ロシア史
ロシアは非常に特殊というか、あまり他に例を見ないような変遷があって、非常に弱々しくて、モンゴルによる支配を受け入れていた時期があったり、他の西洋国家と同じように絶対要請を敷いたり、帝国主義を展開したりする時期があったり、革命を起こして社会主義国家として突然国家の生態が大きく変わってみたり、そんな感じでレッドチームの盟主としてアメリカと競合する世界の一大勢力となったりとりあえず何かと世界を騒がせる国家です。

ロシアの地理的。
今のロシアの国土全体のやや西寄りにはウラル山脈が国土の南北を走っています。
このウラル山脈はアジアとヨーロッパの境界みたいなもので、ロシアの多くはウラル山脈よりも西側の世界で起こることになります。
その西側の南端はどこかっていうと、これはコーカサス山脈が境界となっています。今で言うジョージアとアゼルバイジャンがそのコーカサス山脈の向こう側にいる国です。
ちなみに、コーカサスというと、4大人種の一つでオイルの名前の由来となっている場所です。

川。
このウラル山脈より西側の場所で言うと、大きな川が3つあります。
 それはボルガ川、ドン川、そしてドニエプル川です。
ボルガ川はカスピ海に繋がっていて、ドン川とドニエプル川は黒海につながってる。

特にドニエプル川は中世の時代に軍事的攻撃でよく使われる。
 ロシアってやっぱり国土は広すぎるんで、こういう大河を使った攻撃が利用されがちなわけですけど、
なので、そういう大きな川に沿ったところに大きな都市が作られるようになるわけです。
 ちなみに、ウクライナの首都の『キーウ』はこのドニエプル川沿いに作られた都市ですね。
ただ、そんな大きな都市ができるのは9世紀以降なんで、西欧に比べると歴史はそこまで古くない、
それまではこういうエリアにスラブ人って呼ばれる民族が特にまとまることもなく、バラバラと住んでた。
その存在が知られるようになったのは紀元前1世紀頃かららしい。

ただ、スラブ人だけがこの辺に住んでいたわけではなくて、
 当時は東からのイラン系民族がやってきたり、
あとは4世紀のゲルマン人の大移動に関連する形で居住地がまたバラバラと変わったり。

それでスラブ人は大きく西スラブ人 東スラブ人、南スラブ人の系統に分かれる。

西スラブ人は、今のポーランド人やチェコ人。
南スラブ人は、セルビア人やクロアチア人。
東スラブ人がロシア人。ウクライナ人。

ただ、スラブ人が東西南に分かれて、なんとなく民族として自立意識が出てきたのはいいんですけど、
 東スラブ一体をまとめる君主みたいな人はまだ登場しておらず、いくつもの部族に分かれて土地争いとかをしていて、
 社会が不安定な状態にあった。



【ノルマン人の大移動】


そうこうしてるうちに、東スラブの人たちにとって衝撃的な出来事が起こることになります。
それが第二次民族大移動と呼ばれるバルト海方面に住んでいたノルマン人の大移動、9世紀頃から始まるやつですね。
 ノルマン人って、バルト海近辺に住んでいるだけあって、造船技術が優れていて、その優れた船に乗ってヨーロッパの各地を渡りまくって様々な都市と貿易活動をしていたんですけど、それがある時から競争化して様々な都市を略奪するようになっていったんですね。
いわゆるバイキングと呼ばれて、ヨーロッパ中に恐れられたのがこのノルマン人たちなわけですよ。

 このノルマン人の一派にルーシと呼ばれる民族がいた。
  そのリーダーのリューリクっていう人物に率いられて、このルーシが今のロシア方面に進出してきた。
862年 自分でスラブ人たちが住んでいたノヴゴロドっていう街を占領して、そしてスラブを支配する国家を建設します。
これがノヴゴロド国です。(地中海、黒海、バルト海を結ぶ交易ルート「ヴァリャーギからギリシアへの道」のバルト海側の出入り口に位置するノヴゴロド 古くから商業都市として栄えてきた。)
 ノヴゴロド国の成立を持って、一般的にロシアの歴史が始まったとされます。
何を隠そう、ロシアは、ロシアにやってきたノルマン人の一派ルーシからその名前が来てる。

