戦直後にイギリス・ドイツ(1918年)、アメリカ(1920年)、第二次世界大戦後にフランス・日本(1945年)となります。

 イギリス第4回選挙法改正。WW1で社会進出したから(←なんかギリシアで戦争参加したから市民権拡大みたいな感じ)

 

 

ちなみにイギリスが自治領を設けだすのは南ア戦争1899でやばいってなってからなので基本1900年以降。

(注 例外的にカナダだけ自治領化が早い)

 

 

 

 

キング牧師 ベトナム戦争で黒人めっちゃ死んでるじゃんっていうので…

 

 

◆大北方戦争(最近は大をつけるのが多いとかどうとか)

◆ロシア

北方戦争/大北方戦争

(①はロシア、ピョートル1世、北方戦争まではいいが、対戦相手はスウェーデンであり、イギリスではない)

(だから答えはBRICSの④)

スウェーデンは17世紀前半に三十年戦争に介入し、ウェストファリア条約で北ドイツなどにも領土を得て、バルト海沿岸をすべて支配し大国となった。その勢力拡大を恐れたロシアとポーランド王国およびデンマークはその拡大を阻止することで利害が一致し、1699年に密かに同盟した。

とくに新興国であったロシアのピョートル1世は、バルト海への進出を強く願っていた。・・・


緒戦のスウェーデン軍の勝利
 1700年、デンマーク軍のスウェーデン侵入から戦争が始まり、ロシアもバルト海一帯に軍を進めたが、

「ナルヴァの戦い」で当時18歳の青年国王「カール12世」に率いられたスウェーデン軍に大敗した。

 

スウェーデン軍は装備に勝り、ロシア軍の戦術、装備の遅れが敗因であった。

 スウェーデン軍はさらにポーランドに侵入して各地で勝利し、ザクセンまで侵入した。


ピョートル1世 捲土重来
 ピョートル1世は壊滅した軍隊の再建に取りかかり、

  ロシアで最初に徴兵制度をしき、17万の常備軍を編成、

 

 さらに教会や修道院の鐘を集めて大砲を鋳造し、軍備を強化した。

 

 

軍備強化後

1709年、ピョートル1世はロシア再びスウェーデン軍に挑戦した。

 ポルタヴァの戦い(ヨーロッパの転機とも)

スウェーデン軍は長期の遠征の結果、食糧が不足したのに加えて、折りからの寒波のために凍傷にかかるものも多く、弱体化していた。そのため、ロシア軍の大勝利となった。

ピョートルは軍帽と靴を銃弾に射抜かれたが、一命を取りとめた。(不死身の杉元みたいだ!)

 

一方のカール12世は重傷を負い、オスマン帝国に亡命した。

 

このポルタヴァの戦いは、強国スウェーデンの没落、新興国ロシアの台頭をもたらし、「ヨーロッパの転機」となった、と言われている。ポルタヴァの勝利によってヨーロッパへの道を開いたロシアは、バルト海に面しているペテルブルクを建設し、新都とした。


カール12世の反撃
 カール12世は亡命先のオスマン帝国をフランスと共に動かし、1710年、ロシアに宣戦させた。

このオスマン帝国とロシアの戦争ではポルタヴァの戦いとは逆にピョートル1世のロシア軍が敵陣深くプルート河畔まで進撃したが、

 

プルートの戦いでは、オスマン帝国の大軍に包囲され、ロシア軍が苦戦に陥った。

カール12世はロシアへの復讐の機会到来と勇んだが、ピョートル1世はオスマン軍の首脳に大金を贈り、講和に持ち込んだ。

その結果、アゾフを返還し、カール12世の帰国を承認した。



 ロシアは黒海進出を一時棚上げにしてバルト海制覇に全力を傾ける。

 

1714年にはハンコの海戦でピョートル自らが指揮するロシア海軍がスウェーデン軍海軍を破り、制海権を獲得した。

カール12世は陸上各地をなおも転戦していたが、

1718年、ノルウェーでの戦闘で戦死し、結局スウェーデンの敗北に終わった。

 

ニスタットの和約

 1721年、フィンランドのニスタットの和約で講和。

 スウェーデンはロシアに占拠されていたフィンランドを回復(一部)したが

 カレリア地方(フィンランド南部、広い地域)等を失うとともに、賠償金の支払いの義務を負った。


北方戦争の意義 

北欧・東欧情勢の中で、スウェーデンの後退を決定的にし、

それに代わってロシアがバルトの覇者として大国化していくという大きな変化をもたらした。


 この時期、西ヨーロッパでは1701~13年、スペイン継承戦争が起こっており、植民地を巡ってはイギリスとフランスが激しく争っていた。またドイツではプロイセン王国の台頭が始まる時期である。ヨーロッパでの主権国家形成が完了する時期となり、イギリス・フランス・プロイセン・オーストリア・ロシアという五大国体制の時代にはいることとなる。

 

普墺戦争/プロイセン=オーストリア戦争
1866年、プロイセン(普)とオーストリア(墺)の戦争。プロイセンが勝利し、ドイツ統一の主導権を握る。敗れたオーストリアはドイツ統一から除外され、ハンガリーとの二重帝国となる。


 同じドイツ人の国家、ドイツ語を使う国家であるプロイセンとオーストリアは、ドイツ連邦を構成していたが、

1848年にドイツ統一問題が表面化して以来、その主導権を巡って対立していた。

 

1864年のデンマーク戦争では共同歩調をとったが、

 戦後のシュレスヴィヒ・ホルシュタインの処分問題から始まった両者の対立から、

  プロイセンの宰相ビスマルクが巧みにオーストリアのフランツ=ヨーゼフ1世を挑発して戦争に持ち込んだ。


 モルトケ(大)の指揮するプロイセン軍が1866年7月3日のケーニッヒグレーツの戦いで圧勝、

「7週間戦争」と言われるような短期間で終結した。

 

