―8月8日

 午前8時過ぎに師団本隊が南蔡村に到着した。そこに間もなく柴中佐からの密使が到着する。持っていた信書は8月5日付のもので山口中将及び福島少将宛であった。

「我糧食は他国の分を融通し貰えば今日より更に十日位支うるに足る。只懸念なるは敵兵攻撃を再興せば直に弾薬の欠乏を来すに在り……清国政府は我に向って頻りに北京より早く退去せよと逼り……我は援軍の到着迄は決して動かざるの決心なり……昨今政府部内の開化派は殺され頑固党益々勢力を得て愈々頑強に敵対せんとするものの如し……」

 この密使によると、北京城内の清兵は1万あまり、通州・(えん)(こう)(ちん)香河県(こうがけん)に清兵なしということだった。()西(せい)()、それ以南にも清兵がいることを聞いたが、本道を避けて迂回したので兵力はわからないとした。ただ米や弾薬を積んだ4、50隻の船舶が河西務の下流を北上するのを見たということであった。

 福島少将は返事を直ぐ書いてその密使に渡し北京にむかわせた。返信の内容は次のとおり。

「日、英、米の連合軍は八月五日北倉付近の敵を撃攘し同六日楊村を占領せり。而して日、英、米、露の連合軍は本日楊村を発し北進の途中午前八時二十分南蔡村に於て貴書に接し、北京の情況を(つまびら)かにし衆皆公使以下の(つつが)なきを(けい)し併せて一日も早く我連合軍の北京に到達し公使以下貴官等を其苦境の中より救出せんことを期し師団長以下衆心奮激す。連合軍は意外の故障あるに非ざれば九日河西務、十日馬頭、十一日張家湾、十二日通州に至る予定にして其北京城下に進出するは蓋し十三、四日の両日ならん。……」

 連合軍は予定どおり、9日河西務、10日馬頭、11日張家湾、12日通州と進んだ。清兵の抵抗は弱く、第5師団の前衛が攻撃をするとすぐに退却してしまうのだった。通州にいたっては前日に退却していた。やはり清兵に防御工事の時間を与えないよう進撃を続けたことが影響していたようだった。

 

 

国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(柴田常吉, 深谷駒吉 撮影)

 

 ―8月12日

柴中佐より8月10日付の密書が福島少将に届く。

「本月八日付の貴書只今到着。当地は依然防御しつつ在れば安心ありたし。一昨日清国政府より李鴻章を全権大臣に任じ且各国政府と平和談判を始むとの通知ありたるに拘らず敵は其日より攻撃を為せり。但敢て進み来るの景況なく大砲も無ければ(くみ)し易し。我は万已むを得ざる場合に非ざれば敢て応射せず。只胸壁に固著しつつ在り。糧食は本月三十日迄は何とか支え得べければ安心あれ。当地の敵兵数明かならざれとも武衛中後軍其他を合わせて十余営なるが如し。而してこれは宮廷が不日西方に向うて立退くを護衛するの任務を有せり。城外に援軍の近づきしを知らば城内日本軍より花火を上げ合図を為すべし」

 この日の列国将官会議で、明13日直ちに進軍して北京城に迫ろうとする意見が起こると、露軍リネウイッチ中将は、

「過日来の強行軍に因り将卒の疲労殊に甚だし。明一日充分の休養を与えし後、攻撃の策を取りたし」

と発言し、議論が紛糾するものの日本を除く諸将官は同意に傾いていた。露軍の提案は、これまで何度か繰り返された抜け駆けのための企みであることに間違いない。

 福島少将が発言する。

 我の急進によって敵は防御工事をする暇なく強く抵抗することができなかった。今理由なく通州にとどまれば、敵に我連合軍の疲労を知らせ不利益となる。「我日本軍の前衛は既に八里(はちり)(きょう)に在り因って明日は有力なる一支隊を定福庄(ていふくしょう)迄進め置き、十四日各国同線上に集合し充分偵察を為したる後攻撃の計画を議定しては如何ん」と。

 すると各指揮官はこれに同意して協議が進む。13日先発隊を定福庄まで派遣し、14日諸隊を前進させて十分な偵察を行なった後、15日朝に北京を総攻撃することとし、日本軍は通州朝陽門街道以北、露軍はその南、英米軍は露軍の南に位置することに決議された。(つづく)