ちなみに、このリューリックの血統を持つ人物がノヴゴロドだけでなく、
 その後のロシアの中心国家の当事者となり続けたんで、この王朝のことをリューリク朝と言います。
その王朝は1598年まで続くのは、実に700年近くも続いた。(➡政治の中心はキエフに移ったが、ノヴゴロドはロシア内陸の毛皮や木材をバルト海交易圏にもたらし、また南のキエフを経て黒海方面とを結ぶ商業都市として栄えた。東ローマ帝国やイスラム世界と盛んに交易をし、ノヴゴロド公国には莫大な富が集まった。12世紀前半にはイヴァン商人団という商人組合が登場した。)

(➡ノヴゴロドはハンザ同盟の四大商館の一つである。木材や蜜蝋なども輸出していたが、なにより最大の輸出品は毛皮であった。)


その後のロシアはロマノフ朝、なのでロシアの歴史での王朝は2つしかない。

また有力者の成立時の話に戻りますが、有力者はほとんど伝説的な人物で、あまりちゃんとした情報が残ってないんですけど、
11世紀頭に編纂されたこの時代のルーシの歴史をまとめた『原初年代記』っていう本によると、
どうもリューリクはスラブ人によって君主として迎え入れられたなんて話があって、
建国伝説あるあるの怪しさ、マウンテンブラシ…。
スラブ人たちは身内の争いに疲れ果ててしまって、それを治める立派なリーダーを求めていた。
 ノルマン人のリューリク、万歳、
 我々スラブ人の土地だったけど、ノヴゴロドあげちゃいますみたいな。


で、ある意味リューリク以上に、後のロシアの歴史に大きな影響を与えた人物がいて、
 それがオレグです。
 今のロシア・ウクライナ問題にめちゃくちゃダイレクトに絡むことをしてますね。
この人は、リューリクの親戚みたいで、リューリクが死ぬ間際に自分の息子と統治をオレグに託したみたいなんですね。

リューリクの息子はイーゴリというんですけど、おそらく多分、小さくて摂政として彼を支えろと言ったのか、
もしくは本当に後継者を任命したのかよく分かりませんが、
このオレグっていう人物、こんな辺鄙なところじゃダメだって言って、ドニエプル川沿いに南下していって、
ビザンティンとの交易の利便性を求めて、『キーウ』の街を襲ったんですね。

 そして、『キーウ』を占領してここを新たな我々ルーシの拠点とするって言って、『キーウ公国』を作ることになります。
ちなみに、『キーウ』は元々は5世紀、6世紀とかそこら辺から集落として発展したらしくて、
伝説では、東スラブ人の3兄弟、キーシェク、ホリフト、その妹のリー美人によって創建されたと言われてます。
その長男のキーから、『キーウ』(ウクライナ語)っていう名前が付けられたみたいです。
ここら辺の話も先ほど出てきた『原初年代記』がソースみたいです。

で、オレグが『キーウ』を襲った時ってのは、どういう人たちがそこにいたのかっていうと、
なんと、リューリクの部下なんて話があります。
リューリクがノヴゴロドに拠点を置いた時に、アスコルドとドスコルドっていうとてもややこしい名前の2人の部下に南の方に様子見させてたみたいで、
 この2人が『キーウ』を発見して、この場所を治めていたらしいんですよ。
でも、リューリクの親戚のオレグがやってきて、この2人のことを殺して、
そして、オレグはルーシの首都みたいなのをノヴゴロドから『キーウ』に移したと。


で、オレグはその『キーウ・ルーシ』によって、30年近く当事者として君臨したんですけど、
その死に際して、なんとすんなり、リューリクの息子のイーゴリーにその座を譲ったわけなんですよ。
オレグには息子はいなかったんですかね。リューリックの息子にわざわざこれを譲るなんてね、
相当信頼関係があったのか、もしくはイーゴリーがリューリクの息子ではないなんていう説もあるらしくて、
とりあえずこの辺の話は不明なことが多いと。それがロシアの創世記なんですね。

なお、ここで成立した『キーウ』国は13世紀にモンゴルに滅亡させられてしまうんですけど、
ロシアはそれまで『キーウ』を中心に発展することになる。

オレグが行った土地をルーシの中心拠点としたのが、
 今のロシア・ウクライナ問題にバリバリ直結してしまってるわけですよ。

ロシアの歴史が、一旦『キーウ』に中心地が移ると、『キーウ』公国がモンゴルによって滅ぼされた後、
ルーシは様々な地方政権に分かれたんですけど、その後に有力になった存在がモスクワにいた勢力だった。
これがモスクワ公国として発展していって、そしてやがてロマノフ朝・ロシア帝国へと続いていく。

