◆クリミア戦争1853~56

1856年、パリ講和会議、講和条約としてパリ条約が締結された。

 パリ条約では、

 オスマン帝国:領土が保全さ

        ドナウ川の航行の自由、黒海中立化が確認。

 

 ロシアはベッサラビア(現モルドバ)をモルダヴィア公国に割譲し、

   モルダヴィア公国 ワラキア公国と共に自治が認められた(ロシア軍は撤退したがオスマン帝国の宗主権が復活した)。

 なおこの二国(ドナウ二公国という)は1859年に統一し、1866年にはルーマニア公国となる。

 

またセルビア公国の自治も認められた。

 

アラスカ売却
 クリミア戦争に敗れたロシアアレクサンドル2世は近代化改革に迫られたため財政難に陥り、

  自国領であったアラスカをアメリカへの売却 価格はわずかに720万ドル。

  南北戦争後の国土統一を進めていたアメリカ合衆国(リンカンは暗殺されていたので大統領はジョンソン)にとっては

  好条件の取り引きとなった。➡シベリア鉄道建設にも利用。

 

シベリア鉄道 帝国主義列強に対抗して東アジアに進出するため
 19世紀末~20世紀初頭にロシアが建設したシベリアを横断する鉄道。

  帝政ロシアは、まだ資本と技術に不十分なものがあったため、

  フランス資本の導入に依存することにより、1891年から工事を開始。

 ロシア帝国の東方進出の動脈として建設され、日露戦争直前の1904年に東清鉄道経由で開通した。

 ロシア領内のみを通るシベリア鉄道としては1916年に全線が開通した。

  極東のウラジヴォストークまでを鉄道で直接つなぎ、アジア進出をすすめていった。

 

◆三帝同盟
1873年締結のドイツ・オーストリア・ロシアの三国による対フランス同盟。

 バルカン問題でのオーストリア・ロシアの対立から1879年に消滅。

1881年に新三帝同盟を結成。

 

◆チャイコフスキーとフォン・メック夫人 1220通の書簡

 

アメリカ史

反連邦派/アンチ=フェデラリスト/州権主義
アメリカ合衆国憲法制定過程で各州の独立性を主張した党派。

建国期にはジェファソンに代表され、リパブリカン党を結成。南北戦争期には南部の主張となった。

 反連邦派、アンチ=フェデラリスト Anti-Federalists とは、アメリカ合衆国憲法の制定過程で、アメリカ独立後の国家のありかたについて、各州(states)の独立性を維持し、連邦政府の権限はできるだけ小さくすべきであると主張した人々。1787年からの憲法制定会議おいても、ハミルトンなどの連邦派(フェデラリスト)が、州よりも連邦政府を上位におき、その権限を強くすべきであるという連邦主義と対立し、憲法草案に反対した。独立自営農民に支持者が多く、その中心人物はジェファソンであった。

 

 

ルイジアナ

ルイジアナは現アメリカ中部、ルイジアナ州のイメージよりでかい フランスより(購入)。ジェファソンが購入した。

国土倍増。1803はナポレオンの時代。

 

フロリダはスペインから。

カリフォルニアもカリフォルニアに比べて大きくて。メキシコから。

 

 

インディアン強制移住法/強制移住法/先住民移住法
1830年、アメリカのジャクソン大統領の時に制定された、ミシシッピ東岸のインディアンを中西部に強制移住させる法律。


 1830年5月28日、ジャクソン大統領の時に制定された法律で、アメリカ大陸の先住民であるインディアンを、ミシシッピー川以西の辺境地帯の保留地に移住させることを定めたもの。これによってインディアンのオクラホマ州を中心とした保留地への移住が強制的、合法的にすすめられた。<以下、藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書などによる>
 インディアンの強制移住はジャクソン大統領の時に突然決まったわけではない。

