第一線の日本兵らはひたすら遮蔽物に拠り、あるいは伏せていた。

「我陸戦隊も亦た前進せず遂に一弾をも発射せしめず。只だ、日を終るまで此処に伏止せるのみ」

 夜になるとようやく清兵の射撃も衰え、連合軍は現在の位置で防御態勢をとって次の攻撃に備えた。その夜の司令官会議で翌朝の攻撃計画が決まる。

 

「一、日本軍にて城門を破り進入するに付諸軍は之に続行すること

 二、日本軍は城門を入れば右方の壁上を、仏軍は左方の壁城を、英米軍は城内を直進して城の北壁を占領すること

 三、攻撃軍の指揮を日本軍司令官に委任すること」

 攻撃の主動は日本軍である。それは日本の司令部が他国を頼りなく思ったからに違いない。作戦日誌に記されている。

「此日連合軍の動作に付、仏軍は稍勇敢にしてその一進一退稍見るべきものありと雖ども、其他諸軍の行為を見るに緩慢優柔、少しの危険の地位に立つに至れば(たちま)ち退却して(はじ)ることなく、少数の敵に遇うも直ちに援軍を請う等其行動実に言語に断えたるものあるを認めたり」

 連合軍において、日本軍は突出して精強だった。

 

 ―7月14日

 午前3時半、日本の工兵中隊が南門(外門)を爆破する。日本の歩兵が一挙に突入したものの、内門に行く手を阻まれる。清兵は城壁上から射撃し、あるいは瓦や石を投げ、日本軍は一時危殆に瀕する。

 

 

国立国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(柴田常吉, 深谷駒吉 撮影)

 

 だが事前に準備していた梯子で城壁をのぼり、あるいは直接城壁をのぼって、ついには内部から内門を開けてしまう。怒涛のごとく突入した日本軍はすぐに左右の城壁にのぼり清兵を駆逐して旭日旗を翻す。城内の清兵は多くの死体を遺して四方に遁走してしまった。天津城陥落はあっという間で、仏・英・米が城内に進入したのはその30分後の午前4時ごろであった。各国の指揮官らは日本軍の成功を祝賀し、将兵の武勇を褒め称えた。

 

 午後零時半、露軍の伝令将校が日本の司令部に訪れ、露軍指揮官の要請を伝える。

「露軍は昨日来淀河北岸の敵を駆逐しつつ鉄道線路付近に達せり。然るに水師営砲台及び其付近の兵営には猶多くの敵兵ある故に今日(せん)(きゅう)(ほう)を以て之を砲撃せんとす。依て貴軍に於ても亦城内より之を砲撃し、我を援助せられんことを望む」

 福島少将はこれを引き受ける。だがすでに水師営砲台は停車場で防御していた日本の部隊が占領していたのだった。天津城陥落後、停車場の連合軍と対峙する清兵が逐次退却していた。停車場を守備していた日本軍は清兵が退却する兆候を認め、一部を残して主力が清兵を追尾する。そしてとうとう水師営砲台を占領してしまったのである。

 

 

国立国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(柴田常吉, 深谷駒吉 撮影)

 

 それに対して露軍は、昨13日に鉄道線路付近で清兵の頑強な抵抗を受けると攻撃をやめてしまう。そして敵情監視を怠り、さらには敵情を確認することなく日本に射撃支援を要求していたのだった。(つづく)