―8月13日

 各国はそれぞれ通州を発った。日本軍は独立騎兵隊と先発の真鍋支隊が定福庄からその東の(とう)()()間に宿営、露軍は定福庄の東南に宿営したものの、一部を公使館地区の東約2キロにある東便門(とうべんもん)付近まで進めていた。他は米軍が定福庄西約3キロの高碑(こうひ)、英軍が定福庄南東の双橋(そうきょう)に宿営した。あの仏軍は楊村での守備という任務を放棄して通州に追及し、さらに高碑の米軍を越えて宿営した。

 

 これまでもそうであったように、日本以外の列強が連合軍として議決されたことを守り実行することなどほとんどなく、自らの影響力を高めるため、あるいは利権獲得のために抜け駆けして勝手に行動した。

 

 天津の鄭領事が青木外相に送った「第九回戦闘情報」にこうある。

「十五日黎明より総攻撃の予定なりしが、露兵は此の計画に反き、十三日より東便門に向い攻撃を開始し敵の頑固なる抵抗を受け其連隊長は戦死し参謀長は負傷し其他多くの死傷者を出すに至りたる為め俄に応援を我兵に乞い来れり」

 通州で休養しようと提案した露軍が再度抜け駆けして一番乗りをしようとしたものの、苦戦していた何をか言わんやだ。

 

戦場の花火

 

 北京政府は―

 不安と混乱に陥っていた。天津を発進した連合軍によって北倉の清軍が撃破されたとの報せを受けた栄禄は、李鴻章に停戦協議にあたるよう電報をして、連合軍の北進を阻止しようとしたが、李鴻章は立ち上がらない。また、東交民巷で籠城する公使ら外国人を北京から出して連合軍の入京を阻止しようと、英公使と交渉するものの進展できずにいた。そして主戦派はこれといった手立てもなく、おそらく清軍が勝利することを祈っていただけではなかろうか。

 

 直隷総督裕禄は8月6日に楊村の戦いで敗れて蔡村に退き、翌7日にまた攻撃を受け、ついに拳銃で自尽する。武衛軍幇弁(参謀長)の李秉衡は河西務において、その地に在る軍を監督して防御に努めたが、9日に日本軍が接近すると清兵は戦わずに逃走してしまう。続いて馬頭、張家湾と失い、11日に通州南方小街付近で最後の抵抗を試みたが破られ、ついに毒を仰いで自殺する。

 

 北京にせまる連合軍の攻撃を避けるためにはもはや北京政府が白旗を上げるしかなかった。だが愚鈍なる主戦派はこれまでと同じように公使館地区を清兵に攻撃させるだけだった。

 

 

 

 

 西太后は光緒帝を連れて北京から逃げることにした。朝廷は10日に西巡の勅を下したものの、車両が不足してその実施は延び延びとなっていた。(つづく)