―7月9日 晴 34.4℃

 午前、清兵は岩築山から緩慢な射撃をし、その北東から時々砲撃を行なった。

 昨日、清兵から中壁中門に対する攻撃を受けて、守田大尉はその重要性を再認識する。もし敵に取られたら北山と停山堂の我兵は退路を断たれて孤立する可能性がある。守田大尉は清兵の緩慢な攻撃時に中壁中門の陣地を強化した。清兵は工事を妨害しようとレンガや石を激しく投げつけてきた。それに対して教民らが投石して作業を助ける。

 

 伊兵が防御する北山はここ連日激しい銃砲撃受けていて、この日耐えきれずに南の裾まで退却する。清兵はその高所をたちまち占領し、伊兵を見下ろして射撃した。伊兵は以前に増して苦しい戦いをすることになる。

 

 ―7月10日 晴 33.3℃

 英兵10名が伊兵の護る北山に増援された。おそらく伊兵では持ちこたえられないと英公使が判断したのだろう。北の正面が抜かれたら粛親王府の防御は一気に瓦解してしまう可能性があった。そうなると仏公使館は2方向から攻撃を受けてすぐに陥落してしまう。やはり王府はこの戦いにおける天王山であった。

 

 清兵は午前7時ごろから停山堂を攻撃してきた。正午ごろになると、岩築山東北側から大砲で停山堂を乱射した。攻撃が最も激しかったのは午後2時ごろで、銃眼が設けられた北壁は半分以上破壊される。

 

 午後4時ごろになるとこの正面の清兵は後退し、それと同時に別の清兵が北側から中壁中門来襲する。清兵は反撃されても怯むことなく銃眼口に銃を突っ込んで射撃するのだった。後続の清兵は陣内に射撃を集中し、また中壁越しに雨下のごとく投石した。日本側も射撃と投石で応戦し、その攻防はしばらく続いたが午後6時になると清兵は後退していった。

「今や敵と我とは僅かに一枚の土壁で接する事になったので、お互いに瓦や石を()罵詈(ばり)を加える等して、まるで子供の遊びの様であった。予は例の破裂弾を発射したところ、うまく敵中で破裂したらしい」

 この戦闘で、2等水兵間瀬浅次郎と電工の小寺梅吉が頭部に軽傷を負っている。

 午後10時ごろ、中壁中門に清兵が夜襲をかけきた。戦闘は午後11時ごろまで続いた。このときに2等機関兵河内三吉が頭部を撃たれて死亡している。

 

 英国公使館の病室で治療中の教民隊長野口多内は粛親王府の銃砲声が気になってしかたがない。傷もだいぶ治ってきたので独の軍医に退院を強く要望した。許可がおり、野口は喜んで王府にむかう。ただ教民隊の指揮は楢原書記官が執っていたので、野口はしばらく王府内の総本部で休養することになった。

 

 日本の兵士らは睡眠不足のなかで激しい戦闘を続けており、慢性的に疲弊していた。加えて食料事情も厳しさを増していて減食で栄養不足の状態にあった。そのため兵士らの身体は徐々に痩せ細っていった。1日に食べる食事の量は持久のために7月から減らされていたが、前日、さらに食事の量を減らすことが決められたのだ。それでも食料は残り10日分しかなく、あとどれぐらいこの戦闘が続くかわからない。食料がなくなったら籠城は終わりとなる。1日でも長く持久するために減食は止むを得ない措置であった。

 

 もしかすると、減食の判断に柴中佐の経験が生かされていたのかもしれない。下北の極貧生活での食事は大豆やジャガイモなどが入った粥に、おかずは雑草だった。それでも飢え死にすることはなかった。とにかく今は飢え死にすることなく持久させることにあった。この日から朝は粥となる。(つづく)