第五師団、圧倒の北進

 

 7月14日に天津の清軍を撃破した臨時派遣隊は第5師団主力の到着を待った。山口第5師団長は同月18日大沽に上陸し、翌19日には参謀本部次長寺内正毅中将とともに天津に入っている。同月21日、陸軍大臣の訓令に基づいて臨時派遣隊の編成が解かれ、福島少将ら同司令部要員は第5師団司令部付となる。以後、語学に堪能な福島少将は各国との交渉の任にあたることになる。

 

 

 

 天津攻略後、日本以外の列国は北京進撃を遅滞させた。後年、森中将(当時中佐)がその内情を明かしている。

「天津の攻略は余り時日を費さずして済み、其の中に第五師団が到着しましたので、愈々北京に前進する事になったのであります。然るに列国は日本の単独行動を(がえん)じない。日本の力に依頼して置きながら、日本が功を専らにする事を(そね)んで、色々と中傷を試みる。それは独逸も仏蘭西も正式に陸兵を東洋に送るの準備を為し、殊に独逸皇帝は列国の同意を得て、ワルデルゼー元帥を列国の総指揮官として派遣する事になって居るのに、今第五師団に北京を占領されては、皆指を(くわ)えて見ていなければならなぬから、第五師団の前進を阻止せんとして居る。山口第五師団長も各国との交渉には余程困ったようであった。其の中に参謀次長の寺内中将が宇都宮、鑄方(いかた)の両中佐を伴って来たので、今度は寺内中将が第五師団長に代わって交渉の任に当たりましたが、列国の間には可なり苦情があったのであります。要するに列国の方では、支那の兵力を法外に優勢に通算したる結果、連合軍が前進するには少なくとも十万の兵を要すと主張し、日本の視察ではそんな必要はない、第五師団単独にても、充分救援の目的は達し得ると自信して居るが、各国はそれを容れない。又各国を出し抜いて、第五師団が単独前進する事の()きない事情もあったのであります」

 その事情とは、寺内参謀次長が内閣総理大臣山県有朋から列国と共同して行動するようにと、くぎを刺されていたのだ。

「天津に到り列国連合軍の統理将官と列国共同の目的を主持協商し……各国連合軍の取らんと欲する一般の方針及作戦を決定し其外交に渉るものは政府に報告して命を俟つべき」

 日本政府としては三国干渉のような事態を招かないよう慎重になっていたのである。もし第五師団が単独でこの事変を始末してしまえば、また三国干渉の二の舞となるのは目に見えている。(つづく)