イスラムの歴史をやっています。
それでイスラムが広がったよ、っていう話を、アフリカの話をします。
(エジプト除く)

まずはエチオピア、
エチオピアはナイル川の上流にあたります。エチオピア高原(アビシニアともいう)。

 ここでは前250年頃の最も古い道具である礫石器が見つかっており、

 アフリカに登場したホモ=サピエンスが旧石器文化を獲得した最初がエチオピアの地であった可能性がある。

 

エジプトとも密接なつながりがあります。文明の段階になると、早くからエジプト文明の影響も受けていた。
この王国が、一時はエジプトを滅ぼすほどの勢いを見せました。
しかしこの後、アッシリアに攻められ後退だから、紀元前のかなり昔の話を今してますよ、王国と言われるようになります。
そして、このエチオピアは、かなり古くからキリスト教を受け入れた国の一つです。
あとは、アルメニアとか、エチオピアが、キリスト教を古くから受け入れているところです。
どのぐらいかというと、ローマ帝国がキリスト教国教にする遥か前に、キリスト教を国教にしているということです
で、以後、エチオピア存続する。年代でいけば、

紀元前900年代が、クシュ王国 現在のスーダン(古代ではヌビアとも言われた)、アフリカの黒人最古の王国

エジプト文明の影響を受けて成立 はじめはナパタを都

エジプト新王国時代にはその征服を受けたが、前8世紀頃は勢いを盛り返し、

エジプト末期王朝の時期にはエジプト全土をを支配(第25王朝)しファラオを称したこともある。

前671年にアッシリアがエジプトに侵入しすると、それに押されてナイル上流に後退した

「メロエ」前540年頃、都を南のメロエに定め、これ以降をメロエ王国とも言う。

メロエ文字と鉄器文明。「アフリカのバーミンガム」メロエ

プトレマイオス朝エジプトやローマ帝国とも交易を行い、

またアフリカ内陸部の文化にも影響を与えた。ローマ帝国はたびたびこの地に遠征している。

 

350年ごろ、アラビア半島からエチオピアに侵入したアクスム王国に圧迫されて滅亡した。

 


アクスム王国、AD350ぐらい 
これはかなり、エチオピアの歴史はかなり昔の話だなって、

 

 紀元前後から7世紀ごろまでアクスム王国が栄え、

 最初のアクスム王国を建国した人々も紅海をはさんだアラビア半島南部とから渡ってきたセム系民族とされる。

紅海を利用したアラビアとの交易で繁栄し、プトレマイオス朝エジプトやローマ帝国とも交易を行った。

3世紀にはローマ帝国の衰退に乗じて、紅海からインド洋に進出し、一時はアラビア半島まで支配した。

ビザンツ帝国やササン朝ペルシアとも盛んに交易を行った。
 

 彼らはアレキサンドリアで盛んだったキリスト教の単性説を受け入れ、

 エジプトのコプト教会のキリスト教信仰の影響を強く受けた、独自の東方系キリスト教会をつくり、信仰をつづけた。

 

伝説では「シバの女王の国」といわれ、アラビア半島との関係が強い。

7世紀以降はイスラーム帝国が成立し、アクスム王国は衰退した。西隣のスーダン方面からのイスラーム教の浸透が続いたが、

エチオピアは高原地帯であるという地形的な条件もあってその浸透の度合いは低く、

その後も変遷を遂げながら王国とキリスト教信仰を存続させてきた。


で、10世紀以後、
エチオピアは特に昔からあって、以後はエチオピア王国としてずっと存続していくんですけれども。
エチオピアの話だけかなり前。


ここからあとは、だいたい10世紀から後の話です。
 

 

アフリカの北部。ウマイヤ朝。そして後ウマイヤ朝。
そしてムワッヒド朝ですね。最後は、ナスル朝とイスラム国家が続きます。


その影響を特に受けた地域があります。西アフリカと言われる地域です。
まず、ガーナ王国がアフリカ西部に存在した。ニジェール川上流に成立し、8~11世紀に栄えた黒人王国。
 サハラ砂漠の南縁のニジェール川上流域(現在のマリとモーリタニアの国境地帯。

金や銀の産地として知られ、サハラ北部の岩塩と盛んに交易をしていた。

(アフリカでは塩が貴重だったので、塩と同じ重量の金と交換したという。)

また、ガーナ王国の王宮では犬も金の首輪をしていたという。これらの情報はイスラーム商人を通じてもたらされた。

 