すでに19世紀の初めにジェファソン大統領はミシシッピ以西への隔離を考えており、白人とインディアンのトラブルが増え続ける一方で西部探検が進み、グレートプレーンズの大平原は砂漠が広がっていて白人の居住には向かないと言うことがわかってきてから具体化が始まった。モンロー大統領も1824年の教書でい強制移住の必要を説き、それを1830年の「インディアン強制移住法」で実行に移したのがジャクソン大統領だった。

(白人は砂漠にすみにくいからからインディアンの居住地にしよう…みたいな ひどい話)

 

この政策によって、設けられた居留地(インディアン=テリトリー)へ強制移住させらたのは、1840年代までに10万人に及び、移住の途中に病気や事故で多くの犠牲者が出て「涙の旅路」と言われた。

また、強制移住の後もインディアンの抵抗は続き、最終的に鎮圧されたのは1880年代であり、それまでに当初約100万人と推定されたインディアン人口は、1890年ごろには約25万人に減少した。

(現代版 バビロン捕囚か…という印象です)

ミズーリ協定 南北戦争 わかりやすいのはどれか…。

 

カンザス・ネブラスカ法
アメリカ合衆国で、1854年、ミズーリ協定を否定し、準州が州昇格の際に自由州か奴隷州かを住民が選択できるとした。

民主党の主張に従い、奴隷制拡大につながる同法に対し、反対派は共和党を結成、南北対立激化の契機の一つとなった。

 アメリカ合衆国で、1854年、民主党主導の議会が制定したカンザス及びネブラスカ両准州を設立する法律。

この両州は、本来ルイジアナ買収地域の一部だったので1820年のミズーリ協定の、北緯36°30′以北には黒人奴隷制を認める州を設けてはいけない地域に入る。ところがカンザス・ネブラスカ法では準州から州に昇格する際には、奴隷州とするか自由州とするかは住民が決定できる、と定められた。

この成立にともない、ミズーリ協定は否定され、奴隷州・自由州のバランスが崩れる恐れが出てきた。

 

上院多数は重要…。ひっぱろうぜで、共和党。できた背景。

 

 

ホームステッド法

1862年、アメリカ大統領リンカンが出した西部の農民創出法。 自営農地法とも言う。 21歳以上の男女の合衆国市民に公有地を貸与し、5年以上開拓に従事すれば、160エーカー(約65ヘクタール)の土地を無償で与えるというもの。

 

 

アメリカ労働総同盟

1886年、アメリカで結成された全国的な労働組合組織。サミュエル=ゴンパースが指導した。熟練労働者の待遇改善を掲げ、未熟練工は排除し、政治活動も否定した

 

棍棒外交
アメリカ外統領セオドア=ローズヴェルトのカリブ海域に対する強権的な外交姿勢。

アメリカ合衆国のセオドア=ローズヴェルト大統領の外交政策をいう。『大きな棍棒を携え、穏やかに話す(speak softly and carry a big stick)』という彼の言葉からでた。アメリカ帝国主義の典型的な政策であるカリブ海政策をもっともよく表す言葉である。T=ローズヴェルトはモンロー主義を拡大解釈(「ローズヴェルトの系論」という)し、カリブ海域の「慢性的な不正と無能」に対してはアメリカが武力干渉することを正当であると表明し、海上兵力を背景に、ラテンアメリカ地域でのアメリカの権益を確保し、ヨーロッパ諸国の干渉を排除する外交政策を「棍棒外交」という。

その典型的な例は1903年、パナマ地峡地帯に介入し、コロンビアからパナマ共和国を独立させ、パナマ地峡の永久租借権を獲得しパナマ運河建設を開始したことがあげられる。

 

◆アメリカ鉄道

1920年代の好景気は1929年の株価の大暴落によって終わり、1930年代は世界恐慌の時代となった。

鉄道の経営にも恐慌は大打撃を与え、1929年に7億8000万人いた旅客は1932年に4億7800万人へ急減した。

1928年に170万人いた鉄道労働者は、1938年には93万9000人とほぼ半減した。

自動車や航空機といった競合者の出現

 

