―8月11日 曇 30.0℃

 一日中、雨がちな天気が続いた。早朝から清兵は射撃をしてきたが、砲撃がないので破壊力は低い。ただその分小銃による射撃が以前より一段と激しくなっていた。

 夕方、総理衙門から使者が来て食料購入に関する処置が示される。明朝9時に総理衙門から官吏を派遣するので、それに買い物の相談をしてほしいということだった。そのための委員会が設けられて杉も委員に選ばれる。杉の日記にこうある。

「此夜会議を催して、買入物等の目録を製せり。久しく餓えし此腹も、明日よりは旨き馳走にあり付くと思えば、支那兵の攻撃や土工の監督の苦抔は何でもなし」

 日本公使館の一日における食事の量は大幅に減らされていたが、皆耐えて戦っていた。

 午後10時半ごろ、いつものように清兵の射撃が始まる。前夜に比し清兵の数は減少しているようだったが、激しい銃撃だったために独・仏・墺兵の各1名が戦死している。北堂の方からも盛んに銃声や砲声が聞こえていた。

 公使館地区を守る将兵らは、清兵も背後に列国の軍隊が近づいているのを認識しているだろうから、そろそろ最後の攻撃が始まるだろうと身構えていた。

 

 ―8月12日 晴 33.8℃

 未明の乱射はいつもより激しかった。早朝から各方面に対する射撃も非常に激烈で一日中間断なく続いた。特に韃子館及び粛親王府正面が強かった。

 杉は英公使館において総理衙門の官吏が来るのを待っていたが、約束の午前9時を過ぎても来ない。11時になっても来る様子はなく、結局来なかった。

「何等の通知をもなさで約束を破るは不都合なれど、支那政府の事として見れば尋常普通にして腹を立も又無益なり」

 総理衙門が何の連絡もなく約束を破った原因を皆がわかっていた。

「外国軍已に北京に近づきつつある今日最早(てん)(ぜん)の風を装うことも出来ず内部の混雑極まり無きと共に外に向て我々に信を失するに至りしものと思わる」

 主戦派の狼狽ぶりが目に見えるようだった。

 夕方、総理衙門より手紙がきた。意訳すると次のような内容であった。

 

 先に諸公使は相互の親和を復するために北京を退去するのは不得策だと主張し、北京に留まっていたのはまことに幸いである。果たして諸公使が平和を望まれるならば、明13日に親王、大臣打ち揃って英公使館に出掛け、和議の端緒を相談致したいと思う。

 

 これまで高圧的な態度だった慶親王の名を使用した信書は一変し、慶親王以下がそろって英公使館に出向くというのだった。

 これを聞いた人々は、明日か明後日には援軍が来るというのに、今さら平和談判もないものだと罵った。だが諸公使は明13日午前11時にお待ちいたしますと返事をする。同時に種々需要品の買い入れを頼んでいた。

 ただ対峙する現場はそうした和睦の空気とは全く違っている。午後5時を過ぎると各方面の射撃が激しくなり、崇丈門方面から砲撃も受ける。夜になっても射撃は激烈で哈達門(ハタメン)から大砲の射撃もあり、籠城以来稀にみる状況となる。この頃は清兵が突撃して来ることがなかったものの、劣勢にあった日本側はいつ清兵が突入してくるかわからないと不安に思っていた。柴中佐は、「もう一日か二日だから元気を出せ」と兵士らを叱咤激励した。

 北京政府は一方では和議をしようといい、一方では猛烈な攻撃を加える。硬軟織り交ぜた策略か、あるいは主戦派と非戦派それぞれの動きなのか、北京政府はすでに無政府状態にあった。(つづく)