◆日本史(建武の新政)

メモ

 

「南北朝」時代
鎌倉時代の次の時代「南北朝」時代、その次が室町。
1333年に鎌倉幕府が滅亡した後すぐに室町幕府ができたわけではない。
最初の60年ぐらいは室町幕府中心ではない。「南北朝」時代ですから
室町幕府が中心になるのは南北朝合一1392年です。
鎌倉幕府が滅亡した後いきなり南北朝の内乱になったわけでありません
まずは後醍醐天皇による「建武の新政」が約2年半続きます。
「南北朝」時代はまず「建武の新政」そして2番「南北朝」の内乱。


後醍醐天皇。密教の法衣をまとい、三鈷杵をもつ。幕府転覆の護摩を焚く。異形の天皇。

建武の新政。
隠岐に流された後醍醐天皇ですけど、伯耆から京都に戻ってきます。
で、まず何をやったか…光厳天皇の即位はなかったってことにします。廃位。
で自分が天皇として復活します。ですからこの建武の新政は何と呼ばれるかって言うと後醍醐独裁という風に呼ばれる。
中世の天皇家って1番偉い人は治天の君 つまり上皇です。
 だから今までの慣習に習うならば後醍醐上皇のはずですよね。なのに、後醍醐は天皇になった。院政の否定。父・後宇多上皇の院政停止。
だから非常に革新的です。背景は天皇家の分裂。持明院統と大覚寺統の分裂。両統迭立。一天皇10年。ひどい。
天皇家バラバラになっちゃってる。天皇権力の絶対化。
「古の興廃を改めて、今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」ここ重要。

後醍醐天皇による「建武の新政」
「親政」天皇が直接政治を行うことです
後醍醐天皇の理想 醍醐天皇や村上天皇の「親政」平安時代  初期の延喜の治や天暦の治が理想なわけです
「後醍醐」天皇の 「醍醐」。理想とした醍醐天皇の名前をとっているわけです
普通天皇の天皇が死んでからほとんどの天皇は後から名前がプレゼントされたんですけれども
さすが後醍醐天皇、押しの強い天皇で自分が生きている時か
ら俺が死んだら俺を「後醍醐天皇」と偉業へというふうに常日頃から言っていたので、その名の通り

俺が政治をやる。なので幕府なんてもってのほか
幕府もダメ 誰の補佐もいらない 「摂政関白」はいらない。これ重要。
「幕府、摂政関白(令外官)の廃止」
「官位相当性の無視」鎌倉幕府の権威を否定し、後醍醐天皇の権威を回復する。(鎌倉幕府は、天皇の権威を制限するために、官位相当制という制度を導入していました。この制度は、天皇が任命する官職の序列と、その官職に就く者の身分の序列を一致させることで、天皇の権威を制限することを目的としていました。具体的には、天皇が幕府の官職である征夷大将軍や執権を任命する場合、その人物の官位が一定以上のレベルに達していることを要求していました。この制度によって、天皇は、幕府の重要な官職に、幕府の官僚ではなく、自身の側近や家臣を任命することができなくなりました。)

建武の元号は、後醍醐天皇が中国の後漢の光武帝にあやかったものと考えられています。
 光武帝は、政治改革を断行し、漢の繁栄を再現した人物でもあります。後醍醐天皇は、建武の新政においても、政治改革を断行し、新たな政治体制を構築しようとしました。そのため、光武帝の政治改革を参考にしたという可能性もあります。


そして俺が命令する 天皇の命令文「綸旨」
 綸旨による所領安堵制度は、天皇の権威を示すための重要な制度でした。
 この制度によって、全ての所領の安堵は、天皇の綸旨によってのみ、ただそれのみによって行われるとしました。
これにより、武士の所領は、天皇の権威によって保障されることになりました。
天皇は、この制度によって、武士に対しても絶対的権威を持つことを示すことを目指しました。

天皇は形骸化していた官衙の復原を図った。
当時 中務省以下の太政官の八省は政治的活動を停止していたが 八省の長官として大臣級の貴族が任命され、天皇の指揮下に再編成されたある知行国制度の盛行によって 国司も 実を失っていたが、天皇は 地方支配の組織の要として 国司を重視し 、上級貴族や側近を積極的に 国司に登用していった。(逆にいうとこれまで国司だった人は大打撃です。とにかく天皇に忠誠を尽くせという態度。)