◆テネシー川流域開発公社/TVA
アメリカのF=ローズヴェルト大統領の世界恐慌の克服を目指したニューディール政策の一環。

 公共事業による雇用の増大をめざした。

武器貸与法(レンド・リース法)
1941年3月、第二次世界大戦中、まだ参戦していないアメリカがイギリスなど連合国を支援するため武器貸与を認めた。F=ローズヴェルト大統領が議会に提出し認められた。借款ではなく貸与であること、連合国には後にソ連も含まれた点が重要。その後、同年12月、日本の真珠湾攻撃を受け、アメリカは参戦した。

 

 (参考)

 2022年5月9日、バイデン大統領は、ロシアの侵略行為と戦っているウクライナなどに対する武器貸与法に署名。

 

◆朝鮮戦争

中国人民義勇軍
成立直後の中華人民共和国が、朝鮮戦争で北朝鮮を支援するために派遣した軍隊。


 1950年10月19日、中華人民共和国の国家主席毛沢東は人民義勇軍(志願軍)を派遣して朝鮮戦争に参戦、鴨緑江を越えた。人民義勇軍とはいえ、じっさいには正規軍であった。

参戦理由は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金日成政権の瓦解を阻止すること、およびアメリカ軍を主力とする国連軍が中朝国境の鴨緑江にまで迫り、中国の安全が脅かされたからであった。


朝鮮戦争での攻勢と後退
 中国軍はこの戦争を設立されたばかりの中華人民共和国の存亡を賭けた戦いと位置づけ、毛沢東の人民戦争戦略・戦術で戦った。国連軍司令官マッカーサーは中国軍を過小評価し、「クリスマスをアメリカ本土で」という楽観的見通しであったが、人海戦術で攻撃する中国軍はアメリカ・韓国軍に大攻勢をかけ、1951年1月ソウルを奪還した。


 しかし、中国軍の補給線が延びきったところでアメリカ軍は反撃に転じ、人海戦術に対して最新兵器を駆使した機動部隊で押し返し、5月には北緯38度線まで押し戻した。中国軍は地下陣地を構築して対抗し、戦線が膠着した。

1953年7月に停戦が成立、撤兵を開始した。朝鮮戦争に投入された中国軍の総兵力は公表されていないが、

約500万と思われる。<平松茂雄『中国人民解放軍』岩波新書 1987 p.72>

◆戦前ソ連

第一次五カ年計画(第1次・ソ連)
1928年から、ソ連のスターリンが指導した社会主義国家建設計画。工業の重工業化と農村の集団化が強行された。

◆戦前フランス

ブルム/フランス人民戦線内閣 1936年に成立した人民戦線内閣の首相。

不況対策の失敗、スペイン内戦への対応の閣内不一致などで翌年総辞職した。

 

◆戦後東欧

◆チェコ社会主義に…1948 でも…1989社会主義放棄

 第二次世界大戦後のチェコスロヴァキア共和国では、1948年2月、共産党によるクーデター(二月事件)が起こり、

人民民主主義を掲げたチェコスロヴァキア社会主義共和国が成立した。
 1953年にノヴォトニーが共産党第一書記となり、さらに57年に大統領に就任したが、1960年代に入ってもスターリン批判の影響がおよばず、社会主義経済の停滞が目立ち始め、硬直化したノヴォトニー政権への不満が強まっていった。ノヴォトニー政権は文学者などによる民主化運動を厳しく弾圧したため辞任要求の声が強まった。

 

ソ連の軍事干渉 チェコ事件1968
 ドプチェクの改革に対してソ連のブレジネフ政権は社会主義体制否定につながると警戒し、1968年8月20日に軍事介入に踏み切り、ドプチェク第一書記らを逮捕した(チェコ事件)。翌年4月にドプチェクを解任、代わってフサークが第一書記に就任、その後は改革派は排除され「正常化」と称する改革否定の後戻りがなされた。

 

 

