―8月4日 晴 31.1℃

 日本の陣前に来る清兵は、栄禄が外国人を天津に護送することを命ぜられたとしていつ立退くかと頻りに尋ねた。またその隊長からは、3日中に発たないと攻撃することになるから用心しろと脅すような内容の手紙もあった。総理衙門は各国政府がその国に駐在する清国公使に在北京公使を安全に送り出すようしきりに要求するので速やかに退去せられよと促した。夕方、列国公使は総理衙門に次のような回答をする。

 

 我々は本国政府の命なく勝手に任地から退去することはできない。いくら我々の政府が清国政府に依頼しようとも、我々に直接の命令がなければ動くことはできない。よって本国政府に暗号電信を取次いで本国政府から直接命令が受けられるようにしてもらいたい。そして、清国政府は引揚げを迫るものの、清兵の警護下では引揚げることはできない。婦女子、老人、傷病者が多数いる。引揚げるためには800あまりの外国人と約4000の中国人信者を警護できる外国軍が必要である。

 

 暗号電信の取次をお願いしたその真意は時間稼ぎにあった。清国政府が取次ぐ電信は北京から約370キロ離れた済南府に持って行かなければならず、それには少なくも往復5日、外国との電信に往復2日、諸外国間の相談に3、4日、また清国政府より列国公使に伝達するのに1日などの日数を要する。ひっくるめて計算すると、だいた13、4日になり、援軍の北京到達と重なる。それに各国政府も援軍が到達する前に北京を引揚げよと命じるはずもなかった。

 

 列強の本心はたとえこの地において殺されようが清兵の護衛で引き上げるという判断はなかったのである。そして夜中、政府の命令がなければ退去できないとの回答を総理衙門に伝えた。

 この夜は盆を覆すような雨と雷であったが、夜半になると各方面の清兵は一斉に乱射をはじめた。

 

 ―8月5日 晴 28.8℃

 大雨の中清兵の乱射は未明まで続いたが、昼間は多少の銃声がしただけだった。

命令があるまで動かないとした列国公使の回答に対する総理衙門の返答を、みんなが固唾をのんで待っていたが、伝えられたのは伊国皇帝崩御のみであった。

 

 柴中佐は籠城の現況を第五師団長及び福島少将に伝えるため、密使を出した。内容は食料・弾薬の窮状を伝えている。

「去月二十六日の信書本月一日到着折返し返事を呈せしが無事に達せしや否や……我糧食は他国の分を融通し貰えば今日より更に十日位支うるに足る。只懸念なるは敵兵攻撃を再興せば直に弾薬の欠乏を来すに在り」

 そして、北京政府との交渉状況や北京政府の内情を知らせる。

「清国政府は我に向って頻りに北京より早く退去せよと逼り且我周囲に在る兵隊を速に退去せしめざれば直に攻撃を再興すべしと声言しつつ在り。(けだ)し其目的は我を防御なき処に誘出して斬殺せんとするに在るやも知る可からず。故に我は援軍の到着迄は決して動かざるの決心なり。……本日より本国政府の命令なき以上は動かざるの決心を示したれば明日頃より攻撃を再興するやも測られず。昨今政府部内の開化派は殺され頑固党益々勢力を得て愈々頑強に敵対せんとするものの如し。李秉衡は武衛軍の幇弁となれり」

 さらに敵情を告げた。

「近隣諸方より当地に集中を命ぜられたる諸軍隊は昨夜追々到着し始めたり。靖江浦(せいこうほ)より来れる張春発及陳澤霖の武衛先鋒左右軍の内二十余営と陜西省(せんせいしょう)より来れる允昇の八営は已に貴軍に向て出発せりと云う。目下北京に在るものは武衛中軍及後軍の二十営内外ならん」

 最後に敵の警備が手薄な経路と進入要領を示した。

「米国公使館の前より東方御河の下水溝の上までの城壁は米国兵にて保てり。因て此下水溝より歩兵及工兵の若干を先ず進入せしめらるれば、前門或は崇文門を内方より開くに易からん。概して内城に比すれば城壁城門共に堅固ならず。且守備も薄弱なる外城より進入せられ南方より一直線に門扉を射撃し得べき前門に向わるるが若くは前述の下水溝に向わるるが得策ならんが此使にて折返し返事を待つ」

 三日後の八日頃には第五師団に届くものと予想された。(つづく)