―7月29日 晴 30.0℃

 しばらく続いていた平穏が破れて朝から清兵の勢いづいた銃撃が続いた。北堂方面からも激しい銃砲撃音が聞こえる。北堂は先日から断続的に攻撃されていた。昨夜は特に激しく、朝になっても砲撃は止まないでいる。

 

 あの間諜が最新の情報をもたらす。28日午前の戦闘において、連合軍は一時馬頭の一端を奪取したが、清軍は再び取り戻したという。杉は苦力2名も間諜として雇い通州に派遣していた。例の間諜の情報に疑惑があったからだ。苦力の一人は、28日午前10時ごろ馬頭に到着したものの、そこには清兵が大勢いて前進を禁じられたとし、外国軍が安平にいることを聞いたと報告した。

 もう一人は、北方より多数の露兵がこれから攻め進もうとする状況にあったと話した。苦力2人の報告はあの間諜の情報を裏付けていた。

 

 この日はどうしたわけか、いつもの物売りが一切来ていない。

 先日出した英公使の要望に対し、総理衙門から慶親王名の回答が届く。通州までは轎車等を充分に供給するとし、通州からは船にて天津に送るとした。そして全路とも総兵某を以て護衛に当らせるともあった。

 

 夕方、大勢の団匪が集まって北御河橋上に東端からレンガを積んで胸壁を築き始めた。英兵の射撃を受けて一時工事が止まったが、暗に乗じて西側まで胸壁を完成させ、30日未明よりその胸壁から英公使館や粛親王府北部に射撃が行なわれた。

 

国立国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(第五師団司令部 撮影[他])

 

 

 ―7月30日 晴 26.6℃

 昨夜からの清兵による銃撃が続いている。朝になって北御河橋を見ると欄干の南側に高さ約1.8メートルの堅固な壁ができていた。

 いつもの間諜によると、29日午前3時から戦闘が始まり、午後8時ついに連合軍は馬頭を占領し、清兵は張家(ちょうか)(わん)に退却したという。また通州に派遣していた苦力が帰って来て外国兵は馬頭を占領し、清兵は張家湾に後退したと報告する。杉は他の1名を加えた苦力2人に手紙を外国軍へ届けるよう命じた。手紙は柴中佐から福島少将に宛てたもので日本語と英文の2種類であった。

 

 総理衙門が総税務司ロバート・ハートに手紙を送る。北京政府が各国政府に各国公使はじめ一同は皆無事であるから安心されよと何度も通報しているが全く信じないので、各国公使が安全だということをロンドンに通報してくれと依頼してきたのだった。

 独公使と日本の外交官を殺害し、またロバート・ハートの自宅を焼払い、さらには公使館地区に籠城する外国人を殺害しようと毎日攻撃していながら、どうしたらそのような厚顔無恥ができるのだろう。

 ロバート・ハートは、自分が電報したところで各国政府は信用しない。それよりも各国公使に暗号電報を打たせれば一番いい。それが益々遅くなれば清国の災いは益々大きくなるだろうと返事をした。

 

 英公使も抗議文を総理衙門に送る。

 北京政府の勧誘に従い立ち退きの相談をしている最中に、北御河橋上に胸壁を築いてそこから絶えず我に向って射撃するのみならず、仏・露公使館にも攻撃をしている。これを制止できない北京政府が我々を安全に天津まで護送するというのは全く信用できない。これに対する回答がなければ、引揚げはできないとしていた。

(つづく)