社会主義の放棄「ビロード革命」
 1987年、フサークは建康を理由にヤケシュが書記長となり、ソ連のゴルバチョフ改革に倣った経済改革が行われたが不徹底なものであり、人権問題では前進がなかった。チェコ事件で抑圧された民主化と自由化への願望が次に一気に吹き出したのが、一連の東欧革命の年である1989年の10月だった。「憲章77」のメンバーを中心に「民主フォーラム」が結成され、政権交代が叫ばれ、フサークを継承していたヤケシュ共産党政権は政権移譲を承認、流血を伴わず社会主義の放棄が決定された。

◆ 

ポーランド反ソ暴動/ポズナニ暴動
1956年、ソ連のスターリン批判を受けてポーランド民衆が自由を要求して決起した。ポズナニで始まった暴動が全国に広がったが、ソ連が介入して圧力を加え、復活したゴムウカが妥協点を探り沈静化した。

 

 

◆ルーマニア

チャウシェスク
社会主義国ルーマニアで1965年から独自路線を推進したが、独裁政治に陥り、1989年の東欧革命の中で政権が倒され、民衆裁判で処刑された。

ちなみにルーマニアといえば

でてきたばかりころは身長が小さいせいかきびきびしていた。

でも身長も高くなり大人コマネチにはそのきびきびさは欠けたかも

 

 

その点はロシアスケートフィギュア女子に似た感じもあった。(次の冬五輪はフィギュアに出てくるのだろうか?)

 

 

◆戦後東南アジア

東南アジア条約機構/SEATO
1954年、米英仏などと東南アジア諸国が締結した反共軍事条約。ベトナム戦争の終結によって1977年に消滅した。

 1954年9月8日、アメリカ・イギリス・フランス・オーストラリア・ニュージーランド・タイ・フィリピン・パキスタンの8ヵ国が結成した対共産圏包囲網の一環。同8ヵ国が調印したマニラ条約によって成立した。翌55年2月19日までに全加盟国の条約批准が完了、正式に発足した。加盟国は、条約地域内での武力侵略を自国の平和と安全への脅威と認め、共同の危険に対処するための行動をとることになった。ジュネーヴ協定で軍事同盟への参加を禁じられた南ベトナム・カンボジア・ラオスも、一方的にマニラ条約の適用範囲に含められた。中国、ソ連や北ベトナムは協定違反だと非難したが、アメリカはどこ吹く風だった。アメリカは共産中国封じ込めと南ベトナム防衛に不可欠な後背地である東南アジアを守るため、集団防衛体制の構築と地域統合の推進の手段を講じた。


SEATOからASEANへ
 東南アジア条約機構(SEATO)は反共軍事同盟であると同時に東南アジア地域の政治・経済・軍事統合の触媒となるはずであった。しかし実際にはベトナム戦争でも有効な存在とはならず、ベトナム戦争の終結と共に1977年には消滅した。対照的に1967年に形成された東南アジア諸国連合(ASEAN)は、地域の経済協力を前面に打ち出して順調に成長し、いまや10ヵ国体制を実現している

 

ASEAN反共産主義軍事同盟として発足
 東南アジア諸国連合の結成を主導したのはインドネシアで、1965年9月30日の共産党系軍人による九・三〇事件のクーデタを鎮圧して権力をにぎり、翌年にスカルノを失脚させてインドネシアで独裁的権力をにぎったスハルトであった。
 東南アジア諸国は、マレーシアがボルネオの一部を含めて成立したことから、インドネシア・

フィリピンと対立し、とくにスカルノ政権は国際連合を脱退してマレーシア侵攻の姿勢を示すなど、地域紛争が絶えなかった。

また、インドシナ半島ではベトナム、ラオス、カンボジアでの共産主義勢力の台頭とそれを阻止しようとするアメリカとの間でベトナム戦争が始まり、タイ、マレーシアなどは共産化を権力側の共通の危機感として有していた。
 そのような中、九・三〇事件でインドネシア共産党を徹底的に弾圧し、スカルノに代わって登場したスハルトは反共勢力の救世主と見られた。またシンガポールは1965年8月、マレーシアから分離独立した直後であり、小さな独立国家を維持していくためにもリー=クアンユー首相にとっては東南アジアの安定は不可欠であったので歓迎した。