◆「建武の新政」の仕組み


後醍醐天皇が作った政府の仕組みについて紹介したいと思います。
後醍醐天皇が政治の中心としておいた一番重要な役所として記録所を置きます 
後三条「天皇」が作ったのも「記録所」なんですけれども
これが「後三条天皇」の以降 だんだん機能が付け加えられて政治の中心として機能していた時期があって
それが一時途絶えたんですけども後醍醐天皇の「記録所」を復活させて政治の中心とした

そして「恩賞方」 「恩賞」事務を行います「幕府」を倒したりした功績がいろいろあるから
あなたに土地をあげよう そういうことになると思います。楠木正成、名和長利。公家や武家が担当する。なお楠木正成、名和長利など武士の名を挙げたが、実は武士は少数です。

そして「雑訴」決断所 訴え「雑訴」と呼びます。鎌倉時代の引付の踏襲です。楠木正成。多くの武士がここに寄人(役人)として採用された。
そして決断 訴えを決断する 裁判でこの時代
 もっぱら政治は土地政策が中心になるしもっぱら裁判というと土地の裁判の話になるわけ

武者所「武士」の世の中から天皇中心の世の中になったわけですので
 「武士」はどういうふうに使われるかというと
役割はちょっと落ち「武士」本来の…しなさいっていうことで

この4つが中央 京都に置かれた。

地方。
東日本ですね大国を支配するために
鎌倉将軍府そして陸奥将軍府をおきます。
そして後醍醐天皇はここに一族の血縁者を鎌倉将軍成良親王 足利直義 陸奥将軍義良親王 北畠顕家をおいていく
各国「国司」「守護」を置きます 本来の意味の守護です。
だから国衆を置いて警察部隊みたいなの配置するよということになります


しかし今まで鎌倉幕府 将軍に付き従っていた「武士」からは「建武の新政」に対する不満が噴出。
「武士」の世の中から突然天皇が治めることになったわけですので
当然主役だった「武士」たちの社会の慣習を無視してしまう。いろんな不満がでる。
 将軍様から御家人に対して新しい土地支給新恩給与されたり それまで通りの土地を認められたり本領安堵とかによって
そういった慣習を無視し 土地の所有を「綸旨」で確認。
この「綸旨」は天皇の命令書で確認するということは天皇の意思1つで所有所領が領地が左右されてしまうということ
その土地がたとえ鎌倉の将軍様から頼朝様以来から認められてきた土地を失われるとか
で大切な土地なのに あんたここっていうふうに決められてしまうと
今までやってきた慣習を無視されていると「武士」たちは思うわけ
混乱をきたしてしまうわけ 長々やっていて落ち着けばいいんですけれども
社会が混乱 四条河原の落書にその混乱の様子が見て取れます 政府の批判文書
教科書にも載っているし資料集に戻っているし非常に有名なやつです


四条河原の落書は、以下の内容で構成されています。
第一段
「此比都ニハヤル物夜討強盗謀綸旨(にせりんじ)等ニテ世ノ人迷ヒ紛レテ、有様ハ夜叉ノ城ニ似タル也。
「今ニハ天皇御教書ニテ、民ニシテハ田畑ヲ捨テ、市ニ出テ商売ヲせよト云ひ、武士ニシテハ刀ヲ捨テ、学問ヲせよト云ひ、僧尼ニシテハ寺ヲ捨テ、農業ヲせよト云ひ、何レカニテモ世ノ人苦シク思フ。」
この段では、建武新政の理想が、あまりにも現実離れしたもので、人々を困惑させていることを、風刺的に描いています。

第二段
「新政ノ恩恵ハ、天皇ノ側近家臣ノモノニシテ、民衆ハ賦役ノ負担ヲ増シテ、苦シク思フ。
「今ハ京都ノ町々ニテ、夜ヲ徹して酒宴ヲ催シ、金銀ヲ浪費スル者アリ。又、田楽ノ芸人ニテハ、一日ニ千疋ヲ得タル者モアリ。
「是カニテ民衆ハ賦役ノ負担ヲ増シテ苦シク思フ。」
この段では、新政の恩恵が、後醍醐天皇の側近や家臣に独占され、民衆は賦役の負担を増大させていることを、風刺的に描いています。

第三段
「新政ニテハ、武士ノ間ニテ不満ト対立ガ広ク広クナリ、今トモ戦争ノ気配ヲ感ジテ居ル。」
この段では、新政によって、武士の間で不満と対立が広がっていること、
そして、南北朝の内乱の勃発を予見するような内容を、風刺的に描いています。

