(世界史の窓メインに)

ウィトルウィウス的人体図』ダヴィンチ

レオナルド=ダ=ヴィンチ
15~16世紀、イタリアの代表的なルネサンス人。美術以外にもさまざまな分野での技術者としても活躍した。「万能の人」

フィレンツェ、ミラノ、ローマで活動した後、フランスに渡り、フランソワ1世の保護を受けた。

代表作は『最後の審判』、『モナ=リザ』など。その他多数の手稿が残されている。

 

フランソワ1世VSカール5世との対立

 フランソワ1世は即位直後の1515年、イタリア戦争の再開を宣言。

(マリニャーノの戦い)

 ミラノを攻略し、スイス人傭兵部隊を破った。

 

1519年、ハプスブルク家のカール5世と神聖ローマ帝国皇帝選挙を争い敗れる。
神聖ローマ皇帝選挙に敗れる 1519年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が死去したため、

 金印勅書の規定に従い皇帝選挙が行われることとなり、

スペイン王カルロス1世(ハプスブルク家)とフランス王フランソワ1世(ヴァロワ家)の二人が立候補。

 選挙権を持つ選帝侯に対し、それぞれが猛然と買収攻勢を競った。

 

 フランソワ1世はフランス王として初めての立候補であったので選帝侯買収に努めたが、

  その財源は臨時課税と官職売り出しに依存し、不足分は借金した。

 

一方のカルロス1世にはヴェルザー、フッガーなどの金融家が出資、

 フランソワ1世が金換算1.5であったのに対し

 カルロス1世は2トンを集め1519年6月26日、皇帝に選出されカール5世となった。

 

 

◆サンピエトロ寺院

ブラマンテ
15~16世紀、ミラノ、ローマで活躍した建築家。サン=ピエトロ大聖堂修築の設計図を作成した。
 ミラノの実力者ルドヴィゴ=スフォルツァ(イル=モーロ)にまねかれサンタ=マリア=デラ=グラッツィェ聖堂建築にあたった。その壁画として描かれたのが、レオナルド=ダ=ヴィンチの『最後の晩餐』である。

 晩年はローマに招かれサン=ピエトロ大聖堂の修築にあたったが生前には完成せず、

  ラファエロ、さらにミケランジェロに引き継がれた。

 

◆でかいダビデ像 ミケランジェロ


 …フィレンツェではサヴォナローラが異端とされて処刑された後、動揺が続いていた。ようやく1502年、共和政体の維持を掲げたソデリーニが終身執政官に就任して安定を取り戻した。ミケランジェロもその前年にフィレンツェに戻っており、共和国政府から「ダヴィデ像」の政策を委嘱された。ずいぶん前から大聖堂(ドゥオーモ)に放置されていた巨大な大理石を使い、三年がかりで1504年に完成させた。ミケランジェロはまだ29歳であった。4メートルを超える巨像・・・・

 

設置場所をめぐるダ=ヴィンチとの確執  

 ミケランジェロのダヴィデ像がほぼ完成した時、フィレンツェ共和国政府は、この事業を直接に担当した毛織物業者組合をしてこの像をどこに置くべきか検討会を開催させた。その委員会にはボッティチェリやダ=ヴィンチなどすでに名声を得ていた芸術家が参加した。その委員会でダ=ヴィンチは議会前の広場でなく、その横のロッジア・ランツィの屋根の下に置くべしと主張した。風雪による破損を避けるために室内が良いというのがダ=ヴィンチの主張だったが、作者のミケランジェロは強く反発した。

ミケランジェロはあくまで“民衆の広場の光の中に!”置くことを主張したのだった。結局作者の意図が尊重され、この像は、政庁(パラッツォ=ヴェッキオ)前のシニョリーア広場に置かれることになった。そうしてダヴィデ像は、メディチ家を追放し共和政を守ろうとするフィレンツェ民衆のシンボルと見做され、フィレンツェの人びとはその後の年代を「ダヴィデ立てられしより」何年と数えるようになった。<羽仁五郎『ミケルアンヂェロ』1939 岩波新書 p.158-160>

 

◆「アテネの学堂」ラファエロ バチカン教皇庁

 

ダンテ 『神曲』をトスカナ語の口語で著作し、ルネサンスの嚆矢となる。

…文章語としてラテン語がまだ圧倒的優位を占めていたが、

1200年代後半に入ってようやくイタリア半島各地に勃興しつつあった俗語文学の詩法に、ダンテは着目した。

…ラテン語による詩論『俗語論』(未完)も執筆した。

➡今日のイタリア語に大きな影響。

 