 

 

◆インド◆

マウリヤ朝

古代インド、マガダ国に興った王朝。 前317年ごろ、チャンドラグプタがナンダ朝を滅ぼして建設。 都はパータリプトラ。

 第3代アショカ王のころ全盛期となり、インド史上最初の統一国家を築いたが、王の没後急速に衰え、前180年ごろスンガに滅ぼされた。

 

アショーカ王と仏教

 アショーカ王は、デカン高原の東南部のカリンガ国を征服したとき、王自身が戦争で多くの犠牲を出したことを深く恥じて、仏教に深く帰依するようになった。


ダルマによる政治 前258年に、ダルマ(普遍的な仏法)にもとづく政治を行うことを宣言し、2年後にそれを詔勅として発布した。詔勅には不殺生と正しい人間関係の尊重が説かれていた。


石柱碑、磨崖碑の建設 石柱に刻んだり(石柱碑)、崖に刻んだり(磨崖碑)して民衆を教化した。それらの碑文は、民衆語であるプラークリット語を、インドの文字であるブラーフミー文字で書かれていた。それらは現在もインド各地(パキスタンやアフガニスタンも含み)に現存しており、マウリヤ朝の統治範囲を示している。


仏典の結集 アショーカ王の時代に3回目の仏典結集が行われ、仏教史上理想的な王とされている。
仏塔の建設 アショーカ王は全土に仏塔(ストゥーパ)を建て、仏舎利(ブッダの遺骨)を分納した。伝承によると王は8万4千の仏塔を建てることを目指したという。現存する石塔には、インド中央部のサーンチーの石塔が有名である。
スリランカへの布教 またアショーカ王は前240年ごろ、王子をインドの南に位置する島、スリランカに派遣して仏教を布教した。またビルマに布教されたのもこの時代であり、これらは後の大乗仏教と異なる部派仏教であり、南伝仏教(後に上座部仏教と言われるようになる)としての東南アジアの仏教の繁栄の基礎となった。

 

◆クシャーナ朝

カニシカ王

ローマ帝国

 

◆グプタ朝

 

ヴァルダナ朝

 

奴隷王朝。マムルーク。もちろんイスラム教。

 

タージマハル アグラ

 

第1回インド国民会議 ボンベイ

1906 カルカッタ(コルカタ)四綱領

 

 

黄金の四角形

 

 

コンスタンティヌス
4世紀初頭のローマ帝国皇帝。帝国の分裂、混乱を克服し専制君主政を確立し、313年にキリスト教を公認。コンスタンティノープルに遷都し、強大な帝国を再建したが、その死後、再び帝国は分裂傾向に陥った。


 ローマ帝国の皇帝で在位は306~337(副帝時代含む)。四分統治による対立の中で勝ち抜き、単独帝政に戻した。

ローマ帝国の皇帝専制政治を再建したが、新都コンスタンティノープルを建設して支配の重点を東方に移した。

ローマのコンスタンティヌス帝の凱旋門。

 

313年にはキリスト教を公認するという大転換「ミラノ勅令」

(コンスタンティヌス帝は、ネロ帝の時に殉教した使徒ペテロの墓所(礼拝所)に教会を建設することを命じ、

  それがサン=ピエトロ教会(大聖堂)の基となった。)

 324年、バルカン半島のアドリアノープルでリキニウスと激突、

   コンスタンティヌスが勝利してローマ全土にキリスト教は公認されることとなった。

325年のニケーア公会議では教義の統一をはかった。
330年新都ビザンティオン(ビザンティウム)の地に建設、コンスタンティノープルと命名。

「第二のローマ」。
332年「コロヌスの土地緊縛令」租税収入の安定を図って、その移動を禁止して身分を固定化し、コロナトゥスを強化した。

これによって、奴隷制大農園(ラティフンディウム)にかわる生産方式が確定することになった。

 