モスクワ公国の君主たちも、リューリックの血統を継ぐ人物だとされちゃったんで、
『キーウ』公国とロシアの歴史は繋がってるとも言えるわけ。これは物事をややこしくさせますよね。

ロシアの名前の由来となった人たちが、
 ノヴゴロド、『キーウ』、そしてモスクワと、その勢力範囲を変えていく
今のロシアは『キーウ』をとても大切な起源と考えていて、
でもウクライナからしたら、ロシアは、どう見てもモスクワ公国が拡大して成立した国だろうという考えもあるわけですよね。
だからこそ、『キーウ』・ルーシは、ウクライナの栄光の歴史であるその名前を、勝手にお前らが盗むんじゃないなんてね。
そういうこと言うわけです。

 

キエフルーシは、「リューリク」の親戚のオレグによって作られたような国ですけど、

「キエフ」が立派な一大国家となったと言えるのは、オレグの死後、その後を引き継いだイーゴリの時代あたりからなんですよ。イーゴリは、「リューリク」の息子と言われる人物ですが、

彼は「大公」として周りの功を従えるようになるんですね。

なので、この時代のキエフ市のことを「キエフ大公国」なんてよく呼んだりします。
 いきなりキエフを中心に様々な都市国家が周りにあって、そういう都市国家は公が治めていたと
で、キエフがあくまで首都機能を持って、そこの長が一番偉いんで、だから「大公」であると
で、「大公」が治める国だから「キエフ大公国」ってことですけど、ややこしい。
ついでに説明すると、なぜキエフは「公国」なのかっていう、なぜ王国ではないのかって思いますよね。
一般的に王は公よりも偉いわけですよ。数々の功を従えるのが王であるわけで、
この体制であれば「キエフ大公」はキエフ王でいいじゃないかと。
実はもともと「公国」の君主は王の称号を意味していたんですよ。キエフの君主は正確には国味っていう証拠だったんですけど、
苦藤2と字ですからね、アルファベットでKとNとGですから、これ英語のキングと語源が同じわけですよ。
だから、キエフの君主は王と同じと言っても差し支えないんですが、でもこの国味という称号は、ゲーム対「公国」の中の中央「公国」の君主たちも使うようになって、簡単に言うと、国安時の安売りが始まってしまったんですね。
なんで、クニアジっていう称号がちょっと王より一つランクが下げられてしまって、
そして「キエフルーシ」そのものが国味が治める国ってことで「公国」扱いになってしまったと。
だけど、「キエフ」がまだ他の「公国」を従えてる間は彼らとは区別して「大公」っていう扱いにして、
だから「キエフ大公国」であるって事らしいんですね。
本当に一般的な意味で「キエフルーシ」は「公国」であるのならば、
その上にいる王国とか帝国があるわけで、キエフの宗主国は何になるのかと
ビジネス用かみたいな。

でも、そんなわけじゃないのですよ。というやや複雑な話から始まりましたが、
とりあえず、イーゴリーが「大公」とし治め始めたわけなんですね。
というのも、彼は結構キエフの外にスラブ系の彫刻家に赴いて自分たちに従うように働きかけて、それで納税の義務を負わせたりね。蜂蜜とか毛皮とかを治めさせて、そんで、それらをビサンツとかイスラムとかとの交易に活用して、
その経済力が「キエフルーシ」を支えていくことになります。
だけど、イーゴリはその後若くして敵対部族によって暗殺されてしまうんです。

息子はいたんですけど、この時はまだ多分小さくて、いきなり後継者問題発生かっていうとき。
そこで活躍したのが、イーゴリーの奥さんのオリガです。

彼女はね、中国の悪女って呼ばれるような人たちとだいぶ違って、すごく立派な人で、
イーゴリーを殺した部族に対してはめっちゃ厳しい態度をとって、徹底的に殲滅させたり、外交ではビザンツ帝国と友好関係にきずいたり、神聖ローマ帝国創始者のオットー1世と交流を持ったり。
それでいて、国内は税制改革を実施して国力を高めたりと、理想的な形で自身の息子が大きくなるのを待ってバトンタッチをしますということで、その息子のスヴャトスラフね、非常に発音が難しい。
このスヴャトスラフは結構好戦的な人で、周りの国と戦いながらその領土を広げていきます。
有名なところだと、カスピ海を北部に行った流木系国家のハザールハンコックとか。
そうやって国土を広げて達成した