結果、

 プロイセンはシュレスヴィヒ・ホルシュタインその他を併合。

オーストリアはドイツ統一の主導権を失う。

ドイツはプロイセンの「小ドイツ主義」によって統一されることになる。

 

オーストリアは敗戦後、ハンガリーを独立させ、二重帝国であるオーストリア=ハンガリー帝国となる。


ドイツ連邦の解体と北ドイツ連邦の結成
 1866年の普墺戦争の講和条約プラハ条約で、

(1815年のウィーン議定書で成立し、形の上で続いていた全ドイツの連邦であるドイツ連邦(オーストリアも含んでいた)の解体が決まった。)

(プロイセンはハノーファー、ヘッセン=カッセル、ナッサウ、フランクフルトを獲得し、領土を北ドイツ全域に広げた。)

翌1867年、解体したドイツ連邦に代わり、プロイセンを中心に、マイン川以北の22カ国との君主連合である北ドイツ連邦が結成された。これが次のドイツ帝国の前提となる。


オーストリアの変質
 敗れたオーストリアのフランツ=ヨーゼフ1世は、翌1867年、ハンガリーを王国として名目的独立を認めるアウスグライヒ(妥協の意味)を結び、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる同君連合として、オーストリア=ハンガリー帝国となった。


ヴェネツィアの放棄 

 また普墺戦争ではプロイセンを支援したイタリア王国とも戦った。

イタリアは1861年にトリノを都に成立していたが、まだローマとヴェネツィアなどは含まれていなかった。

オーストリアに支配されていたヴェネツィアではイタリアへの併合を求める動きが強まっていた。

そこでビスマルクはイタリア王国と秘密条約を締結して味方に引き入れた。

普墺戦争の北イタリア戦線ではオーストリアは優位な戦いをしたが、

 プロイセン軍とのケーニッヒグレーツの戦いで大敗したため、

 イタリアに対してもヴェネツィア併合を認めざるを得なかった。

こうして、北イタリアもオーストリアの支配から脱しイタリア統一(リソルジメント)は終局に近づいた。


ルクセンブルク問題
 普墺戦争でプロイセンが勝利し、ドイツ連邦が解体したことは、新たなフランスとの火種となった。

それはドイツ連邦に加盟していたルクセンブルク大公国に関してであった。

ルクセンブルクは14世紀以来のルクセンブルク家領であり、ルクセンブルク家は一時神聖ローマ皇帝を出すほど有力であったが、15世紀以降は衰退し、ウィーン会議でオランダ国王を大公とする大公国としてドイツ連邦に加わっていた。

その地を狙っていたフランスのナポレオン3世は、ドイツ連邦が解体したことをうけてルクセンブルクの買収をはかったが、

プロイセンが反発し、普仏間の問題となった。

1867年にロンドン会議で交渉が行われた結果、双方が手を引き、

ルクセンブルクは永世中立国として存続することとなった。


ピウスツキ
ポーランドで独立運動を指導し、第一次世界大戦後に独立を実現し大統領となる。

1920年、ソヴィエト=ポーランド戦争をしかけ、一時は危機に陥ったがヴィスワの戦いで反撃に転じ、ソヴィエト軍を講和に追いこみ、東方で国土を拡張し、その後長期にわたり独裁的権力をふるった。

 

ちなみにピウスツキってアイヌと関係があって…

 

◆第一次世界大戦。

 同盟国側

  三国同盟のドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国を基軸とし(イタリアは当初は中立を宣言)、

  オスマン帝国、ブルガリアなどが加わった。
 

 連合国(協商国とも言う)。

 フランス、イギリス、ロシアの三国協商を軸に、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア、ギリシアのバルカン諸国、三国同盟を離脱したイタリアは1915年5月に連合側に参戦した。

 ヨーロッパ以外では、

  1914年8月23日に日本、

  1917年8月14日に中華民国が参戦、連合国側には32カ国が参戦した。

 

また、

 イギリスの海外自治領であるカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アも協力。

   植民地インドからも徴兵された。

 

 アメリカの参戦は大戦の後半、1917年4月であったが、それが連合国側の勝利に決定的な要因となった。

 

 

タンネンベルクの戦い 1914、8.14 ドイツVSロシア ドイツ圧勝

 ロシア軍は当初、ドイツの予想を上回る速さで進撃してきたが、次第に補給と通信の不備が露呈してきて、進撃が停滞した。

ドイツの戦線立て直しに派遣された新司令官ヒンデンブルク大将とルーデンドルフ参謀長は、ロシア軍の無線を傍受してその進路を知り、列車で大軍を移動させて、タンネンベルクのロシア軍を急襲して勝利を収めた。

 

 このときの戦闘で25万人のロシア兵のうち、12万5千が戦死か捕虜になり、ドイツ側の損害は1万にすぎなかった。

タンネンベルクでのロシア軍の敗北は、ツァーリ政府の威信を著しく落とし、ロシア革命の勃発の警鐘となった。

 

 

◆女性参政権運動

JSミル 菅直人はたまにこの人に言及する。(菅直人は東工大卒 東京科学大学)

イギリスで明確に女性参政権を主張したのは、ジョン=スチュアート=ミルであった。彼は功利主義の理念の下、「女性参政権」を掲げて下院議員となり、その支援によって女性自身による女性参政権運動が始まった。19世紀末から20世紀初頭にM=G=フォーセットの婦人参政権協会全国同盟(NUWSS)、E=パンクハーストの女性社会政治同盟(WSPU)という二つの団体が運動を展開、特に後者は過激な行動で人びとの関心を集めたが、第一次世界大戦までに女性参政権を実現することはできなかった。