地中海交易を活発にするために基軸通貨としてソリドゥス金貨を鋳造発行し、帝国の経済的統一を維持しようとした。

 

◆公会議

◆軍管区制/テマ制
ビザンツ帝国の軍事的な地方制度。テマ制という。

 地方軍団の司令官が地方の行政と司法も掌握する制度。10世紀ごろが盛んで、11世紀にはプロノイア制に切り替わる。

ゼロの概念
インドに始まるとされる記数法。グプタ朝時代の「ゼロの発見」に始まり、6世紀ごろには確立し、アラビアを経てヨーロッパに伝えられ、数学その他の文化に影響を与えた。

 

 

 

細密画/ミニアチュール
中国絵画の影響を受けて、イスラーム圏で発達した画法。

 

マドラサ

イスラーム教のウラマーを養成する神学校。モスクに付属する教育機関として各地のイスラーム都市につくられた。

 

イクター制
9〜10世紀にブワイフ朝のもとで始まった制度で,初めは功臣・軍人に在職期間中だけ,現金給与(アター)の代わりに土地の徴税権を与えたものだった。 その後セルジューク朝時代に一般化し,世襲による分与地制度へ変化した。

 

楔形文字
シュメール人が発明し、ウルクなどの都市国家で使用され、メソポタミアを中心に古代オリエント世界でアケメネス朝ペルシア時代まで長く使用された古代文字。その後忘れ去られたが、19世紀中頃ローリンソンによって解読された。現在、多数の楔形文字を記した粘土版が発掘され、解読が進んでいる。

 

 

ジズヤ/人頭税
イスラーム世界に於ける税の一つで、非イスラーム教徒の成年男性に課せられる税のこと。

インドのムガル帝国にも継承されたが、アクバル帝の時に廃止され、アウラングゼーブ帝の時に復活された。

 

ウマイヤ朝からアッバース朝への変化

 イスラームに改宗すれば人頭税は課せられないことになっていたが、ウマイヤ朝では非アラブ人でイスラーム教に改宗した人々(新改宗者、マワーリー)にも、ジズヤが課せられることになった。

 そのためアラブ人と非アラブ人の差別に対して不満が強くなり、その終わり頃にはマワーリーのジズヤは免除されることとなった。アッバース朝でもズインミーにはジスヤとハラージュが課せられ、マワーリーはジズヤは免除されハラージュのみが課せられることとなり、イスラーム教徒のアラブ人と非アラブ人の平等化が図られた。

 

パルティアはアケメネス朝とササン朝ペルシャの間。ゾロアスター教とかマニ教を匂わせるが、イスラム教ではない。

ササン朝のあとがイスラムだから、時期が違う。

 

外来の学問 アッバース朝の話。

 ここでギリシア、インドの学術に関連して「シリア語やパフラビー語で研究云々」の話が参考書(山川)で、でてくる。
イスラームの学術文化のうち、イスラムの外界であるギリシア・インドなどに起源のあるものをいう。

(論理学云々ってのはアリストテレスとかそういうやつなのかな?…)

 ギリシア、インド、ペルシアなどアラビア以外から入ってきて、イスラーム文化に受容された学問分野をイスラームでは固有の学問に対して、外来の学問と言った。哲学・医学・天文学・幾何学・光学・地理学、などがそれにあたる。それらの学問を記述したギリシア語文献はバグダードの知恵の館でアラビア語に翻訳され、その研究から多くの学者が輩出した。
 やがて十字軍時代にヨーロッパに伝えられてスペインのトレドの翻訳学校などでラテン語に翻訳され、当時のキリスト教神学と結びついてスコラ哲学を成立させるなど、12世紀ルネサンスといわれる現象をもたらした。 

 

◆シリア語の「学術言語」としての地位。

(コトバンク)

