―8月8日 曇 31.1℃

 昨夜から未明まで粛親王府では清兵による停山門・厨房・東阿司門正面に対する射撃があったものの突撃して来る様子はなかった。朝からは段々と投石が多くなり、夕方になると東阿司門の清兵は白字に張の字が記された旗を多数掲げて絶えず銃撃をしてきた。教民らによると、この兵は話し声などから新たに山西から来たものだという。

 午前、総理衙門からエディンバラ公薨去に対する弔詞が英公使に送られた。それを機会として英公使は次のような趣意の書面を総理衙門に送った。

 

 北京政府による訃報の転送を謝し、かつその友誼を賞賛する。しかしながら、そうした友誼がありながら何故に毎日我々を攻撃するのか、さらには我が食料購入の途をふさいだのはそうした好意に反するのではないか、と。

 

 午後、総理衙門から各国公使に、昨日李鴻章は全権大臣に任ぜられて各国外務省と一切の事議を処理する筈なりとの上諭があったと通知された。これに対して、柴中佐は作戦日誌に次のように記している。

「思うに楊村辺に大敗し漸く夢想の覚めかかりしものならん。去るにても吾々諸公使を(とりこ)同様に取扱うのみならず日々攻撃をなすの心意料り難し」

 また、服部も同じような思いを日記に書いていた。

「一方にては已に媾和全権大臣を命じながら、一方にては依然我々を攻撃するは条理貫徹せざるの甚だしきものならずや」

 もはや北京政府は支離滅裂に陥っていた。

 

 

 李鴻章は―

 7月8日に直隷総督・北洋大臣に再任されて北京政府から上京するよう命じられたが、李鴻章は動かなかった。幾度も督促を受けてようやく動き出したものの、その歩みは遅かった。北京政府としては李鴻章を最後の切り札として連合軍の北京進攻をくい止めようとしたのだが、当人は北京からはるか遠くで状況の推移を見守っていた。

 

 この日、鶏卵や弾薬等を日本側に売りに来ていた苦力が3日ぶりに弾薬200発ほど持って現れた。その話によると、公使館周囲の警戒が厳重になり、以前物売りに来ていた2名が梟首(きょうしゅ)にされたということだった。また北京には栄禄が直轄する武衛中軍の5営を残して其他の全部は東南に出て行き、あるいはその途中であるとした。さらには5万の外国兵が大沽に上陸したとする噂もあったという。

 夜、清兵は突入してくるのではないかと思われるほど銃撃が激しく、柴中佐は翌朝まで3度ほど兵士らに緊急集合をかけていた。(つづく)