米・英・露軍は―
午前11時過ぎに露・米軍が東便門内に進入、米軍は清兵を駆逐しつつ内城の南壁沿いに進む。露軍は死傷者を収容してから前進し、崇文門に行きつくものの門扉は堅く閉ざされていた。
午後1時ごろ、英軍は東便門の南東約1キロの広渠門を攻撃するため同門に向った。到着すると門扉は閉じられていたがこれを教民が開けたので、英軍は敵の抵抗を受けることなく外城に進入することができた。そして印度兵は率先して御河の水門に潜り込んで進んだ。
公使館地区では―
午後2時ごろ、手旗信号手を連れた柴中佐は南御河橋南の水門で日本軍が到着するのを待っていた。そこは敵の警備が手薄な進入経路で事前に密使を以って第5師団に伝えていた。しかしやってきたのは印度兵だったので柴中佐はやや失望する。英公使館では人々が歓呼して印度兵を出迎えた。遅れて米軍も水門に潜り米公使館に到着したのは午後4時ごろであった。
この頃から射撃音は衰え夕方には止んでしまう。公使館地区の周りを囲んで射撃していた清兵が逃げ去ったのだ。
「ここに於て六旬の包囲は解けた。猛暑の中に函の様な小天地に籠ってどこも胸壁に隔てられ、外界の事は一歩も見ることが出来なかったが、はじめて自由の境外に踏み出ることが出来たのである。その悦びは譬えようもない」
小川は清兵が退却した後すぐに胸壁に上って敵陣地を眺めた。
「前に我等が哨所と頼んだ荘厳な王府の家屋はみな焼け失せて、残るはただ白い土壁だけである。それも弾丸だらけで見る影もなかったが、見渡すかぎりひろびろとして、その愉快なること何とも云えなかった」
そして胸壁を飛び越えて王府内の敵陣地に入った。
「敵はあわてて逃げたものと見え、飯など半分煮きかけのものもあり銃丸や食料品などもそのままに捨ててあったりして、門外にはまだ敵の姿さえ見えていた」
国立国会図書館デジタルコレクション
「北清事変写真帖」(第五師団司令部 撮影[他])
国立国会図書館デジタルコレクション
「北清事変写真帖」(柴田常吉, 深谷駒吉 撮影)
福島少将は―
午後7時過ぎ、歩兵第11連隊(1個大隊欠)を率いて崇文門外に到着する。何もできずに停止していた露軍を尻目に日本軍は兵卒らを門扉下の隙間から進入させ、あるいは門上の壁を登らせて門扉を引揚げさせた。日露両軍はなだれを打って内城に進入する。
午後8時40分、福島少将と歩兵第11連隊の連隊本部が日本公使館に到着する。西公使以下の公使館職員、将兵、在留邦人らは万歳、拍手、大歓喜して出迎えた。感極まって泣く者もいた。柴中佐は福島少将と握手をして救援に感謝した。服部が記している。
「我等は籠城此こに六十三日にして始めて待ちに待ちし援軍の来るに遭い、真に所謂轍鮒の水を得たる心地し枯魚の市に上ぼるを免れし愉快は筆紙に名状すべからず。又一生忘るべからず。福島少将及び旧知の橋口大尉などと相見て無事を祝されし時には涙の下るを覚えざりき」
第5師団主力による朝陽門と東直門の攻撃はまだ続いていた。
東直門は午後8時55分に第1門を爆破、続いて同9時2分に第2門を爆破し、同9時20分歩兵21連隊による突撃が開始される。清兵の激烈な射撃を受けて死傷者が多数発生するも、同9時40分東直門を奪取する。
朝陽門は午後9時40分に第1門が爆破され、同9時50分に第2門が爆破された。直後に歩兵第41連隊が突撃して付近を掃討する。
第5師団の城門爆破が行なわれていた頃、日本公使館では柴中佐の約束していた花火が準備されていた。小川が点火する。
「この夜救援軍到着の祝いとして予が打ち揚げた花火の数は甚だ多く、ついに筒も破れてしまった」
第5師団の将兵はこの花火をどんな思いで見ていたのだろう。
そして籠城のサムライたちは……。(つづく)