首都は現在のモーリタニアのマリ国境近くにあるクンビ・サレー遺跡ではないか、と推定されている。

この遺跡からは多層の石造建築物や墓所が発掘され、当時の人口は1万5千~2万と推定。

またムスリム商人との交易を通じてイスラーム教も伝えられたが、ガーナ王国の王はイスラーム教に入ることはなかった。

 

 

ムラービト朝のガーナ占領によって、アフリカ内陸のイスラーム化が本格化した。厳格なイスラーム教スンナ派

11世紀の王朝ムラービト朝に征服されますよね。
当然、ここにムラービト朝がイスラム教を運んでくるわけですね。イスラム化が進行します。


その次に栄えたのがマリ王国です。中心都市は、トンブクトゥっていう都市、

 

 

「マンサ=ムーサ」という王様がいて、
この「マンサ=ムーサ」はアラビア半島メッカに巡礼をした敬虔なイスラム教徒としても知られます。

 14世紀には全盛期を迎え、国王マンサ=ムーサがメッカ巡礼を行ったことで有名である。

マリ王国第9代の王であったマンサ=ムーサはイスラーム教徒の義務の一つであるメッカ巡礼に出かけたとき、

奴隷500人を引き連れ、大量の金を持参、途中のカイロではそれを喜捨として与えたため、金の相場が下落したという。

 

 


そして、このマリ王国はイブン=バトゥータが訪れたことでも知られます。

 

 

マリ王国の次に「ソンガイ」王国という王国が成立します。
 15世紀に成立した西アフリカ、ニジェール川流域の黒人イスラーム教国。

 1591年、モロッコの鉄砲隊の侵攻により滅ぼされた。


昔は「ソンガイ」王国でも金を「産出」したんですけども、その金の「産出」の中心、例えば金を生産して運び出す時に、
どこから商人に、どっから来たって言うと、「トンブクトゥ」から来ました、論文から来ましたって言うから、
金を生産するその黄金郷として、ヨーロッパの人たちに知られたのが、この「トンブクトゥ」です。

山口昌男『アフリカの栄光と悲惨』p.37
 15~16世紀、西アフリカのニジェール川流域に登場したイスラーム教国でサハラ世界で最大の領土を有して繁栄したので、ソンガイ帝国、あるいは都の名前を取ってガオ帝国などとも言われる。ガーナ王国、マリ王国とほぼ同じ領域を支配したが、その中では最大となった。1468年にはトンブクトゥ、1473年ごろにはジェンネの町を支配し都はガオに定めた。領内には金と岩塩が豊富に産出し、サハラ以北のマグリブ地方のベルベル人諸国と盛んに交易し、繁栄していた。

 



続いて、アフリカ東部の海岸地域です。
アフリカ東部の海岸地域は、古くから、アラビア半島や、あるいはインド、あるいは東南アジアから船で、どんどんどんどんやってきます。アラビア半島から商人がたくさんやってきますので、イスラム化もかなりどんどん進行しているわけですね。
アフリカ東部には、アフリカ東部は、点でいきます。

ここに4つ町があり、
北からマリンディ、モンバサ、ザンジバル、キルワ。
特によく出るのは、ザンジバルとキルワ。ムスリム商人が来航し、これで、イスラム化が進行するわけですね。
これらの町では、アラビア語。これらの町ではアラビア語の影響を受けた輪切りを使用しています。
イスラム化が進行し、このアラビア語、イスラム教徒が使っていたアラビア語の影響を受けたスワヒリ語をよく使用しています。
こんにちはなんかは、さっきのイブン=バトゥータが来たということでも知られますので、
このイブン=バトゥータが訪れた先を考えてみると、先ほどのマリ王国、そしてこのキルワは、
あるいは、イブン=バトゥータは、どの辺かというと、現に訪れてます、
イルハン国にも訪れている。だから、こういうことを考えると、
さっきのマリ王国、中国の元、あるいはイルハン国、そしてこのキルワの繁栄が「14世紀のイブン=バトゥータが訪れた地域」でピシッと揃うんじゃないかなと思います。

マリンディ(鄭和とバスコダガマ)
アフリカ東海岸の海港都市でムスリム商人が活動。15世紀初めには鄭和艦隊、末にはヴァスコ=ダ=ガマも来航した。

海港都市としてムスリム商人の活動したモンバサの北に位置し、いわゆるスワヒリ語とスワヒリ文化が広がった地域である。
 15世紀の明の鄭和艦隊の分遣隊がやって来たが、中国資料に「麻林」とあるところがマリンディであるとされている。