営業っていうか重要なことといえば、何があるかというと、ノヴゴロドから黒海までの道は全て裁量以内に入ったんですね。
この時代の物流ルートとしては、川に下って海に出て外国と攻撃するのは特に強いですから、これは結構大事なことなんですよ。
てか、ロシアって近代に入ると、凍らない港を求めて南下政策はしまくりますけど、
ある意味、このロシア創世記からもある伝統的資産なんですね。南下政策は。

そんなスヴャトスラフも、971年に敵対勢力に襲われて死んでしまう。
その後は、3人の息子たちが醜い身内争いを始めてしまいます。その3人とは、長男ヤロボロク、次男オレグ、そして三男のウラジーミルです。ヤロボロクはまずキエフ大公を継いだんですけど、その後次男のオレグを殺してしまいます。

で、三男のノヴゴロドは怖いですから。彼はノヴゴロドを治めていたんですけど、
もう怖いんで、一旦故郷のノルマン人の地を頼って、ロシアから逃げて、
それで、ロヌマン人たちと一緒にやろうプロークと戦って、その最中にはポルカが死んでしまう。と
で、これで晴れてウラジーミルがキエフ大公のつくことができたんですけど、
この人の時代に、その後のロシアの流れを大きく決定づける一大イベントが起こります。

キリスト教への改宗です。
元々水ダンスと仲良くなってみたり、やっぱ戦争してみたり、不安定な関係だったんですけど、985年にビザンスって国内で反乱が起こった時に、ウラジーミルは当時美男子皇帝のバシレウス2世から救援を求められたんですよね。で、その救援をする代わりに、お前の妹と結婚させろってことを言ったわけですよ。そんで、バシレイウス2世もその条件を飲んで、この反乱無事鎮圧されたんですけど、おそらくその結婚をきっかけに美男子とキエフは親族関係となって、そしてキエフ工学は美ダンスと同じくキリスト教を選ぶことになったと。もちろんカトリックじゃないですよ。ビザンツなんで、これは正教会です。ロシアって今でもロシア製協会か国境ですよね、これ。この時代のウラジーミルの決断に基づくものなわけですよ。あとは、ビザンツが後に滅亡した時に、ロシアは東方生協の保護者を主張するようになって、つまりビザンツの後継としてロシアに皇帝が生まれるのもこの流れを辿るわけですね。で、ウラジーミルはそういうことやったんだよってことで、その次の世代の話になりますが、1015年にブラジルが死ぬと、今度はまた息子たちによって相続争いが起こって、そのうちヤロスラフっていう人とかって、キエフ「大公」のポジションをゲットすることになるんですが、この人の時代に、キエフルーシは最盛期を迎えることになります。凱旋をして領土を拡大させたのあるんですけど、この間、西ヨーロッパジョークとも密接な関係を築くんですね。自分の娘をフランス、ハンガリー、ノルウェーの多くに嫁がせたり、息子をポーランド王の妹と結婚させたり、自分もスウェーデンの娘と結婚したり。そんな彼についたあだ名はヨーロッパの岐阜。すごいですよね、ヨーロッパの岐阜。なんか妙な距離感を感じるの、私だけでしょうかね。で、この人の時代まではキエフは調子良かったんですけど、その後の時代になると、身内争いが続いて、「大公」の権威が下がってきてしまったり。あとは、遊牧民が侵入をしてきたりして、数多くの「公国」が系列「大公」国から分離独立してしまったんですね。で、キエフ「大公」国はこれによって「大公」国ではなくなって、他の分離独立した航空の中の一つにすぎない、単なるPF公国って扱いになっていきます。
これがだいたい12世紀から13世紀ぐらいのことですね。で、13世紀というと、世界史上とてつもなくやばい出来事が起こる正義なんですが、それは何かって言うと、そう、誰もが恐れる恐怖の大帝国、モンゴルの大躍進ですね。モンゴルがどんどん西の方面にもやってきて、そしてキエフルーストのぶつかることになります。この時のキエフは先ほども言ったようにただの一意「公国」ですからね。こんなのが最強最悪なモンゴル大戦線に勝てるはずがないんで、キエフ「公国」は1240年にモンゴルの英雄バトルによって滅亡させられてしまいます。そうやって契約「公国」が滅亡られた頃、他のロシア国家はどうしていたかというと、彼らもまた同じようにモンゴルの襲来を受けていたんですね。実はキエフ「大公」国が分裂してキエフ公国となった頃、逆に勢力を持っていた国はどっかっていうと、これはなんとノヴゴロドなんですね。なんか原点回帰感がありますが、ノヴゴロドはバルト海と通じることがあって、経済力があって内陸が戦争とかで商業活動が厳しくなってきた頃に、経済的立場が逆転してきてたわけですよ。でも、そんなノヴゴロドもモンゴルからの攻撃を受けていたんですけど、そこのこうだったアレクサンドルネフスキーという人がですね、これまたうまい立ち回りをするんですよ。アレクサンドルネフスキー。ロシアで超有名人ですよ。彼はロシアでは英雄と呼ばれてます。

