―7月31日 晴 29.4℃

 昨夜に比べると銃声は少ない。

 例の間諜が、30日午後5時外国軍が張家湾を占領、清国軍は通州の南15清里(約8キロ)にいると報告する。これまであまり来ることのなかった他の間諜が、外国軍はまだ楊村にいるとした。柴中佐はこれまでの状況を簡単にまとめて手紙とし、それを福島少将と第五師団長に渡すよう、この間諜に命じた。

 

 昨日の英公使の抗議文に総理衙門から返事が届く。

 北御河橋上の胸壁は交通路を掩護するために設けたもので他意はない。ところが外国兵はこれに向ってやたらと射撃したので誤解が生じ、清兵もこれに応戦したに過ぎない。したがって以後心配することはないので安心して出て行くがよろしい。何日に出ていくか折返し返答せよということであった。

 ああ言えばこう言うで、あくまでも外国兵が射撃をしたから清兵も応戦したとして自らの非を認めない北京政府だった。

 

 ―8月1日 晴 30.5℃

 この日も銃撃は絶えず、瓦石の投げ合いもあった。

 これまでの間諜の報告からすると、そろそろ砲撃の音が聞こえてくるはずで、籠城する人々は夜通し耳をそばだてて夜が明けるまで待っていたが、そのような音が聞こえることはなかった。

 午前8時ごろにあの間諜がやって来て、31日午前に外国軍は張家湾より撃退され、さらに午後馬頭からも追われて安平まで退却したと報告する。人々は信じられずにすっかり興ざめてしまった。

 

 午後1時半、去る22日夜に放った密使が戻って来て、26日付の福島少将と鄭領事の書面がもたらされる。その内容を簡単にあらわすと次のとおり。

 

 大沽の上陸が非常な困難で大幅に遅延し、また鉄道も自由に使用できず、さらに白河水運は小船不足のため糧食・弾薬の輸送も予定通りに進まなかった。そのため未だに天津を出発できずにいたが、昨25日の柴中佐の書によって北京の危急が明らかになったので、どうあっても速やかに北進してこれを救わんと列国軍の間において協議中である。おそらく両3日のうちに、先ず北倉及び楊村に在る馬玉昆の兵

約1万5000を撃破し、それより準備整え次第通州を経て北京に向うはずである。

 第5師団の大部分は天津にあり、その残余は移動あるいは揚陸の途にある。各国軍共貴官の通信に感動し北清の準備に怠り無し。

 

 この信書によって、援軍がまだ天津を発っていないことを知り、失望すると同時に事態の真相がはっきりわかったことで大いに満足し、さらにあと2週間耐えようと皆が奮起した。

 これで日本が雇った間諜からもたらされた情報が全くの虚偽で騙されていたことが明白になる。(つづく)