―8月14日 晴 33.3℃

 午前2時、突然東方から砲撃音が聞こえた。これまで聞いたことがない方向だったので、公使館地区の皆が援軍だといって歓喜し躍り上った。感極まって泣きだす婦人もいた。

 公使館に対する清兵の攻撃は一時止まっていたが、再び激しい射撃が開始される。背後に連合軍が迫っているにもかかわらず、公使館を執拗に攻撃した。その攻撃に一体何の意味があるのだろうか、ただの悪あがきというしかない。

 

 サムライの士気は高い。小川が記している。

「これこそ敵の最後の攻撃だと一同また必死に防いだが、最早城外では援軍が砲撃を開始して居ることとて我我は勇気百倍、日頃大事に貯えておいた銃丸も今は惜気もなくドシドシ発射し、或は喊声を挙げて敵を罵り、夜が明けるまで我を忘れて戦った」

 清兵の弾丸が四方から飛んで来る。加えて清兵を射撃する援軍の弾丸が思わぬ方向から飛んで来るので非常に危険な状態になった。援軍が来たと喜び外に出て流れ弾に当たり怪我をした人もいた。

 

 日本兵らは援軍がもうじき城内に入ってくるのは間違いないだろうとして国旗を掲げた。一つは王府南大門で、もう一つは南山の総本部前だった。

「水兵をして王府南大門上に兼て用意したる我が国旗を樹てしめたり旭旗空に翻るを見て衆歓呼し意気(とみ)()がるを覚ゆ……木村君等が我が本営前なる高樹の上、其の他に樹てたる我が国旗の旭日に映ずる様は何とも云われぬ愉快の心を起さしめたり」

 総本部にいた柴中佐が大樹に国旗を掲げるよう命じる。その「日の丸」は約3メートルもあり、製作に係わった小川も、「夜明けに建てた国旗は高く空に翻えり、城外の砲声は次第次第にふえ其の音もだんだん近づいて誠に勇ましかった」としている。

 

 ただ旗を掲げるために木に登っていた草薙善治3等水兵が左腕を撃たれて負傷し、連合野戦病院に送られている。草薙水兵は先月に顔を負傷して8月3日に退院したばかりで、再度の入院は不運だった。そしてその手当をした中川軍医も間もなく右足を撃たれ、山方看護手の手当てを受けた後連合野戦病院に送られている。

 

「雪中行軍記録写真集(行動準備編)」小笠原弧酒編・著

左から山方看護手?、草薙水兵、中川軍医

 

 

 午前10時頃、朝陽門(齊化門)の方で激烈な砲撃が起った。それでも清兵はひるむことなく公使館地区に射撃を続けた。

 

 

国立国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(第五師団司令部 撮影[他])

 

 第5師団は―

 露軍が約束を守らず13日夜から攻撃を始めたため、この日(14日)の朝から攻撃を開始することになった。

 午前8時ごろ、真鍋支隊が朝陽門を攻撃するものの、清兵の激しい抵抗を受けて門前400メートルの周辺家屋などに隠・掩蔽する。塚本少将は歩兵第21、42連隊を率いて朝陽門の北約3キロにある東直門を攻撃する。その際砲兵1個大隊が直接支援した。

 

 

 

 朝陽門と東直門、加えて東便門は通州から北京に通じる本道にあり、清兵が最も堅固に守備していた場所である。森中佐が回想で次のように述べている。

「朝陽門は非常に大きな門でありまして、城壁は高く、而も厚さ八米からあります。第五師団の野砲は軽七・五(センチ)山砲で其の数三十六門、福島派遣隊の持ってきた第一師団の野砲十八門、合計五十四門の放列を敷き、午前十時より砲撃を開始しましたが、そんなものは何等の効果がない」

 日本軍は弾薬が不足してきたので砲の射撃を中止し、日没を待って爆薬による門の破壊を実施することとした。(つづく)