用心のために、同じ内容の手紙が天津に向かう米公使の密使にも託されていた。日本が雇った密使は物売りをしていた甘軍の兵士で、購買係の杉と林が見出したのだった。物売りに来る兵士にやたらと銭を貪るものが一人いたので、試しに金は望みどおり支払うから天津まで手紙を持って行ってくれないかと話すと、その兵士はいくらくれるかと問い返してきた。そこで天津に行って返書を持って帰れば100両与える、不足ならば別に褒美を増やすと答えると、兵士は確かに100両くれるかと念を押したうえで承諾したのだった。

 

 これまで雇った密使はそのほとんどが清兵や義和団に捕えられていたようなので、清兵による密使は成功する可能性が高かった。ただ柴中佐らは特別あてにはしていなかった。

 のちに柴中佐が密使について難儀したと語っている。密使の多くは教民を使って僧侶とかいろいろな人物に仮装させ、ついには女性まで出したが達しなかったのである。6月20日以降日本だけでも28通も出したが、そのうち無事目的地に着いたのは4通、また援軍から我に達したのは3通のみであったという。

 

 ―7月23日 雨 32.2℃

 昨夜からの大雨は午前中まで続いていた。正午過ぎから晴れて蒸し暑さが激しくなる。負傷した楢原書記官が破傷風を発症して危篤に陥っていた。

 この夜、北堂(天主教堂)の方から激しい銃声が聞こえた。そこには欧米人と教民ら約3000人が籠城しており、それに援軍の陸戦隊から将兵42名が分派されていた。

 

 ―7月24日 曇 31.1℃

 午前5時に楢原書記官が亡くなる。結婚して2年ばかりの妻と二人の乳幼児を残してこの世を去るのはさぞかし無念だったに違いない。せめてもの救いはそばに3人がいたことであった。

 服部は、「同君の学識と外交の手腕とは人の認むるところにして今喋々(ちょうちょう)を要せず。其の死は我対清外交上実に少なからざる損失と()うべし」と(いた)んだ。

 

 明け方、あの間諜が東阿司門に来て杉を呼ぶ。その報告によると、連合軍は7月

17日に楊村まで進出し、同19日に同付近で清軍と戦闘になる。清軍は大敗し、負傷者150人ほどが北京に続々到着しているということだった。杉は金を与えて以後の情報入手に努めるよう示す。柴中佐は中国人の報告と明記して英公使に通報すると、英公使はすぐにその状況を公使館内に掲示した。それを見た各国の人々はみな歓喜していた。

 

 服部が昨夜の銃声について清兵に尋ねると、2000人あまりの義和団が北堂を攻撃したらしいが、打ち破れなかったということだった。

 休戦のような状態が1週間ほど続いたことで陣地は堅固になり、兵士らは休養が得られ、日本の弾薬も英公使と米国書記官のおかげで補給が進んでいた。(つづく)