本来は,初期東方キリスト教の中心地エデッサ(現,トルコ領ウルファ)とその周辺で話されていたアラム語の方言。5世紀末シリア教会分裂の結果,二つの方言に分かれた。古い碑文は1世紀以後のものがあるが,重要なのは3世紀以後の,聖書の翻訳,キリスト教文書,ギリシア哲学の翻訳,医学などの諸学の文献などで,その量はアラム語中随一。

ギリシア語からの借用が多く,10世紀ころまでアラビア語と共存していて,アラビア語に大きな影響を与えた。

(口語としては8世紀ころアラビア語にとって代わられ,ほとんど死滅したが,文学・宗教語としては14世紀ころまで用いられた。)

 

◆マルコポーロ。

 イタリア語 トスカナ語が元

  ジェノヴァ 言語はトスカナ由来じゃない。多言語使用。

        書き言葉がない。…特殊な地域?

         ポルトガル上流階級はスペイン語がはやっていた。スペインは他に先駆け「国語」があった。

         マルコポーロはまずポルトガル王に援助を求めるため

            10年ポルトガルに滞在し、スペイン語を習った。

 

 

◆ルター 聖書 ドイツ語翻訳

 

プルタルコス
1~2世紀、ローマ帝国時代のギリシア人歴史家。『英雄伝(対比列伝)』で、ギリシアとローマの主要人物を比較して論じた

 ギリシャ語で書かれている。

 

ガリア戦記
前58~前51年のカエサルのガリア遠征の記録。紀元前1世紀のケルト系ガリア人およびゲルマン人に関する重要な史料であると共にラテン語の名文とされている。

 

ダンテ「神曲」

トスカナ地方の口語で書く
 描かれている内容は、中世的な世界観、迷信の域を出ていないが、重要なことはこの作品がトスカナ地方の口語で書かれたことであった。ダンテは、『俗語論』という論文も残しており、そこでもラテン語はすでに死後になったことを確認し、口語すなわち話し言葉が方言のまま洗練されずにいることを懸念し、美しい「国語」に高める必要がある、そのためには国民的統一が必要であると主張している。この思想がイタリア語の形成の第一歩となった。

 

 

コロンブス
1492年、大西洋を横断した航海者。イタリアのジェノヴァの人だがスペイン王の事業として実施。数回にわたり新大陸の東岸を探検したが、彼は生涯、その地をインドの一部と信じた。
 

イタリアのジェノヴァ生まれ、
 マルコ=ポーロなどの書物からインド、中国、ジパングなどに興味を持ち、トスカネリの世界球体説を知って西回りでアジアに到達することを考えた。はじめ(1483年)、ポルトガルのジョアン2世に提言したが、

ポルトガルは東回りに力を注いでいたのでその提案は拒否された。

(注 トルデシリャス条約はコロンブスの航海を受けてのことなので、バーソロミューディアスの航路開拓だろう)

 

 

 

ついでスペインに渡り、1486年にイザベル女王に面会し、自説を訴えた。

イザベルはコロンブスの提案に興味を示したが、

 当時イスラーム勢力の拠点グラナダ攻撃に費用がかかり、財政的に余裕がなかったので取り上げられなかった。

 

そうするうちに1492年、グラナダを陥落させ、レコンキスタを完了させた直後にイザベルはコロンブスと再び会って、一旦は断ったが、翻意して帰る途中のコロンブスを呼び戻し、そのプランを実施することに決めた。4月17日に契約が成立した。

 

 

韓愈 古文の人
唐代の詩人、文章家。古文復興に努める。また仏教を批判して、中国古来の儒教の刷新を試み、次の宋学の先駆けとなった。
768~824 唐詩を代表する一人で中唐の人。貴族階級のでではなく24歳で科挙に合格した。

官僚としては不遇であったが、詩人としては白居易と並び称され、文章家としては柳宗元とともに古文復興運動の中心人物として活躍した。その文章は四六駢儷体の形骸化を批判して、漢や魏の古文の復興に努め、後に唐宋八大家の最初の一人とされる。