チョーサー
14世紀後半、イギリスの詩人、文学者。『カンタベリ物語』を著し、

イギリス・ルネサンスを代表する文学者とされ、イギリス国民文学の祖とも言われる。
イギリス王室に仕える役人として、イタリアに赴任し、ボッカチォ(デカメロン)やペトラルカの文学に接し、自らも英語で物語や詩文を書いた。作品はいくつか知られているが、その代表作は1391年ごろに書いた『カンタベリ物語』で、カンタベリに巡礼に集まったさまざまな階層の人びとがそれぞれ物語るという形で、人間の欲望や諧謔などを面白く描いた。

(オムニバス 千夜一夜物語➡デカメロン➡『カンタベリ物語』みたいな)

 

これは英語で書かれた文学としては最も早く、イギリス文学の出発点にある作品として評価されてチョーサーを「英詩の父」と呼ぶ人もいる。

 

◆天路歴程はバニヤン。聖書みたいな物語。

プロテスタント世界で最も多く読まれた宗教書とされ、特にアメリカへ移住したピューリタンへ与えた影響は『若草物語』にも見える。"City of Destruction"(「破滅の町」)に住んでいたChristian(クリスチャン、基督者)という男が、「虚栄の市」や破壊者アポルオンとの死闘など様々な困難を通り抜けて、「天の都」にたどり着くまでの旅の記録の体裁をとっている。

 

 

『痴愚神礼讃』『愚神礼賛』 エラスムスのラテン語による諷刺文学である。1509年に執筆され、1511年に初版刊行された。

 

エラスムスは1509年にロンドンを訪れ、親しい友人トマス・モアのもとに滞在している間、

旅行中に着想した諷刺文をわずか1週間程度の短期間で一気に書き上げたという。

本書は1511年の出版以来、ヨーロッパ各国で翻訳や海賊版が多数出版され、何十もの版を重ねて宗教改革における一大ベストセラーとなった。一説には数十万部も刷られたとされ、当時としては破格のベストセラーである。

しかし、宮廷人や至尊の教皇をも対象とするその過激な諷刺内容からしばしば教会・聖職者より敵視されて発禁処分を受け、問題となる部分を削除した版も出版された

 

全文ラテン語で書かれており、その内容は主に、虚構の島の社会、宗教、社会的政治的習慣について述べた枠物語である。現代の「ユートピア」という言葉から受ける理想郷のイメージにもかかわらず、モアがこの本で述べた社会は、実際には決して完全な社会ではないと広く受け止められている。むしろ、想像上の土地の通常とは違った政治的考えと、現実世界での混沌とした政策とを対比して、ヨーロッパの社会問題について議論するための、政策要綱とすることを望んでいたとされる。

 

ペトラルカ、イタリアの詩人・学者・人文主義者。

 ペトラルカは、学者としてはキケロに範を取ってラテン語の文法を整備し、

また詩人としては一連の抒情詩集(カンツォニエーレ(イタリア語版))を物した。

 

 

モンテーニュ

『エセー』もしくは『随想録』

 

 

 

このころはアリストテレスを軸に学問が見直されて…

ロジャー・ベーコン(1214年 - 1294年)「驚嘆的博士」(Doctor Mirabilis)とよばれた13世紀イギリスの哲学者。

カトリック司祭で、当時としては珍しく理論だけでなく経験知や実験観察を重視したので、近代科学の先駆者といわれる。

実験重視。ぜんじろうみたいな。イスラーム科学の影響あり。

参考 トマス・アクィナス(1225年頃 - 1274年3月7日)。(神学大全)

神学大全で学者で引用される人は

 アリストテレス、アウグスティヌスやアヴェロエスことイブン=ルシュドとかであって、

 書いてる著者本人トマス・アクィナスがこの神学大全に出て、ペラペラ語ってたら「なにこいつ」と思われるかも。

 

なお認識論哲学とかいうと「カント」を思い出してしまうが、全然時代の違う人。

 

 

◆エリザベス1世 この人は1553年から1603年ごろ。

 

◆錬金術

「ヘルメースの術」(hermetic art)は、錬金術を指す。

中世ヨーロッパではヘルメース哲学が、錬金術や医学的伝統などと合わさり広まっていた。

で、錬金術は12世紀ルネサンスでのキーワードで、14世紀のルネサンスの先駆でしょ。

ロジャーベーコンは14世紀の人。

12世紀ルネサンス=大翻訳時代
翻訳活動の中心地 シチリア王国の首都パレルモ。
 フェデリーコ2世の宮廷でイスラム(アラビア語)やビザンツ(ギリシャ語)の文献がラテン語に翻訳された。
カスティーリャ王国(スペイン)の都市トレド。
レコンキスタの進展により1085年にカスティーリャ国王アルフォンソ6世がイスラム勢力から奪還。

 

◆場所確認

 ペルセポリス。


ベヒストゥーン碑文
前6世紀末、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世が内戦に戦勝したことを記念に都ペルセポリスの郊外の山腹に作られた巨大な石碑。ダレイオス1世の勝利を示すレリーフと、古代ペルシア語、エラム語、アッカド語の3言語で書かれた碑文が楔形文字で彫られている。1847年、イギリス人ローリンソンによって解読された。