鄭和艦隊は、マリンディから麒麟など珍しい動物を中国に連れ帰ったという。
 鄭和に遅れて、1498年4月4日、ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマ艦隊がマリンディに到着。

ガマはマリンディでアラブ人の水先案内人イブン=マージドを雇い、この地から季節風を利用してインドのカリカットに渡った。

モンバサ(ポルトガル城砦都市)
アフリカ東岸の海港都市で、ムスリム商人が活動。

1592年、ポルトガル人が城砦を築き拠点とした後、1698年にはオマーンのイスラーム政権に支配される。
いわゆるスワヒリ語圏の重要な海港都市。

15世紀末のバスコ=ダ=ガマ船団以来、インド洋交易圏に進出したポルトガルは、16世紀初めにアルメイダの指揮する艦隊がモンバサに上陸、現地民の抵抗を抑えて占領した。1592年にはポルトガルはアフリカ東海岸の植民地支配の拠点としてその地にフォート=ジーザス要塞を築いた。こうしてモンバサはアフリカ東岸におけるポルトガルの植民地支配の拠点となった。

ザンジバル(島)(奴隷交易の島)
インド洋に面したアフリカ東海岸の近くにある島。ムスリム商人による奴隷貿易の中心地となりスワヒリ文化が栄えた。

現在は大陸側の旧タンガニーカと連合してタンザニア連合共和国となっている。
 

8世紀以来、ムスリム商人が進出してからイスラーム化が進み、内陸部の黒人を捕らえて奴隷とするムスリム商人による黒人奴隷貿易の拠点とされるようになった。そのため、アラビア語で奴隷を意味するザンジュから、ザンジュの国という意味でザンジバルと言われるようになった。

 9世紀後半にはアッバース朝に対する黒人奴隷の反乱であるザンジュの乱がおこっている。この地域がイスラーム化し、ムスリム商人が活動するようになって、現地のバントゥー語系の言語とアラビア語などが融合してスワヒリ語が生まれ、独自のスワヒリ文化も生まれた。ザンジバルはその中心であった。


ポルトガルの進出
 15世紀末のバスコ=ダ=ガマのインド航路開拓からポルトガルの進出が始まり、

1592年に北方のモンバサが占領されるとアフリカ東海岸はその支配下に入った。ザンジバル島もポルトガルによって占領された。


キルワ(島)イブン=バットゥータ来訪『三大陸周遊記』

アフリカ東岸でインド洋交易圏に面した島。タンザニアの南部。

ムスリム商人の交易拠点として、12世紀ごろ全盛期となった。スワヒリ文化の中心地でもあった。
 その対岸の大陸側の都市がキルワマソコ。8世紀以降にムスリム商人の活動拠点の一つとして、

アフリカ内陸産の金や象牙、奴隷とインド方面からもたらされる中国の絹や陶磁器などの交易の中心地の一つとして繁栄した。
 この地に伝えられる『キルワ王国年代記』というアラビア語で書かれた文献には、

ペルシアのシーラーズから王侯たちが7隻の船に乗ってやってきてキルワの町を築いたという伝承が記されている。

キルワ王国はソファラからもたらされた金や象牙、奴隷などの交易などで繁栄し、

14世紀のイブン=バットゥータが来訪したことが『三大陸周遊記』に記されている。



最後、南アフリカ、南アフリカはイスラム圏ではありません。

ジンバブエ。
ジンバブエは、遺跡の名前です。このジンバブエ遺跡を中心に、一時の繁栄を見せました。
世界遺産のホームページで知ることができるので、ジンバブエ。結構不思議な遺跡ができてます。


この後 モノモタパ王国。16Cです。
アフリカ東南部の内陸、ザンベジ川・リンポポ川に挟まれた高原地帯に存在した黒人王国。ほぼ現在のジンバブエ共和国の範囲に当たる。グレートジンバブエ遺跡を中心とした文明が衰えた後の15世紀ごろ成立し、金や象牙などを海岸のソファラなどを通じてインド洋交易圏と交易して繁栄した。東部の海岸に侵出したポルトガルとも交易を行い、17世紀にはポルトガル軍の侵攻を撃退した。しかし18世紀以降は次第に多くの小国に分かれ、19世紀末に滅亡した。そのころ侵出したイギリスのセシル=ローズによってローデシアが建設された。