また儒学者としては、仏教や道教の空論を激しく否定して、儒学の復興に努めた。

『原道』などの書物では、儒教の新しい解釈をほどこし、後の周敦頤などの宋学の先駆となったとされる。

 

 …つまり韓愈は、仏教徒の仏舎利崇拝を、野蛮で不浄な夷狄の風習として、とうてい受け入れられないと息巻いているわけだ。当時の民衆の中にも、仏教によってインドから持ち込まれた火葬などの習慣を嫌う風潮があったらしい。唐末の9世紀には韓愈のような儒学者からだけではなく、道教教団からの反仏教運動が強まり、武宗による会昌の廃仏(845年)が行われたのは、このような背景であったことが考えられる。

 

古文復興
唐における漢代以前の古文を復興させようという文学運動。宋代にも継承され、唐宋八大家と言われる文章家を生んだ。

 古文とは漢代以前の文章を意味する。魏晋南北朝時代に流行した四六駢儷体は、文を四字か六字で区切り、対句を用い、韻を踏み、また故事成句を多用するのが良いとされたため、華麗ではあるが約束事が多く閉鎖的で、貴族たちに独占されてきた。そのような心のこもらない形式的な技巧だけの美文を避け、漢代の自由な文章を復興させようという運動が唐の文化の中に起こった。それを唱えた韓愈(韓退之)とその友人柳宗元はともに貴族階級の出身ではなく、進士科合格の官僚であった。


 この古文復興運動は、875年の黄巣の乱後の貴族階級の没落にともなって活発となり、同時に仏教の排斥、儒学の復興とも結びついていた。古文復興運動は宋代の文化にも継承され、欧陽脩・蘇軾などが現れ、彼らを総称して唐宋八大家という。

 

 

顔真卿

安史の乱で反乱軍と戦う
 顔真卿は唐朝に仕える役人であったので、755年、節度使安禄山が唐に反旗を翻し安史の乱が起こったときは山東省の平原郡の太守(地方長官)だった。唐朝への忠誠心の強い顔真卿は、従兄弟らとともに反乱軍の安禄山軍に抵抗して戦った。義勇兵を募って戦ったが利あらず敗れた。
 反乱鎮圧後、その戦いぶりを評価されて朝廷で重く用いられるようになった。しかし、剛直の故に煙たがられたか、藩鎮の李希烈が反乱を起こすと使者となってその折衝の役を与えられ、785年、現地で反乱軍に捕らえられて殺されてしまった。

 

◆安史の乱

唐の節度使、安禄山らの起こした大乱。755~763年。唐の玄宗は一時長安から逃れ、安禄山は洛陽で大燕皇帝を称す。その後内紛で安禄山は殺害され盟友の史思明が継承するも再び内紛で殺され、ウイグル軍に支援された唐によって鎮圧された。安史の乱後、唐は衰退に向かうが、募兵制や両税法などで支配体制を修復しながら、907年まで存続する。

 755年、唐の節度使の安禄山が反乱を起こした。反乱軍は一時都の長安を陥れ、唐は滅亡寸前まで行ったが、安禄山が内紛で殺され、その盟友の史思明が反乱軍を指揮したので、二人の姓を合わせて「安史の乱」という。唐は玄宗皇帝が長安を離れたまま退位し、粛宗、代宗と継承され、その間、北方の遊牧騎馬民族ウイグルの支援を得ることに成功し、次第に態勢を回復して、763年に、反乱軍を鎮圧した。

 

安禄山はちゃんとした唐の役人節度使である。塩密売人ではありません。

安史の乱以後は、各地の節度使がが自立して藩鎮といわれるようになり、中央の朝廷の力は相対的に弱体化した。

唐はウイグルに「助けて~!」➡ありがとう助かった!

唐は衰退に向かうが、募兵制や両税法などで支配体制を修復しながら、907年まで存続する。

 

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