 

ブルームバーグより
アメリカ株 債券の年説を 圧倒。
去年12月の時点では、2023年は債券の年だと言われていたのですが、現在では株式に需要が殺到し、世界中で猛烈な株高を巻き起こしているというブルームバーグの記事です。投資家は株式に対して楽観的になっていて、相場の上昇は終わりそうにないことを示唆している、こういうことのようなんですが、ブルームバーグによりますと、今年は債券相場が急伸、急に伸びる年になる環境が整っていたと、アメリカの中央銀行に当たるFRB(連邦準備制度理事会)の積極的な利上げ策が終了して、緩和策に軸足が移れば、相場は上昇に転じ、景気下降に対する保険となるはずでした。
ところが、アメリカの経済成長が加速を続け、FRBのスタッフは景気後退を予想していません。
こうした想定外の展開を受けて、ストラテジストの一部は目標の株価を引き上げました。JPモルガン・チェイスが行った調査によると、
急激な利上げにもかかわらず、アメリカ経済が拡大を続けると確信する顧客が半数以上を占めたと言います。
アメリカのこの経済成長と株価の上昇ということなんですが、
これは上念さんはどうご覧になりますか?


ここで、皆さんにちょっと、単純に今のアメリカの経済、数字を確認してほしいんですけど、
FRBによる利上げって、去年からずっと続いてますヨネ、ずーっと利上げ続いてるんですけど、

アメリカの株ってこないだ12連騰して過去最高値記録しました。

利上げをしてるのに、
で、こんなに株価上がるのって思いません?

 

これさっき私が言ったやつですヨネ、
金融政策無効論を語る人にいくらこれを言っても、

馬耳東風というか、
要は理解できないので、別にいいんですけど、


金融政策がもし有効だとお考えの人がいるとしたら、緩和も効くけど引き締めも効くという単純な話なんですよ。


で、引き締めが効いたら、何が起こるかというと、インフレ率が低下してくる。
アメリカのインフレ率が高すぎて、いわゆるそのコストプッシュインフレという、コストインフレって言い方、俺好きじゃないですけど、賃金インフレも始まったダブルですヨネ。コストプッシュも終わったんだ、アメリカの場合。


いわゆるインフレ型不況になりそうだったんですよ。物価は上がるけどGDPが増えないと、
要は生産力がないのでお金いっぱい刷っても、物の値段が上がるだけで物が作れないわけですよ。
石油とか原料はないし、人も足りないから というのが起こりそうだったんですけど、
それを言い方で、の分だけで需要を逆に抑制して、生産力に合わせて需要を抑制すると、経済もまわり始めるんですヨネ。
物価はそんなに上がらず


で、物価の急激に上がると、やっぱこれ混乱要因なんですよ。賃金と遅れて上がってくるんで、
なので、なるべくそれを防ぎたいということで、利上げをしたら、

いわゆるインフレ型不況が避けられるのであるかというふうにみんなが考えて、アメリカ株が上がっていると、

 

株が上がってるって事は半年後の実体経済、相当いいっていうことですから、

予想に反して、アメリカをうまくソフトランディングを今図ろうとしている状況なんですヨネ。


適宜需要と供給がマッチしてるからいいんじゃないのっていう風に思えるって事なんです。
日本の場合はずっと生産力余ってたんで、だからお金すらなきゃダメでしょと、

需要が足らないかなということだったんですよ。
要はだから物が余ってるのか、お金が余ってるのかってそんだけの話で、
もの余ってたから、だからお金をそれに合わせて余るぐらいすらないと景気悪くなるよというのは、これまでは日本だったんですけど、
流行り病に、いわゆる新型コロナと、それから今回のロシアのウクライナ侵略によって、状況が一変したということで、


だいたいでも40年周期で切り替わるので、どっかで切り替わるはずだったんですけど、
あれが1つのきっかけになったわけになった。一気に進んだということなんで、
いかにうまく引き締めするかっていうことが、景気の持続的な拡大に寄与する展開になってきたんですよ。


アメリカとかイギリスとか、ヨーロッパはすでにそういう形になってるんですが、
日本は今までデフレが長かったんで、まだインフレの圧力がそんなに強くないんですヨネ。
もうちょっと緩和してても大丈夫なんで有利なんですよ。
だから日本だから、調子いいじゃないですか。
YCCの変更はとか言って騒いでる人いますけど、結局株は上がってますから、


今日経先物見ても、プラスですから、完全になってるので、

 

「日本経済新聞」の撹乱要因を除けば、日本経済は非常に順調かなと思ってるので、債券の年はしばらく来ないんじゃないですか。
インフレが続くってことは金利が高い状態が続くので、債券が安い状態が続くってことですから、
日本債券村の皆さん、元々ゾンビ村だったんですけど。・・・・そんな感じかなと思いますけど。