この日小川は入浴した喜びを記している。

「久し振りで公使館で風呂を沸かし(かわ)(がわ)る入浴した。籠城の初めから日々戦闘に忙しかったから入浴などはとても思いよる事ではなかった。猛暑の二ヶ月、土に伏し砂にまみれ汗だらけになり、時には雨でびしょ濡れになっても大半は着更えもなかったから、そのまま六十日余りを土間か板敷の上で起き臥してきたのである。それだけに久し振りで入浴した時の心地はなんともたとえようがなかった」

この頃の日本には以前に比べて食料以外は若干の余裕がでていた。

 

 ―8月6日 曇 26.6℃

 午前2時、各方面の清兵が突然と喊声をあげて射撃をはじめた。特に英と仏方面が激しく、親王府正面はそれほどでもなかった。清兵の喊声と射撃音からその兵員は

500~600人と見積もられた。王府正面清兵は大幅に減っているようだった。

 清軍は列国の決心を知り、いよいよ攻撃を再興するものと判断して各国は総員配置についていた。物売りは一人も来なかった。清兵の警戒がより厳重になり新しく胸壁を設けたりしている。

 午後、総理衙門から使者が来て各公使の本国政府への暗号電信を取次ぐとのことであった。またこうして平和的にやっているにもかかわらず、外国兵の射撃で戦闘が起ったとして詰問してきた。直ちに英公使は我が方から攻撃する道理がないことを反駁する。総理衙門が暗号電信の取次ぎを行なうとなったことで攻撃再興はないだろうと予想された。

 

 ―8月7日 晴 29.4℃

 未明、韃子館方向から英公使館に向って激しい射撃があった。昨日に続いて清兵らは一切公使館地区に寄りつかず、外との連絡が途絶えたままで列国は新しい情報を得られずにいた。

 清兵の射撃が停山門に集中する中、2等水兵の小柴文二郎が左大腿に銃弾を受けて重傷を負う。

 

 総理衙門から英公使に英の皇族エディンバラ公が薨去されたとの通知があった。

 この日は旧七月十三日のお盆(盂蘭盆会(うらぼんえ))だった。西公使や職員らが戦死者の墓に集まり、川上貞信師読経のなかで花や線香をささげて皆涙した。小川が記している。

「遺骸を埋めた土を清め、『ビール』瓶に造花生花を挿し、木片で新しく墓標を作り、線香を手向けて交る交る焼香した。これまでは戦闘に追われどおしで我が身が何時死ぬかもわからなかったので、戦友が斃れても顧る余裕もなく、さして悲しいとも思わなかったが、今や戦も少し緩んで援軍も間近いとなると、自然生死の区別もはっきりして法事などのゆとりも出て来たのである」

 地中に眠る彼らはたまたま仕事や留学で北京にいたことで事変に巻き込まれ、あげくの果てに戦死したのである。

 漢和朗詠集に、「朝に紅顔あって世路に誇れども、(ゆうべ)に白骨となって郊原に朽ちぬ」というのがある。この世は無常で人の生死は予測できないというたとえだった。(つづく)