弘前に駐屯する歩兵第31連隊の下士卒のほとんどは、青森県出身である。明治29年の師団増設によって改編する歩兵第5連隊の伝統は、31連隊が受け継いだといってもいいだろう。青森県に5連隊と31連隊の2個歩兵連隊があることから、そのライバル意識は高く何事においても競い合っていたに違いない。
弘前には岩木山、青森には八甲田山があり、それぞれの連隊は近くにそびえる山を毎日のように眺め訓練していたのだろう。
明治34年2月に31連隊の教育隊(下士候補生)は岩木山麓を縦断している。その8月には弘前~十和田山~三戸~野辺地~青森~弘前と行軍をしている。この教育隊を率いていたのは第2中隊長の福島泰蔵大尉だった。福島大尉は、連隊の教育委員を命じられ、見習士官や下士の教育を担任していた。
福島大尉は、冬の訓練に特化して研究しており、8月に実施した行軍は、雪中行軍の偵察を兼ねたものだったといえる。ただ、経路が野辺地~青森となっていることから、この時点で八甲田山麓を越えようとは考えていなかったようだ。
12月、福島大尉は連隊長に八甲田山系で雪中行軍をしたいと願い出たとされている。その頃は谷地温泉を経由して田代に至る経路を模索していたようだった。それは、八甲田山の中央を南から北に縦断するというあまりにも無謀な計画だったといえる。そして、その可否を八甲田越えの足掛かりとなる場所にあった法奥沢村(後の十和田湖町、現在の十和田市)役場へ手紙で問い合わせている。返事には、増沢から田代を経由する経路のみで、冬は雪で通行できないとされていた。
福島大尉は、行軍で通過する町村役場に、休憩、宿泊、食事、道案内等の協力を依頼している。ほとんどの役場はそれに応じていたようで、実際に、教育隊は行く先々の宿泊場所等で饗応を受け、道案内人も付いていた。
福島大尉は法奥沢村役場の対応に満足しなかったようで、再度手紙を送っている。
「先般申上候雪中の山嶽通過は、天皇陛下へ対し奉り、雪国軍隊の状況を上奏する、至大の演習なれば、地方に於いても、夫々ご尽力のほど切に希望候也……」(高木勉著『われ、八甲田より生還す』)
この恫喝のような文面に、役場は、酒肴を準備している、道案内は処置すると返事をしている。
上奏とは、師団長が1年に1回、天皇陛下に部隊の状況を報告することを指しており、その内容は師団全般の概要であって、特定の部隊が実施した研究成果等を報告するような場ではない。ただ、立見師団長は下問に備えて雪中行軍部隊の写真を準備していたことがあり、その写真を福島大尉は上奏としていたようだった。だから演習間、福島大尉は要所要所で写真撮影を行なわせていた。
演習後、福島大尉は友人である地元の新聞記者に記事を書かせている。最初は「行軍の状況報告は天覧される」とし、その後に「写真は乙夜の覧に供される」としていた。乙夜の覧とは、天皇陛下の読書のことである。天覧も乙夜の覧も受動的で上奏とは異なる。福島大尉がいう上奏の正体は、おそらく、『偕行社記事』に投稿したものが、天皇陛下の目に留まることを期待したものだったに違いない。結果としては上奏や天覧はなかった。そして、こうしたことが、事故対応に苦慮していた師団の怒りを買うことになったのだと思われる。(来週に続く)