いろんな社会の混乱が後醍醐天皇のせいでこんなに混乱してます
迷惑してんだこっちはっていうようなそういう落書き
そうした不満が世の中全体にあふれていたということです。

 



それで対策として、「諸国平均安堵法」
建武新政の初期、後醍醐天皇は、すべての所領は天皇の綸旨によってのみ安堵されるべきであり、綸旨によらない所領の安堵は認められないという個別安堵法を公布しました。しかし、この法令は、土地領有についての前代からの慣習を根底からくつがえすものであったため、諸国武士の猛烈な反撥を招きました。その結果、所領安堵をめざす武士たちが京都に集まりはじめ、政治の混乱をきたすほどになりました。そこで、後醍醐天皇は、当法の適用を北条氏関係の所領に限定し、当知行安堵については諸国平均安堵法へと変更せざるをえなくなったのです。

また、後醍醐天皇は、建武新政において、武士の支持を得ることが重要であると認識していました。
そこで、諸国平均安堵法によって、武士の所領を一定の基準に基づいて平等に安堵することで、武士の不満を解消し、支持を得ようとしたのです。諸国平均安堵法は、所領の基準を「当知行」と定め、それまでの所領をそのまま安堵するものでした。
これにより、武士は、新政下でもこれまでの所領を維持することができるようになったため、新政に対する抵抗感を和らげることにつながりました。しかし、諸国平均安堵法は、所領の基準を「当知行」としたことにより、新政以前に所領を得ていなかった武士や、新政によって所領を奪われた武士の不満を招く結果となりました。これが、建武新政の崩壊の一因となったとも考えられています。

▲恩賞の不公平。
公家への厚遇
後醍醐天皇は、天皇親政を実現するために、公家を重視する政策をとりました。そのため、恩賞においても、公家への厚遇が目立ちました。たとえば、後醍醐天皇の寵妃であった西園寺禧子や、その一族は、莫大な所領を与えられました。また、後醍醐天皇の側近である公家も、高官や所領を与えられていました。公家への厚遇は、天皇親政の実現という建武新政の理念に反するものであった。

武士への不公平
武士への恩賞も、勲功によって行われましたが、その基準が曖昧であったため、不公平さが指摘されました。
たとえば、後醍醐天皇の側近である武士は、功績にかかわらず、高官や所領を与えられることもありました。また、新政以前から所領を持っていなかった武士や、新政によって所領を奪われた武士は、不満を抱くようになりました。武士への不公平は、武士の支持を失うことにつながった。恩賞の不公平は、社会の不満を高め、足利尊氏の挙兵を促す一因となった。
これらの不公平な恩賞は、武士や民衆の不満を招き、建武新政の崩壊の一因となったと考えられています。


▲建武新政で大内裏の造営の計画。

造営場所:京都御所の跡地
造営規模:前代よりも規模を拡大
造営費用:約100万貫(当時の国家予算の約半分)
造営は、建武2年(1335年)6月から開始されました。しかし、造営費用の調達が困難であることや、戦乱の疲弊から人々の反発が強まったことから、わずか2年で中断されました。

大内裏の造営が問題となった主な原因は、以下の2つです。

莫大な費用。
大内裏の造営には、莫大な費用が必要でした。
その費用を賄うため、後醍醐天皇は、新税の導入や新通貨の発行を計画しましたが、いずれも実現には至りませんでした。

人々の反発。
戦乱の疲弊から、人々の生活は困窮していました。そんななか、莫大な費用をかけて大内裏を造営する計画は、人々の反発を招きました。

大内裏の造営は、後醍醐天皇の権威を誇示する意図があったと考えられています。
しかし、その計画は、後醍醐天皇の理想と現実のギャップを浮き彫りにするものとなりました。


滅亡したのは北条氏。武士は滅んでいなかった。

そういった人々の不満の中 北条氏の生き残りが鎌倉幕府の復活を図ります 中先代の乱。
この鎮圧のために建武政府としても 足利尊氏を送り込んでこの乱を鎮圧しようとするわけ
尊氏は乱を鎮めたのはいいんですけれど
尊氏はそのまま関東に
足利尊氏は過去を鎌倉幕府の御家人でありながら鎌倉幕府を攻撃しています
足利尊氏は人生の中に2回主君を裏切っているわけですね
なので足利尊氏損な役回りというか後世の評価があんまり高くはないわけ
ただこの足利尊氏が歴史を変えるキーパーソンとなった。
 

 

 

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