 

実はロシアはこの時、モンゴルだけじゃなくて、西側からも危機が訪れていたんですよ。

というのも、ウラジーミルがキリスト教を受けたのはカトリックではなく正教会だったじゃないですか。

なので、スウェーデンとかドイツ騎士団とか、カトリック勢力からも攻撃を受けたんですよ。

 

東西どっちもやばいって時に、彼が起こした行動ってのが、モンゴルに対して服従を誓います。

モンゴルは自分たちに従う者には寛容ですから。

それが、別に異教徒だろうと、人種とか民族は散らばろうと、自分たちに従っていて定められた税金を払えば良しとする人たちなんですよ。

 

ちなみに細かいですが、ネフスキーが侵入したモンゴルはジョチウルスです。

キプチャク汗国とも言います、

ジョチ家の人間によって運営されたモンゴルの中の小国川ですね。

とりあえずネフスキーはモンゴルの服従によって東側の安全を確保した上で、

宗派は違うけど、同じキリスト教徒であるカトリック連中に対しては徹底抗戦をしたんですね。

これぞ逆十字軍みたいなもんですよ、

異民族に心中し、キリスト教と本気でぶつかるっていう

で、ネフスキーは戦闘の才能があったようなんで、

ドイツもスウェーデンをぶっ倒して、そしてロシアを滅亡の日から救ったってことで、英雄扱いされてるんですね。

 

実は、第二次大戦の時にスターリンがロシアの民族意識を高めるために、このネフスキーを主人公とした映画を作ってるんです。そのネフスキーをアレクサンドロズ大王にも匹敵するような大英雄として描いたとなぜ名前もアレクサンドルですしね。

第二次大戦の戦う相手がネフスキーの時と同じくドイツが相手ってことで、

ネフスキーをプロパガンダとして利用しようとしたってことはわからんでもないですね。

ということで、ネフスキーのやったことは、このようにロシアでは英雄扱いされているわけですけど、


でも、彼がそういう選択をしたことで、この後ロシアはタタールのくびきと呼ばれる時代に突入するわけですよ。

タタールのくびき、

 簡単に言うと、モンゴルの手下として苦しんでいたとされる時代なわけです。

でも、これも後のロシア人がモンゴルから独立するときのイメージ戦略的なところがあって、タタールのくびきは15世紀末に2番3世という人によって終わるんですが、ロシアは、モンゴルという野蛮民族によって抑圧され、キリスト教信仰が弾圧され、とてもひどく苦しい目に遭わされてきたのだ、それを解放したイヴァン3世を、何と素晴らしいことか、ロシア万歳、モンゴルはクソみたいな、ね、

 

でも、実情は、ロシアの英雄レフスキーが選んだのが、モンゴルの心中であって、

それで、ネフスキーは、モンゴルの協力もあって、ウラジーミルっていう都市も抑えて、

そして、裏では「大公」という、さらなる高みにも到達します。

「ゲーム」大公がいなくなった今、新たな「大公」は俺だ、ってことですね。

で、しかも、そうやってモンゴルの後ろ盾があるんで、モンゴルへの反発運動は躍進するんですよ。

ルージ右翼みたいなのは弾圧して、そして、モンゴル人に対して尻尾を振るっていう、それがロシアの英雄ネフスキーと。だから、結構歴史って、その時代の当事者とか、その国がどう扱いたいかによって、まあいいように物事を解釈されるんだなっていう、とてもいい例だと、個人的には思います。

結果的に、ロシアを滅亡の日から救ってはいるんで、

ネプスキーが英雄であるのは間違ってないと思いますけどね。

で、そのネフスキーの息子の一人は、モスクワ公となって、ネフスキーの死後、モスクワ「公国」は、やがて大発展を遂げることになるわけです