―7月27日 曇 32.2℃

 朝から清兵の射撃を受けていたが、ここ数日に比しその回数が多くなっている。

英公使は総理衙門に、引き上げの諾否に関して各国公使と相談した結果、その判断をする以前の問題として傷病者、婦女子等の輸送、沿道の護衛をどうするのかということになり、その回答をいただきたいとして諾否を先延ばしにした。

 

 日本に対峙する清兵の隊長からは毎日のように手紙が届いていた。その内容は天津へ出て行けとか、早く降参したら命だけは助けて本国に無事帰してやるとし、もしいうことを聞かなかったら皆殺しにするといったものであった。日本側としてはいちいち相手にするのも面倒なので、総理衙門と交渉中であり貴様の知ったことでないから黙っていろと返事をしている。

 

 ―7月28日 晴 28.8℃

 各正面で清兵による銃撃があるものの、その勢力は数10人規模で大きな影響はなかった。

 天津の英領事から英公使に7月22日付の密書が届いたが、内容が不明確で不評だった。特に皆が期待する連合軍の天津出発時期について記述されていないのだ。密使によると、連合軍は23日時点においてまだ出発していないと話している。

 

 これが重大な問題となる。日本が雇った間諜の情報によれば、連合軍はすでに天津を出発して清軍を破って進んでいるのだ。しかもこの日も間諜は、26日夕より河西務の北方において戦闘があり、清軍は馬頭付近に退却して連合軍はその南約10キロの安平を占領し、清兵と団匪の死傷者は700あまりとしていた。

作戦日誌にこうある。

「昨日(まで)我間諜よりの諜報は全く虚報となれり。然れども尚之を継続して使用することとなせり」

 杉は、英の密使がいうとおり23日の時点で連合軍が天津を出発していないならば、それ以前に天津を出発したとする間諜の情報は全て捏造となるのは明らかであるとしながらも、24日午後1時に河西務付近で戦闘が起きるのは決してありえないことではないとしていた。

 

 

 また服部も、英の情報は森中佐の手紙と大いに食い違う点があるので皆が疑ったとしている。守田大尉は、「是迠で間諜にて得たる情報とは大差あり因って目下頻りに探偵中とす」と日記に記している。作戦日誌以外は、多くの者が自分たちに都合のいい情報を信じたいとする思いが強かったようだ。

 

国立国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(第五師団司令部 撮影[他])

 

 

 この頃、北京政府内では―

一時、非戦派が勢力を盛り返しつつあったが、長江水師大臣の李秉衡が北京に到着すると再び主戦派が主導権を握る。李秉衡はドイツ人宣教師殺害問題で独公使の圧力によって山東巡撫、続いて四川総督を解任されていた。その恨みを晴らそうとするかのように、兵を率いて北京に駆けつけて主戦論を説いたのだった。そして血祭りにされたのがが許景澄(きょけいちょう)(えん)(ちょう)あった。二人は総理衙門の大臣として早期から義和団の鎮圧を主張し、外国との開戦にも反対していた。その二人が外国人党(かど)西太后の命によりこの日斬首されたのである。

 とにかく後に引けない主戦派は公使館への攻撃を再開してあくまでも排外を進めようとし、非戦派は停戦して外国軍の北京進出を避けようと模索していたのである。

(つづく)