この夜における連合軍の態勢は、北倉の北方約5キロの柴樓に真鍋支隊が清兵と接触しており、北倉と柴樓との中間付近である王秦荘に塚本混成旅団が集結し、師団司令部とその他列国軍は北倉及びその周辺に宿営していた。なお、独・墺・伊の水兵は天津に帰っている。偵察から得られた清兵の状況は、右岸の清兵が左岸に渡り、あるいは西方に逃走して楊村に集結しているようであった。左岸の清兵は真鍋支隊の前方約1キロの森林に小部隊、主力は楊村と見積もられた。

 

 

 

 列国将官会議では日本軍の提議により、翌6日午前7時連合軍は出発、塚本旅団及び予備隊は右岸を、真鍋旅団及び各国兵は左岸を進み楊村に向かうと決議される。つまり攻撃の第一線はあくまでも日本軍であった。当初日本軍は午前3時30分出発としていたが、露軍リネウイッチ中将が明日の前進に寄与したいとしてその出発時間を遅らすよう懇請してきたため、午前7時の出発になった。

 ところが―

 6日の楊村攻撃は列強の先陣争いとなってしまう。

「此日午前七時出発の規約ありしにも拘らず、左岸部隊中英米露仏兵は規約を無視し午前六時三十分既に行進を起し我真鍋旅団兵の陣地を越えて前進し、英、米、露、日の如き行進序列と成り先進せしに前方更らに抵抗なく連合軍の先頭たる英軍楊村停車場に達する三千米突に及ぶの頃敵砲撃を始む」

 それは午前4時に始まっていた。北倉の南にいた露軍主力は白河左岸に移動して突然と前進を始めたのである。英・米軍はこれを見て遅れまいと急に前進を開始したのだった。

 列国は戦功を上げて自らの発言力や立場を強めたいと考えるに至ったようで、事前調整無視の抜け駆けに出たのだ。列国は第5師団長の指揮下にあるわけではないのだから、各国が自分に都合のいいように行動できた。結局、清兵を撃破して北京の公使らを救出するということに関して一致した連合軍ではあったが、その本質は自国優先でまとまりのない集団でしかなかったのである。

 

 楊村における清兵の抵抗は北倉に比べてまるっきり弱く、英・米・露軍主体による数10分の攻撃で清兵は北東に潰走する。露兵は楊村に侵入して略奪をおこなった。

 この日の死傷者は米が死亡7、負傷58、英が死亡6、負傷38、露が死亡2、負傷17であった。北倉の戦闘では、日本だけでも死亡50名、負傷251名を数えており、その激しさの違いがわかる。午後、福島少将は露軍指揮官リネウイッチ中将から、「楊村に暫く兵を休養するの必要あるを以て明七日午前十時より露軍司令部に於て協議したし」と通報を受けている。

おそらく福島少将は、何を寝ぼけたことを言っているんだと呆れていたに違いない。こんなところでぐずぐずしてられないというのが本音だろう。(つづく)