7月25日、柴中佐の発した密使(張徳盛)が第5師団に到着する。その書簡には、死傷者で兵が減っていること、弾薬や食料が残り少ないことなどが記されており、「貴軍来着一週日以内に在らざれば当地は恐らくは支え得ざらん。七月二十二日夜認む 柴砲兵中佐」とされていた。

 

 これにより列国はぐずぐずしている場合でない事情を認識する。8月4日夕より連合軍は行動を開始した。

 白河右岸沿いに攻撃する日・英・米軍は四日夜宿営地(居留地)を出発、西沽に集結して翌五日午前一時三十五分に攻撃前進する。左翼の塚本(かつ)(よし)少将指揮する混成旅団(歩兵第二十一旅団基幹)は火薬局、(かん)()(じゅ)(おう)秦荘(しんそう)と所在の清兵を撃破して午前七時五十分北倉(ほくそう)を占領、右翼の真鍋(あきら)少将指揮する支隊(歩兵第四十一連隊基幹)は唐家(とうか)(わん)の清兵を撃破して敗走する清兵を追撃、柴樓(しろう)を占領して前方の清兵と対峙する。

 

国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(第五師団司令部 撮影[他])

 

 白河左岸沿いに攻撃する露・仏軍および独・墺・伊の水兵は、4日夜、西沽の東約5.5キロの淀川の北側に宿営し、その行動開始は翌5日午前4時と悠長に構えていた。だが夜中に降った雨で北上する経路は泥濘化してしまう。指揮官ステッセル少将は左翼より包囲できないとし、「白河右岸を前進する」と当初の命令を破る。

 左岸部隊が宿営地から行動を開始した頃には、すでに日本軍は戦闘の真っ只中にあった。午前8時30分、左岸部隊はようやく右岸部隊が攻撃開始前に集結した西沽に到着する。その1時間ほど前には日本軍が北倉を奪取していた。

 

 第5師団兵站監秋山好古大佐が大山参謀総長に宛てた電報にこうある。

「……午前三時半開戦七時半全く敵を撃退し北倉を占領す。此戦に於て英兵及我兵一万二千白河の右岸より、露仏(一語不明)五千其左岸より敵を包囲する如く作戦するの計画なりしも、左岸の軍は敵の設けし氾濫の為め通過し難しとて計画を実行せず。故に全く我軍の力に依り勝利を得たり。右は五日午後三時天津青木中佐より電報ありたり」

 あの森中佐も山本海軍大臣の師団に同行しろという命を受けて山口師団長に随行し、逐次海軍大臣に戦況を報告している。北倉の戦闘は次のとおり記している。

「……午前七時三十分右翼隊は北倉を占領し左翼隊は王庄(おうしょう)茶棚(さほう)の敵兵を撃退せり……此日英米軍は右の如く一丸を放たず我の後方に在りて動かず……露仏軍即ち白河左岸行進軍は規約に従い我部隊と均しく〇〇前進を起せしも途中河水の氾濫数浬に亘り進軍叶わず……是亦一丸を放たず……仏軍の如きは兵士非常に疲労し西沽付近に休憩し夕陽漸く北倉に到達せり」

 この日の戦闘において、日本軍は死亡50名、負傷251名、その他では英軍が死亡1名、負傷24名、露軍が負傷6名であった。

 列国は日本軍の勇戦勝利を祝すものの、かげで切歯扼腕していたに相違ない。それが翌日の行動で露骨に現れる。(つづく)